増谷文雄・梅原猛『知恵と慈悲〈ブッダ〉』(仏教の思想1)


はじめに

 名著の誉れ高い、「仏教の思想」シリーズ。インド、中国、日本の仏教の思想のエッセンスが、全12巻にわたって展開されている。

 本書は、1968年に出版されたその第1巻。取り上げられるのは、もちろんブッダだ。

 インドから中国、日本へと渡るにつれて、ブッダの思想はいちじるしく様変わりした。日本人は、ブッダのオリジナルの思想を、長い間十分理解してこなかった。

 彼はいったい、本当のところ何を語ったのだろう? 

 本書では、その思想のエッセンスが明快に語られる。


1.都市の発達と新思想家たち

 ブッダ・ゴータマが活躍したのは、おおよそ紀元前400年代のこと。その活躍の舞台は、中インド、ガンジスの中流から、そのいくつかの支流のうるおす地域にかけてだった。

 この時代、都市が大きく発達した。

 そこには強大な権力をもった王たちがいた。また、膨大な経済力をもった大商人たちが、国際的な商業活動を展開していた。

 この新しい活気あふれる時代に、多くの新思想家たちが現れた。

 ブッダは、ある意味ではその中の1人にすぎなかったのだ。


2.六師外道

 ブッダ以外の有名な思想家たちを、仏教では六師外道と呼んでいる。

プラーナ・カッサパ
マッカリ・ゴーサラ
ニガンタ・ナータプッタ
サンジャヤ・ヴェーラッティプッタ
パクダ・カッチャーヤナ
アジタ・ケーサカンバラ

 の6人がそうだ。

 彼らの思想を、以下簡単に見てみよう。

 マッカリ・ゴーサラは、一切は因果必然の中にあることを説く宿命論者。

 それに対して、プラーナ・カッサパはそうした一切の因果を否定した。

 霊魂不滅を説くパクダ・カッチャーヤナに対して、アジタ・ケーサカンバラは霊魂を認めない。


 サンジャヤ・ヴェーラッティプッタは、「ああ言えばこう言う」の名手。哲学用語で言えば「帰謬論者」だ。たとえばこんなことを彼は言う。

「汝がもし《他世ありや》と問うたならば、〔そのとき〕わたしは、もし《他世あり》と思っていたとすれば、《他世あり》と答えるだろう。だが、わたしは、そう考えているわけではなく、また、そうではないと考えているわけでもない」

 ちなみに、このサンジャヤは、ブッダの愛弟子リプッタモッガラーナの元師匠でもあった。

 最後に、ニガンタ・ナータプッタは、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラのことである(その思想については、エリアーデ『世界宗教史(3)』のページを参照されたい)。

 彼ら「新しい思想家」たちには、3つの共通した特徴があった。

 まず1つは、権威化した当時のバラモン教の否定だ。

「それは、つまり、ながい間にわたってインドの思想界に君臨していたヴェーダの権威を否定するものにほかならなかった。」

 2つは、伝統や権威ではなく、それぞれの思想家「個人」の思想が花開いたという点。

 そして3つは、彼らがみな、身分を無視した平等な者たちからなるサンガ(僧伽)をもっていたということ。

「そこには、もはや、かつて彼らをがんじがらめに束縛していたかのカースト社会の束縛はない。」



3.仏教の真理観

 著者の増谷は、ブッダの思想を述べるにあたって、まず仏教の「真理観」について次のように述べる。


「思うに、「真理」ということばは一つであっても、それによって人々が心に描きもっている観念のありようはさまざまである。あるものは、神の啓示やことばをよりどころとしてそれを考える。キリスト教やブラーマニズムなどにおいて、そのような考え方の例を見ることができる。仏教における真理の考え方は、それらとまったく異なる。またあるものは、「覆われてあらざること」をもって真理であると考える。ギリシアの思想家たちが「真理」を語るに〈アレーテイア〉(alêtheia)ということばをもってしたことは、そのような考え方の好例である。そのことばは、〈覆われてあること〉(lêtheia)に冠するに否定の接頭辞‘a’をもってして、〈覆われてあらぬこと〉を意味する。それによって、覆われてあらざる存在の真相こそ「真理」であるとするのである。仏教における真理の考え方は、ややそれに近いものであるが、また、重要な一点において異なるところがある。その一点というのはほかでもない。覆われているというのは、認識の対象のがわのことではなくて、かえって、認識する主体のがわの問題であるとするのである。」
 
 仏教における「真理」は、「覆われていないこと」を意味する。

 真理が「覆われている」のは、わたしたち人間の目が曇っていることによる。

 そこで仏教は、この眼の覆いを取り払うことを説く。 


4.縁起

 覆いを取り払って見えてくるものは何か。

 その最も重要なものが、「縁起」である。

 それは次のように説かれる。


 これあるによりてこれあり。
 これ生ずればこれ生ず

 つまり、一切は因果のうちにあるということだ。

 この「縁起」思想の重要なポイントは3つある。


 第1に、「縁起」は、ブッダがいようがいまいが定まっているということ。

 第2に、ブッダはその真理を知ったということ。

 そして第3に、同じことの繰り返しだが、すべては因果の中にあるということだ。


5.《無常》

 次の重要な教えは、《無常》《無我》

 先に、一切は縁起の中にあると言われたが、しかしその世界の真理の正体は何なのかということについては、ブッダはつねに口を閉ざした。

 なぜなら、それは人間には知り得ないことであるからだ。増谷は言う。

「存在一般が、つまり、「この世界」がいつまでも存在するものであるか、それともついに滅尽するものであるかと問われるならば、誰もほんとうには答えることができないのである。」

「その二つの答えは、それぞれおなじ権利をもって主張しうることであって、――それが二律背反である――そこでは、むしろ判断の中止こそが、もっとも賢明であるとするのが、ブッダ・ゴータマの考え方であったと知られるのである。」    

 「二律背反」は、カントが、人間は形而上学的問い(絶対の真理を問う問い)には答えられないということを「証明」した時に使った論法だ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 また、ここで言われる「判断中止」は、フッサールが、客観的な真理についてはエポケー(判断中止)しなければならないと言ったことに相当している(フッサール『イデーン』のページ参照)。

 増谷は、カントやフッサールに直接言及しているわけではないが、ブッダの思想には、彼ら西洋哲学者たちに先駆けるものがあったということだろう。

 世界の真理は分からない。しかしその上でブッダは言う。そのようなわたしたちは、まさにそれゆえにこそ、無常の存在であるにちがいない、と。

「人間存在は、ブッダ・ゴータマが得意とする分析によって、五つの要素(シナの訳経者たちはそれに《蘊》という訳語をあてた)にわかたれている。色(物質)、受(感覚)、想(表象)、行(意志)、識(意識)の五つがそれである。最初の一つは人間の肉体的要素をゆびさし、あとの四つは、人間の精神的要素を四つにわかったものである。そして、それが、ブッダ・ゴータマが人間存在について考察するときの常套の手段であるが、それらの要素の一つずつについて、それは果たして「常」なるものであろうか、それがはたして「我」なりといえるだろうかと吟味してゆくのである。」


6.《無我》

 つづいて《無我》について。

 よく、仏教は自己否定の宗教であると言われるが、それは大きな誤解だと増谷は言う。

 たとえば、『ダンマパダ』(法句経)という経には次のような言葉がある。

 自己のよりどころは自己のみである
 自己のほかにいかなるよりどころがあろうか
 自己のよく調御せられたとき
 人が得がたいよりどころを得るのである

 「無我」という言葉で表されているのは、このわたし自身の否定ではなく、①自分の所有物、②絶対的な自我、③霊魂の否定である。

 増谷は言う。

「それは、けっして、自我を圧殺せよ、自己を忘却せよと語っているものではない。どころか、この偈の語るところは、自己の人間形成のために全努力を集中せよというのであり、かくしてみごとな自己形成がなった時、そのとき、人ははじめて得がたい依処をうるのだという。いや、そもそもが、仏教は本来、人間形成、自己確立を説く宗教のほかなにものでもないのである。」


7.四諦

 つづいて、ブッダ思想における「実践」の体系を見ていこう。

 最も重要なのは、「四諦」と呼ばれるものである。

 これは次の4つの命題で表現される。

1 「こは苦なり」
2 「こは苦の生起なり」
3 「こは苦の滅尽なり」
4 「こは苦の滅尽にいたる道なり」

1は、生老病死であることを説くものだ。
2は、この苦は激しい欲望(渇愛)のゆえであることを説くものだ。
3は、したがって、苦は渇愛を滅することで取り払われると説く。
4は、それゆえ、極端を避けて「中道」をとれと説く。

 この「中道」は「八正道」とも呼ばれ、次の8つがあるとされる。

(1)正しい見解〔正見〕
(2)正しい思惟〔正思〕
(3)正しい言葉〔正語〕
(4)正しい行為〔正業〕
(5)正しい生活〔正命〕
(6)正しい努力〔正精進〕
(7)正しい注意深さ〔正念〕
(8)正しい精神統一〔正定〕

 いずれにせよ、過度の欲望をおさえ、中道を行くことが、苦を取り去るためのブッダの教えなのである。


8.「善友」と「慈」

 最後に、ブッダの人間関係にかんする思想について。

「彼らの集団は、当時の沙門たちの慣習にしたがって「サンガ」と称せられたが、その集団の特徴は、なによりもまず、その成員がすべて平等であることであった。」

「すべての者が平等のメンバーであって、ブッダ・ゴータマその人すらも、そのメンバーの一人にすぎなかった。」

 このような人間関係を、「善友」と言う。

 一方で、「サンガ」の外のすべての人間に対しては、「慈」が説かれた。

「すべてのものが人間同士なのである。彼らもまた、人間の悲しい重荷を世いであるくわたしとおなじ人間なのだ。その思いが、人間同士の「友情」つまり「慈」なのである。」


(苫野一徳)

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