田村芳朗・梅原猛『絶対の真理〈天台〉』(仏教の思想5)



はじめに


 インドで生まれた『法華経』は、6世紀の中国において、特に天台智顗(ちぎ)によって大きな思想体系となった。

 そしてその体系は、8世紀の最澄によって、日本においてさらに発展することとなる。

 最澄の開いた比叡山は、その後の鎌倉仏教のゆりかごとなった。

 栄西・法然・親鸞・道元・日蓮などの鎌倉新仏教の祖師たちは、もとはみな叡山の学僧だった。

 日本仏教において絶大な影響を誇った、天台思想の本質とはいったい何か?


1.中国仏教界における大革命


 5世紀ごろ、西域出身のクマラジヴア(鳩摩羅什)によって、数多くの仏教経典や論書が翻訳・紹介された。

 すると、中国の仏教界には大革命が起こることになった。

 ポイントは2つある。

 1つは、仏教における「空」の思想について、それまでの解釈の誤りが明らかにされたこと。

 仏教がまだあまり知られていなかったころ、中国人は、「空」の思想を老荘「無」の思想と同じものと考えていた(『老子』『荘子』のページ参照)。

 しかし、老荘思想における「無」が「有」の対概念としての「無」であるのに対して、仏教の「空」は、「ある」とか「ない」とかいったことを超越した概念である(『仏教の思想3:空の論理』のページ参照)。

 こうして、中国では「空」についての考察が深められることになった。

 もう1つは、諸経論が翻訳・紹介されると、それらを整理し、体系づける要求がおこり、いわゆる「教相判釈」が立てられるにいたったことだ。

 教相判釈とは、仏教学者が諸経論を価値づけ配列づけたものである。


2.『法華経』

 教相判釈においては、まず「空」を明らかにした『般若経』がもとにされ、その真理の純一性をあかす『華厳経』を最初に、永遠性をあかす『涅槃経』を最後に置き、総合統一性をあかす『法華経』を中間に位置づけることが一般的だった。

 要するに、『華厳経』と『涅槃教』は、『法華経』よりも高い位置にあるものとされていたのだ。

 ところがここに天台智顕(ちぎ)が現れて、『法華経』を最高位にすえて教判を立てた。

 『法華経』が説くのは、宇宙の統一的真理としての「一乗妙法」である。

 これは空なる真理の積極的表現である。

「空なる真理を少しく積極的に表現すれば、無限にして絶対の真理ということになろう。というのは、精神とか肉体は、精神的なものとか肉体的なものという限定的・対立的なものによってでなく、そのような限定・対立をこえたもの(空)によってささえられているからである。」    

 いわば究極の一元論である。『法華経』において、「一乗妙法」は総合統一的な真理と解されたのだ。


3.『華厳経』

 それに対して、『華厳経』では「一乗」を無雑純一性と解する(『仏教の思想6』のページ参照)。

 ここに、『法華経』を最高のものと見なす天台哲学と、『華厳経』を最高のものと見なす華厳哲学との論争が巻き起こることになる。

 天台哲学にとって、「空」の真理はこの世の一切である。

 それに対して、華厳哲学からすれば、天台哲学には「生成」の観点がきわめて薄い。いわばあまりに「静的」(スタティック)な哲学だ。しかし一方の『華厳経』には、無雑純一性に向けての運動がある。つまり、現実界と理想的な世界の相剋を通して、この現実界に働きかけようとするダイナミックさがある。

 こうして、天台哲学は性具説、華厳哲学は性起説といわれるようになった。


4.最澄(天台宗)と空海(真言宗)

 最澄が天台を日本に持ち帰ると、代表的な仏教思想を法華の一乗のもとに結集し、仏教の一大総合体系の確立をはかった。

 ちなみに、本書の著者は、この最澄による体系は、同時代のライバル空海の体系と比べれば完成度を欠くものだったといっている。

 しかしそれゆえにこそ、天台哲学はその後すぐれた僧たちによって深められていくことになった。

 それに対して、すでに完成を見た空海の真言宗は、もはや学的に深められることなく、単なる呪術仏教に堕す危険に瀕したという。


「空海の思想体系は、みごとに完結したもので、教理的には、つけ加えるものを残さなかった。そのために空海以後の真言宗は、もっぱら神秘体験の技術をみがくことに集中しいった。いわゆる教相にたいする事相の重視である。比叡山は人格完成の道場、真理探究の学山となったのにたいし、高野山は秘法伝授の霊場、神秘体験の霊山となっていった。
 真言宗は事相にもっぱらとなっていくうち、しだいに教相面をたなあげし、その結果、真言密教が単なる呪術の施行になりさがる危険性が生じた。」


 一方、天台宗は最澄による体系化が十分でなかったために、その後も学問的に発展することになった。「はじめに」で述べたように、その後の鎌倉仏教の祖師たちは、この天台の比叡山から現れたのだ。


5.天台本覚思想

 こうして磨かれた天台思想は、天台本覚思想と呼ばれるようになった。それは次のような思想である。


「多種多様な事象が生起・変滅する現のすがたこそは、永遠・普遍な理の生成躍動のすがたであり、そこにこそ、ほんとうの生きた真理が存するということである。〔中略〕仏についていえば、凡夫のふるまいに真の仏のすがたが見られ、浄土についていえば、えどただいま穢土のただなかに真の浄土のありかが知られ、時間についていえば、只今のひとときに真の永遠のいぶきが感ぜられるということである。」    
 
 先述したように、究極の一元論であるといっていい。

 しかし、哲学理論としての頂上は、しばしば宗教実践としては谷底になる。

 天台本覚思想は、ある意味では一切を肯定する思想である。それゆえそれは、実践的には現実変革の力を持ち得ない。

 ここに、法然をはじめとする鎌倉仏教が起こってくる1つの理由があったのだ。


6.妙法蓮華経

 『法華経』について、もう少しだけくわしく見ていこう。

 『法華経』の題目は、いうまでもなく「妙法蓮華経」

 智顗は、これを「絶対的絶対」(絶待妙)であるという。

 智顗によれば、絶対には相対的絶対(相待妙)と絶対的絶対(絶待妙)の二種がある。

 前者は、相対的存在にたいして立てられた絶対的存在。したがってそれは、真の絶対とはいえず、いわば相対的絶対である。

 それに対して絶対的存在は、相対的存在と絶対的存在との相対対立を突破超絶したものである。


7.従仮入空(じゅげにっくう)・従空入仮(じゅぐうにっけ)・中道第一義


 この絶対的絶対の世界観からすれば、現世(仮)から「空」の真理に入り込む(従仮入空だけでは不十分である。ここからさらに「従空入仮が必要とされる。

「従仮入空は、空にとどまることではなく、空もまた空(空空)と観じ、空の真もまた真にあらず(真非真)として、空から仮への逆入となるものである。これ、空より仮に入る、すなわち「従空入仮」ということである。」


 さらにいうなら、従仮入空にとどまらずまた従空入仮にもなずまず、両観双存用でなくてはならない。

「これが、「中道第義」ということである。簡単にいえば、空と仮のいずれにもかたよらず、常に空仮相即の中を保持していねばならないということである。」


8.十界互具

 となれば、当然、十界もまた次のように解釈されることになる。

 十界とは、地餓鬼畜生阿修羅人間天上声聞縁覚菩薩仏の十界のこと。

 大乗仏教では、世界はこのような階層に分けられている。

 しかし天台思想からすれば、地獄に仏界あり、仏界に地獄ありということになる。

「十界全般にあてはめれば、十界のそれぞれに十界がそなわっているということである。これが、天台智顗の説く十界互具である。」

 以上のように天台の思想は徹頭徹尾包括的である。

 こうした天台の思想を、著者は先述した華厳哲学と比較しながら次のようにいう。

「われわれの思想は、大きくはつの傾向に分けられる。一つは、統一的真理にひかれ、統一的世界観に立ち、また現実を重視し、理想と現実の総合をこころみるものである。いいかえれば真理の具体的普遍に注目し、その意味で現実主義の傾向をたどるものである。いま一つは、純一的真理にひかれ、純一的世界観に立ち、また理想を重視し、理想のかがやきに心おどらせるものである。いいかえれば真理の生成的力動に注目し、その意味で理想主義の傾向をたどるものである。前者のモデル・ケースが天台哲であり、後者のモデル・ケースが華厳哲学である。そのいずれをとるかは、個々にまかせられた問題であり、仏教思想史上においては、時と場合に応じて、そのいずれかに傾いていったのである。




(苫野一徳)

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