塚本善隆・梅原猛『不安と欣求〈中国浄土〉』(仏教の思想8)


はじめに

 日本では、中国浄土教は法然ら日本浄土教への発展段階の思想としてとらえられる傾向がある。

 しかし言うまでもなく、中国で浄土教が発展したのにはそれ相応の時代背景がある。

 インドから中国、そして日本へと伝わった浄土教の思想は、いったいどのようなものだったのか?


1.インドから中国へ

 仏教が世界へと発展していった最初の契機は、前326年、アレクサンダー大王によるインド遠征にある。

 この時に平和締結を行ったインドの王朝は、マウリヤ朝

 その第3代アショーカ王は、インド最大の統一大王となったが、その後みずからの征服行為を懺悔し、仏教に帰依することになる。そして仏教を、世界各地へと普及させていく。

「ギリシア系のミリンダ(彌蘭陀)王が、仏教僧ナーガセーナ(那先比丘)に人生問題を問いかけたことは、パーリ語経『ミリンダの問い』や、漢訳『那先比丘経』に伝えられるが、これは仏教がギリシア的思惟課題をも取り入れる必要に迫られたことを意味する。インド仏教は、いよいよ世界仏教へと拡大されはじめるのである。」    

 さて、その一方で、仏教は大乗仏教と小乗仏教とに分裂し争い合っていた。

 小乗仏教(これは大乗仏教側からの蔑称だが)から見れば、大乗仏教などブッダの唱えた仏教ではない。

 他方の大乗仏教から見れば、小乗仏教は教義学ばかりを発達させ、衆生を救うことを考えないものだ。

 この大乗仏教運動の中から、浄土教は誕生することになる。

 彼らは自らを「ボサツ」と呼び、衆生の救済に心を尽した。

「彼らはまず、仏道を体得し、すべての人々の救済者となるまで身命を惜しまず、一切の苦悩を断ち切る修行にとりくみ、すべての仏法を学びとり身につけるまで、一歩の退転もなく、一時の懈怠もなく、精進しつづける、という金剛の決意を固め、誓約(四弘誓願)を立てて仏道に向かった。これを菩提心といい、ボサツの大乗仏教修行の基礎とする。そしてこのボサツの仏道精進にさいして立てる誓願、あるいは本願は、自己ひとりの完成をめざさずに、必ず一切の衆生に向けられた救済の大慈悲心に立つものとして、発展していく。そしてそれこそ浄土教の重要な基本となるものである。」

 この小乗仏教と大乗仏教の争いは、インドに発し、やがて中国へと行きつくことになる。


2.仏像の誕生

 浄土教が発展した一つの背景に、仏像の誕生を挙げることができる。その発祥の地からガンダーラ美術とも呼ばれるこの芸術は、1世紀頃に始まり2〜3世紀に全盛期を迎えたとされている。

 インドの仏教徒は、当初は仏像を作らなかった。しかしいわゆるヘレニズム文化との融合を通して、まばゆい仏像が作られるようになると、これが浄土教を大きく後押しすることになる。

仏像を礼拝することが心を仏像に専注統し、仏像を観察思念して仏国の仏を見る修行法を生みだした。仏像を中心に、念仏三昧、観仏三昧といわれる心統一の実践行が勧められ行なわれると、その背後に仏は永久に生き在すとの信仰を養う。」

「仏像をまつった仏殿の発達は、いつか浄土往生の願求の心田を耕す環境をつくってゆくものである。浄土教も当然に発達してくる。」


3.中国浄土教の誕生

 中国に仏教が導入されたの時代、隆盛を極めていたのは儒教だった。

 儒教はきわめて現実主義的な宗教だが、輪廻転生を説く仏教は、いわば中国人の精神の虚をつくような形でやって来たのだ。

 輪廻は仏教以前からあるインド宗教の基本教説だが、浄土教は、この輪廻の教説を基礎に発展していくことになる。

「輪廻転生の不安、畜生や餓鬼・地獄に生まれるかもしれぬ不安を抜ける唯一の道は、仏道を学び体して、ブッダになることである。しかし、もし、それが現在世に実現されがたいとすれば……。この不安に答えて浄土教が発展した。仏が現在して説法し指導している仏国=浄土に生まれることである。その浄土で現在仏に説法を聞き、その大慈悲に育成されつつ、さとりに進むことである。」


4.兜率天とミロク

 仏教における浄土の1つに、兜率天がある。

「ブッダの伝によると、彼は地にブッダとなって教化をたれるよりも前に、ずっと昔から天上の兜率天で、地上に生まれ成仏し衆生を救済する時機を待っていて、時って王妃摩耶の胎内を借りて誕生したという。

地上に現われた仏はシャカムニだけではない。シャカムニが世に出る以前にも、六仏が、時を隔ててつぎつぎに出て世人を教化した。シャカムニは第七仏として世に出て、八十歳まで教化を修まずたゆまずつづけて世を去り過去仏となったこののちにもシャカムニの跡を継いでこの世に出るブッダがある。それがミロク(彌勒)仏である

「ミロク仏も、かつてのシャカムニと同様に、今はボサツ(菩薩)として兜率天で人間界へ下生する時機を待っているのだ。」

 しかし多くの人びとは、ミロクが地上へやって来るはるか未来を待っていることはできない。

 そこで人びとは考えた。我が命が終わった時は、ミロクがいる兜率天に再び生まれさせたまえ、と。


5.西方浄土とアミダ

 しかしやがて、浄土教ではミロクの兜率天より、アミダのまします西方浄土の方が圧倒的に人気になっていく。

 浄土教の始祖と言われる慧遠(えおん)は、アミダ浄土教の発展を開いた人だ。

「ミロクが仏となって、その教化を受けてさとりを得るときは、遠い遠い数億年ののちだとされる。今を生きて苦悩の解院を求めている人々にとっては、切実な求道心が満たされぬ点がある。これを充足する浄土信仰が、大乗仏教興起に随伴して急速に発展した。    


6.曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)

 しかし慧遠の浄土教は、どちらかと言えば選ばれた賢人隠士の宗教だった。やや小乗仏教に逆戻りの感もある。

 浄土教を実際に発展させていくのは、曇鸞、道綽、善導らである。

 いずれも、江南のはなやかな漢族貴族文化とは縁遠い、華北の胡族支配下における漢人宗教家だった。

 このことからも、浄土教がどこまでも一般大衆に寄り添う宗派であったことがよく分かる。

 曇鸞は、もとは不老長寿の神仙術を体得したいと考えていた。

 しかしその後、インドの菩提流支(ぼだいるし)との出会いによって回心。日本浄土教の師ともされる人物となった。

 曇鸞の死後、その碑前に弟子入りしたのが道綽だ。

 曇鸞がどちらかと言えば学者的であったのに対して、道綽は実践の人だった。

 そして道綽の弟子、善導。彼は長安にあって、当時隆盛を極めていた禅宗・華厳宗・三論宗のみならず、キリスト教、マホメット教、ゾロアスター教などとも対峙した。

「善導は、世界性文化が最高水準に上昇していた長安で、内外諸宗教の宣教競争の中で、もまれ洗練されて大成したことに注意すべきであろう。」


7.二河白道のたとえ

 最後に、善導による二河白道のたとえを紹介しよう。(右絵:重要文化財・光明寺蔵「二河白道図」)

 その後の日本浄土教も、このたとえを好んで用いた。

「西行百千里の長途の旅に出た人があった。旅半ばにして二つの大河が前進を遮断していた。南にあるは火の河、北にあるは水の河、渡るにはあまりにも大きく、深さも底なく回ろうにも南も北も果ては見えない。しかしひとすじの細い白道が東岸から西岸へ、火の大河水の大河の中間に通っているがあまりにも狭い道である。〔中略〕このとき東岸から、恐るるな、ひるむな、目的の西行を決行せよ、この白道に死はないと勧める声を聞いた。同時に西岸から喚ぶ声を聞いた。一心正念にまっすぐに来たれよ。われよく汝を護る。けっして水火に落ちる難を畏れざれ、と。彼の心はいよいよ堅く決定して白道を踏み出し進んだ。東岸の群賊が、帰れ、そんな危険な死の道を進むな、われらに悪心はない、と誘う。しかしすでに心深く堅く決した旅人は、この誘いの喚声を顧みず、一心に白道を進んだ。西岸に到達した。」

「東岸はこの苦難に満ちた世界である。西岸は極楽浄土である。」


「決定の僧さえ深く決定すれば、シャカ仏のこの世界から進めよとのはげましの声と、極楽のアミダ仏の来たれよの勧めとの二尊の教えに力増して、まっすぐに進みうることは念仏行にほかならぬ。」


(苫野一徳)


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