鎌田茂雄・上山春平『無限の世界観〈華厳〉』(仏教の思想6)


はじめに

 「華厳」の「華」とは、いうまでもなく花のこと。

 他方、「厳」は「よそおう」ことを意味する。

 つまり「華厳」とは花でよそおうこと。

 無数のほとけによって彩られた無限の世界。それが華厳の世界観なのだ。


「『華厳経』の真のねらいは、この世の浄化であった。人間の魂の触れ合いの美しさを説くのであった。」

 『華厳経の教主である「大毘盧舎那仏」は、光明のほとけ。この光が世界のすみずみにまで染み渡った世界こそ、華厳が説く世界なのだ。



 華厳宗は、中国の杜順(とじゅん)、智儼(ちごん)、法蔵(ほうぞう)などによって、600〜700年頃にかけて創唱され大成された。

 日本に伝えられた華厳宗は、聖武天皇によって建立された東大寺のよりどころとなった。国家仏教を代表する地位にまでのぼりつめたのだ。

 しかし、権力と結びつき、またいくぶん哲学的・教学的にすぎた華厳宗は、その後の鎌倉仏教においてはより実践的な性格を与えられていくことになる。

 とりわけ、華厳の思想は禅宗に受け継がれていくことになる。

 この傾向は、中国でも同様だった。

 中国では、華厳宗は唐の則天武后の時代に全盛をむかえたが、後にその思想は禅宗に受け継がれていった(『仏教の思想7』のページ参照)。


1.『華厳経』の思想

 『華厳経』の説く世界は、広大無辺。時間的にも空間的にも、無限である。

 『華厳経』の一章「慮舎那仏品」には次のような記述がある。

「世尊が口および一つ一つの歯の間から、無数の光明を放って、十方の世界を照らし、その光に照らされた菩薩衆は、蓮華蔵世界を見ることができた。その蓮華蔵世界のまわりには、無数の世界が存在し、その一つ一つの世界のなかには、おのおののほとけが安座している。さらに一つの蓮華蔵世界を中心として、無限の蓮華蔵世界が、おのおののほとけを中心として存在している。

 この広大無辺の世界のすみずみにまで、ほとけの光が行き渡っている。華厳はそのように説く。

 では、わたしたちはその世界をどうすれば見ることができるのだろう?

 『華厳経』は、「浄心こそ諸仏を見る」と説く。われわれの心が浄らかな仏心になりきるとき、ほとけを見ることができるというのだ。

「なにも見仏の体験とはむずかしいことをいうのではない。心を浄らかにすればよいのだ。〔中略〕それでは浄心になりきるにはどうしたらよいか。それは自我を空ずることだという。」    

 『華厳経」では、心(しん)・仏(ぶつ)・衆生(しゅじょう)・是三無差別(ぜさんむさべつ)が説かれる。

 ほとけとは、わたしたちと別のもののことではなく、わたしたちの心こそほとけであり、その持ちようによって、わたしたちはほとけになりうるのだという考えだ。


2.一乗思想

 法華学の大成者は法蔵といわれるが、その功労は「一乗思想」の完成にあった。

 「一乗」とは、従来の「三乗」に対する言葉として用いられるものだ。

 「三乗」とは、人の資質や能力に応ずる悟りの道として、「声聞乗」「縁覚乗」「菩薩乗」の三つをいったもの。

 「声聞乗」とは、直接にブッダの教えを説く声を聞き、忠実にその教えに従って解脱すること。

 「縁覚乗」とは、ブッダに直接に師事はしないが、十二縁起を観ずることによって覚りを開くこと。

 ただし、これらの人びとは、自分は解脱することはできるが人を解脱させる力も志も持っていない。

 これに対して、「菩薩乗は衆生を救済しようとする理想に燃える人である。

 これらの立場は、往々にして互いに批判し合う。

 「一乗」は、この対立を乗り越えるために登場した考え方だ。

「一乗は、はるかに三乗の外に立ちながら、しかも三乗を包摂している。」

 「一乗」には2種類ある。同教の一乗と別教の一乗だ。

 同教は、三乗を排して一乗を唱える考え方で、と呼ばれる。法蔵によれば、これは「天台」の教えとされる(『仏教の思想5』のページ参照)。

 別教は、三乗を包容しつつ、その上に一乗を主張する考え方で、「直顕(じきげん)の一乗」と呼ばれる。これが華厳の立場だ。

 華厳教学においては、当然同教より別教のほうがすぐれているということになる。著者の鎌田氏はいう。

真の絶対の立場は、現実・相対の衆生の世界を包摂しつくしていなければならないのである。人間性の根源悪に即してこそ、仏の慈悲は発動してゆく。蓮華の花は、泥沼に咲いてこそあのしさを保てるのである。浅い低い乗を包容しつくしてこそ、乗をこえることができる
「絶対」ということを、相対に即してこれほど徹底的に基礎づけたものは、他に類を見ないであろう。ヨーロッパの哲学であるならば、キリスト教の神の絶対性がどこまでも付着する。


3.円融・融通・無礙

 このような華厳の世界観は、個物がそれぞれ独立していながら、しかもたがいに融和し、調和しているという「重々尽」「一多融即」を説くものだ。円融・融通・無礙といってもいい。

 その意味で、華厳は、キリスト教の神の世界のように、現実界と区別されたところに「絶対」を置くのではない。それは相対と区別された絶対であって、真の絶対とはいえない。

 絶対の絶対とは、この世界のいっさいに絶対が貫かれていることを洞察するものなのだ。

華厳の心識説の究極は、意識的自己もなくなり、要請としての理体も消失し、現にここに存在している事物そのものの融通無礙なることを説くことにある。


 このような世界を、華厳では法界(ほっかい)と呼ぶ。

 華厳宗の第四祖澄観は、この法界に4種をもうけたが、中でももっとも高い位置にあるのが第4の「事々無礙法界」だ。


現実に存在する森羅万象を、悟りを開いたほとけの知恵からみるとき、成立するのが第四事々無礙法界である。そこでは森羅万象はそれぞれ独立しながら、たがいに調和している。

「自と他とがたがいに分限を守りつつ、しかも相通ずるのは、慈悲という絶対愛による以外にはない。それは無我の愛であり、ほとけの知恵でなければならぬ。


4.天台の「性具説」、華厳の「性起説」

 台も華厳も、中国仏教の精華といわれるものだ。

 どちらも現実のなかに真理を見出す現実の絶対肯定論であり、個物のなかに普遍の内在を認め、迷える衆生に絶対の価値を見出した。

 しかしその教義は、互いに少し異なっている。

 一般に、天台は「性具(しょうぐ)説」、華厳は「性起(しょうき)説」と呼ばれる(『仏教の思想5』のページ参照)。

性起の「性とは、どんな人間であっても本的にそなえている心性仏性であるといわれているが、人間のあるべき理想態としての自性清浄心と別なものではない仏教では普通にそれを仏性ということばで表わしている

「わたしたちの心のなかには、ほとけが結跏趺坐しているということになる。長い間かかって修行し、しだいに煩悩をなくして、ついに清らかなほとけの心になるというのではない本来わたしたちは成仏しているのだと説くのが性起にほかならない。」

 わたしたちは本来成仏している。より正確にいうと、わたしたちはほとけのいのちから出てきたものなのだ。

 他方、「性具説」の天台は、個物はほとけのいのちを本具するとみる。いわば、天台は凡夫の立場からほとのいのちをみ、厳はブッダの立場から凡夫をながめるのである。

「このような思想の本的あり方の相違から、おのずと異なった実践論が導かれる。天台では凡夫の立場より向上解脱をはかるために、止観や観心が必要となり、華厳ではほとけの顕現としての性起観が用いられるようになる。


(苫野一徳)

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