服部正明・上山春平『認識と超越〈唯識〉』(仏教の思想4)


はじめに


 唯識派は、仏陀が亡くなってから1000年後ごろに登場した大乗仏教の代表的一派だ。

 その2世紀後、『西遊記』のモデルになった玄奘が中国に伝え、さらに海を越えて、大化の改新後の日本にやってきた。

 唯識思想の体系化に重要な役割をはたしたのは、4〜5世紀ごろに活動したアサンガ(無着)とその弟ヴァスバンドゥ(世親)

 以下、彼らの思想を中心に、唯識派の考えを見ていくことにしよう。


1.外界の存在物などない(一切は心の生み出した表象である)

 第2巻で見たように、大乗仏教以前のアビダルマの哲学者たちは、基本的に物は物として存在するという「実在論」の立場をとった。

 彼らは究極的な存在要素を、

(1)物質的存在(色)
(2)心
(3)心作用(心所)
(4)心に伴わぬもの(心不相応行)
(5)無制約的なもの(無為)

 の五種に分類した    

 しかし唯識派はこの実在論を批判する。すなわち、


「「唯識」とは、ただ表象があるのみで、外界の存在物はないという思想なのである。」

「人間存在は「心の流れ」(心相続)であり、心を離れて外界に存在すると一般に認められているものも、心が生み出した表象にすぎない。」    

 第3巻で見たように、中観派もまた実在物の存在を否定した。そして一切は「空(くう)」であると説いた。

 それに対して唯識派は、一切は心が生み出したものであると主張するのだ。


2.アーラヤ識

 にもかかわらず、わたしたちはふだん、外界に事物が存在していると素朴に考えている。

 このような心の構えを、唯識派は「アーラヤ識」と呼ぶ。

 唯識派が訴えるのは、この識から解き放たれることの重要性である。

「長期にわたる唯識観の修習よって、アーラヤ識の流れが絶たれるに至ったとき、真如・法界が現成するのである。」
   
 「アーラヤ識」こそが輪廻をもたらすものである。ここから解脱するためには、この識の流れを絶たなければならないのだ。


3.瑜伽行(ヨーガ)

 ではそれはいかに可能か?

 唯識派は、瑜伽行唯識派とも呼ばれる。

 「瑜伽行」とは「ヨーガの実践」という意味だ。

 唯識派は、解脱のためにこのヨーガの実践をきわめて重視した。

 ヨーガは、仏教以前から古代インドにおいて実践されていた精神統一の実修法だ。

 5世紀ごろに編纂された『ヨーガ・スートラ』によれば、ヨーガとは心の働きを滅することで、それには8種の実修法がある。

(1)制戒(ヤマ):生物を殺害しないこと、真実を語ること、他人の財貨を盗まぬこと、禁欲生活をすること、ものを専有しないこと。

(2)内制(ニヤマ):身心を清らかに保つこと、生命を維持するに足るだけのもので満足すること、寒熱・飢渇に耐え、断食などの苦行をすること、聖典を学習すること、最高神に専念すること。

(3)坐法(アーサナ):不動で安楽な坐法を修得すること。

(4)調息(プラーナヤーマ):呼気・吸気を調整すること。

(5)制感――(プラティヤーハラ):感官を制御して外界の対象に結びつかないようにすること。

(6)凝念(ダーラナー):臍とか鼻端とか、一定のところに心を集中すること。

(7)禅定(ディヤーナ):意識作用が持続的に一つの対象に集中して、他の意識作用に妨げられない状態。

(8)三昧(サマーディ):禅定の深まりによって、意識作用自体は空になり、対象のみが心のなかに輝く状態。

 唯識派は、外界の対象に向かう感官を制御して心のはたらきを静める止心と、静まった心に対象の映像をありありと映し出す観察を重視する。

「瑜伽行派とは止観の実修を重んずる学派であると理解してよいであろう。」

 止観において、わたしたちはアーラヤ識を滅することができるのだ。


4.実在論批判

 唯識派が外部実在を否定する論理について見ていこう。

 その論理は、ヴァスバンドゥの『唯識二十論に詳しく書かれている。

 たとえば、実在論者が次のように疑問を呈したとしてみよう。

「実在しない髪の毛などの幻覚は、眼病者のみにおこるのであって、他の人々にはおこらない。それに反して、ある物の表象はただひとりの人にのみ生ずるのではなく、場所と時間とを同じくするすべての人の心に生ずるのはなぜか。」

 唯識派は外部実在は存在しないと言うが、じゃあなぜ誰もが同じ物を見ているのか。そう実在論者は問うわけだ。

 これにヴァスバンドゥは次のように答える。

「前世で行なった行為の結果として餓鬼の状態におちいっている者は、みな一様に、清らかな水が流れている河を前にして膿や尿や汚物に満ちた河の表象をいだき、実際にはそこにおりもしない番人たちが、棍棒や剣をもって監視しているという表象をいだく。したがって、表象がひとりの心だけに生ずるのではないからといって、対象が外界に実在することを認めねばならぬ理由はない。」

 要するに、みんながみんな同じ幻想を同時に抱いているのだとヴァスバンドゥは言うわけだ。

 あるいは次のような批判もなされる。

「眼病者の幻覚にあらわれるものや夢の中で見られるものなどは、実際にその効用をはたさない。夢の中で蛇に岐まれたり武器で傷つけられたりしても、目ざめたとき身体に毒がまわっていたり、傷跡がのこっているということはないのである。しかし、目ざめているときに表象されるものは、実際の効用をはたす。このことはどう説明されるか。」

 一切は心が生み出した幻想だと言うが、しかしそれによってわたしたちは実際に怪我をしたりすることがある。それはどう説明するのか、というわけだ。

 これに対してヴァスバンドゥは言う。

「夢の中にあらわれた異性との交わりによって夢精がおこる。すなわち、実在しないものでも実際に効用をはたすのである。」

 1つめにせよ2つめにせよ、かなりのへ理屈のように思えなくもないが、ともかくこのようにして、唯識派は外部実在の実在性を否定するのだ。

 この唯識派の論理形式は、第3巻の中観派のページでも言った通り「帰謬法」である。

 詳細は割愛するが、わたしたちはどんな命題も、帰謬法を使えば言葉の上では否定することができる。

 だから実を言うと、アビダルマのような「実在論」と、唯識派のような「唯心論」との対立は、互いに帰謬法を応酬し合っているかぎり永遠に決着のつかない問題なのだ。


 主観か客観か、唯物か唯心か、変化か不動か……こうした形而上学的問題には決して決着をつけることができない。そう論破したのは、18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントだった。

 西洋哲学は、カント以降、行きつ戻りつしながらも、こうした形而上学的問題を「禁じ手」にすることで、哲学の次の一歩を展開することになった(カント『純粋理性批判』フッサール『現象学の理念』のページなど参照)。

 一方の仏教哲学は、そもそもブッダ自身はカントにはるかに先駆けて形而上学的問いを禁止したにもかかわらず、その後は結局、決して答えの出ない形而上学に明け暮れたように思われる。

 しかしそのことは、さしあたりここでは措いておくことにしよう。


5.識の変化

 唯識派によれば、実在物があるのではなく、あるのはただ「識の変化」のみである。 
 
 ここでいう識には、アーラヤ識・自我意識・六の3つがある。

 アーラヤ識とは、先述したように、 わたしたちの輪廻の根拠となっている迷える識だ。

  アーラヤ識とはあらゆる存在するものの種子の住居であり、「一切の種子をもつもの」である。〔中略〕輪廻的生存はこうして不断に流れるアーラヤ識をその根拠としているのである。」    。

 自我意識はこのアーラヤ識から生ずるものだ。

無限の過去からくり返してきた、実在しない自己を仮構することの余習がアヤ識の中に種子として保持され、それが成熟して現勢化したものが自我意識なのである

 わたしはわたしとして実在する。そのようにまちがった思いを抱いてしまうのが自我意識なのだ。

 最後の六識もまた、アーラヤ識から生じ、五種の認識器官(眼・耳・鼻・舌・身)および思考力を媒介とする、それぞれの対象の認識を意味する。

 要するに、外部実在を信じてしまう識である。

 これら3つの識の機能によって、わたしたちはいっさいが心の表象であるということに気づかず、外部実在が存在すると思い込んでしまっているのだ。


6.三種の存在形態

 最後に、唯識派に独特の「三種の存在形態」について述べておこう。

 この三種とは、「仮構された存在形態」「他に依存する存在形態」「完成された存在形態のことをいう。  

 「仮構された存在形態」とは、たとえば壷・布などとして規定されたとおりに存在すると認められているものだ。

 しかしこれは、繰り返し述べてきたように真の実在ではなく仮構されたものである。

 「他に依存する存在形態」とは、呪術師によってつくり出された幻の象や馬のようなもので、それ自体として生じているものではない。

 最後の「完成された存在形態」こそが、いわば真理の世界である。

「「完成された存在形態」は真如そのものである。それはつねに現象的存在における自己同一的な本性の否定を通して開示されるものであるから、最高の真実としての「無本性」である。」

(苫野一徳)

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