櫻部建・上山春平『存在の分析〈アビダルマ〉』(仏教の思想2)


はじめに

 仏教は、ブッダに発し、小乗仏教から大乗仏教へと展開する。

 アビダルマは、このうち小乗と大乗の接点に位置するものだ。ブッダの没後300〜900年の間にまとめあげられた、仏教の思想体系である。


 サンスクリット語のアビダルマは、「ダルマについての研究」という意味。

ダルマ」とは、ブッダが説いた真理のこと。

 その真理を伝える文書は、原始仏典ーガマ(阿合経)。つまりアビダルマとは、このアーガマについての研究を意味しているのだ。  

 当時の仏教にはいくつもの学派があったが、最も多くのアビダルマを生み出したのは、サルヴァースティ・ヴァーディン学派だ。漢訳名「説一切有部(せついっさいうぶ)。略して「有部」とも称される。

 本書で主として取り上げられるのは、すぐれたアビダルマの学僧であると同時に、大乗仏教の「瑜伽唯識学説」の唱道者の一人でもあったヴァスバンドゥ(世親/天親の、『アビダルマ・コーシャ』俱舎論)。

 この本、あまりにクシャクシャと煩瑣な議論が続出するから「くしゃ論」と言われるのだと言われるほど、こむずかしい議論に満ちている。実際、仏教にとってどれほどの意味があるのかと思われる議論も数多い。

 しかしそれは、宗教が発展していくために避けては通れないプロセスではあっただろう。

 ブッダの言行録であるアーガマ(阿含経)は、言わば寄せ集めの断片にすぎない。だから仏教が思想としても成立するためには、頑健な体系が作られる必要があったのだ。


 説一切有部は、恒常的な「本体」を想定する仏教哲学を体系化した。

 森羅万象を構成する75の法があり、それは過去・未来・現在にわたって変化せず実在し続けるとこの説はいう。

 しかしわたしたちは、それらを現在の一瞬においてしか認識することができない。

 一切は一瞬一瞬において流れ去っていってしまうのだ。

 そのことをありのままに悟り、この一瞬一瞬にこだわる煩悩を捨てた時、人は「あらかん」になることができる。

 きわめて大ざっぱに言えば、説一切有部はそのように説く。

 ちなみに、小乗仏教はブッダをあまりに理想化したために、人はブッダになることはできないと考えた。なれるのはせいぜい「あらかん」までである。

 これが、のちの大乗仏教によって否定されることになる。

 また大乗仏教は、この世には「実体」があるとするアビダルマの思想を、ブッダの教えに反するものとして「空」の観点からこれを批判することになる(『仏教の思想3』のページ参照)。

 しかしそれは今はおいておいて、以下、アビダルマの“煩瑣哲学”をかいつまんで見ていくことにしよう。



1.宇宙

 まず、アビダルマにおける宇宙論を見ていこう。

 仏教は、造物主とか宇宙の支配者とかの観念を本来もっていない。

 それゆえアビダルマ(『俱舎論』)においても、宇宙は、造物主ではなく「サットヴァ・カルマン」によって生まれるとされている。

「サットヴァ・カルマン」とは、生きとし生けるものの行為、生命体の生活行動を意味する。


 宇宙の形成は、まず、なんの存在もない広く虚しい空間に、「サットヴァ・カルマン」の力がはたらきだすことによって、どこからともなく微風が吹き起こることから始まる。

 やがてその風は、空間の中でしだいしだいにその密度を増し、ついには円盤状の堅い「大気の層」に造り上げられてゆく。

 次には、この大気の層の上に積み重なって「水の層」が形成される。

 水の層は、やがて、サットヴァ・カルマンによって吹き起こる風のために吹きさらされて「わかしたミルクの表面に膜が生ずるように」しだいに凝固してゆき、上層七分の二は「黄金の層」となってしまう。

 この黄金の層の表面が大地だ。そして大地の上にさらに、順序を追って、山・河などが形成されていって、ついにここに自然界が完成されるのだ。

 さらに、最後に地下の世界、すなわち地獄にも、地獄のサットヴァが生まれ出ることによって、世界形成の過程は完了する。

 この一連の宇宙形成には、二十アンタラ・カルパの時間がかかるという。ある試算によれば、それは3億2千年くらいであるという。

 世界は、同じ3億2千年間存続するとされる。しかしその後、やはり同じ時間をかけて滅んでいく。そしてさらに同じ時間の間空無が続き、また同じ時間をかけて世界形成が始まる。

 では、この世界はいったいどうなっているのだろうか?

『俱舎論』によれば、大地の中央にはスメール山(須弥山)がそびえ、その周囲を外輪山が七重に取り囲んでいる。(右絵)



 いちばん外側の外輪山をニミンダラというが、そのニミンダラ山のさらに外側に、四つの大陸がある。

 東側にヴィデーハ州、西側にゴーダーニーヤ州、南側にジャンブー州、北側にクル州である。

『俱舎論』によれば、われわれの住むところは、このうちジャンブー州であるとされる。

 以上が、『俱舎論』における宇宙論である。


2.人間

 次に『俱舎論』における人間論を見ていこう。仏教においては、宇宙論よりこちらの方が圧倒的に重要だ。

 ここで重要な概念は次の3つだ。すなわち、「三界」「五趣」「四生」

「三界」とは、欲界・色(しき)界・無色(むしき)界の3つのこと。

「「欲」とは生物の本能的欲望のことと考えてよいであろう。〔中略〕「色」は、いろではなく、いろ・かたちをもった物質的存在の意味であるから、色界とは物質の世界、物質の存在する世界ということになる。〔中略〕無色界とは、文字どおり「色」の無い世界、物質の存在しない世界である。」



「五趣」とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天のこと。



「もっとも、一般にはこの五に「阿修羅(修羅)」を加えて六趣、または六道、と数えるほうがよく知られている。そのうち、地獄から人間までの四(あるいは阿修羅を加えて五)趣と、天の中の最下級のもの六種(六欲天)とが、欲界に属し、天の中級のものが色界に、上級のものが無色界に属する。」



「四生」とは、胎生・卵生・湿生・化生のこと。わたしたちが輪廻していろいろな境涯に生まれ出る、その生まれ方の種類のことだ。

 胎生と卵生は読んで字のごとし。湿生とは、ウジやボウフラなど、湿気から生まれるものの意味。化生は、よりどころなしに、忽然として生まれること。

 人間は胎生、餓鬼は胎生のものと化生のものとがあり、天と地獄とは化生、畜生は胎生のものと卵生のものと湿生のものとがあるとされている。


3.業の理論

 続いて「業の理論」を見ていこう。


 これは要するに「因果応報」を説くものだが、一般に誤解されているような、単なる宿命論とは異なっている。

 その論拠は2つあると著者の櫻部は言う。

「第一は、過去の業が現在の境涯を決定していると同様に、現存の業は未来の境涯を決定するものである、ということである。われわれにとって、現在のおのれの境遇が過去のおのれの行為によって決定されていることに、心を煩わすよりは、将来のおのれの境遇が現在のおのれの行為によって決定されるであろうことを思って、現在の行為を正すことにいそしむほうが大切であることはいうまでもなかろう。」

 要するに、今の行いが来世に影響するのだから、単なる宿命論とはちがっているのだ。

「第二の論拠は、業は有情のあり方のすべてを決定づけているのではないということである。因・果の関係は、ただ一種類、人間の行為とその結果とのあいだにだけ成り立つのではない。事実は、のちに述べるように、さまざまな種類の因果関係が無数にはたらいて、瞬間瞬間の人間の生存を構成している。業とその結果という関係は無数の、そして各様な、因果関係の中のただ一部分にすぎない。」

 つまり、業は無数の因果関係のうちの1つにすぎないのだ。

 このような、業を背負ったものを、仏教では「有漏」(うろう)と呼ぶ。言い換えれば「煩悩をもつもの」だ。人間は、さとりを開かない限り、だれもが皆「有漏」の存在なのだ。


4.「縁起」「無常」「苦」「無我」

 前巻でも見たように、仏教の基本教説は「縁起」「無常」「苦」「無我」にある。

 いっさいは多種多様な「因果関係」(縁起)のうちにあるのだが、その上に構成されているわたしたちの生の一切は「無常」「無我」である。そしてそれこそが「苦」の本質である。

 これがブッダの教えだ。


『俱舎論』においては、この無常・無我を「ありのままに見る」ことが、有漏から無漏、すなわちさとりへと達することを意味している。


5.五位

 説一切有部においては、森羅万象が五つに類型化されている。これを「五位」という。

(1)「色(しき)法」=物質的なもの
(2)「心(しん)法」=心の主体となる識
(3)「心所(しんじょ)法」=心のはたらき
(4)「心不相応行(しんふそうおうぎょう)法」=それ以外
(5)「無為法」=生滅変化のないもの

『俱舎論』においては、色法11、心法1、心所法46、心不相応行法14、無為法3の全部で75種があるとされ、「五位七十五法」と呼ばれている。

 これが、この世の実体(法・ダルマ)の全貌だというわけだ。


6.物

 そこで、まず「物(色)」について少し見てみよう。

 それは次のような5つの特徴を持つとされている。

(1)「こわれるから色である」という定義
(2)「色」は“四元素”と“四元素によって存在するもの”とである、ということ
(3)「色」は五根と五境と無表色との十一種のダルマであること
(4)「色」は、法処・法界に含められる無表色を除いて、“原子”の集まりによって構成されている、したがってそれは空間を占有し、他の「色」が同一空間に存在することを妨げるということ
(5)「色」が生起するときは、すくなくとも八種類のものが“倶生”すること

(1)については説明は不要だろう。

(2)の四元素は、地・水・火・風を意味するが、のちに、それぞれの性質、すなわち、堅さ・湿潤性・熱性・流動性が、物の性質としてそなわっていると考えられた。

(3)の「五根」とは、つまり五官のこと。「眼・耳・鼻・舌・身」を意味する。五境はその対象のことで、「色・声・香・味・触」を意味する。これにさらに「無表色」を加えて、物は11種のダルマであると言われるのだ。

(4)の「原子」は、文字通り「極限の微粒子」を意味する。ちなみに、この「原子」説はアーガマ(阿含教)では述べられていない。

(5)の「俱生」は、次のことを意味している。すなわち、色は、①先に見た四元素「堅さ・湿潤性・熱性・流動性」に加えて、②いろ・かたち、③香り、④味、⑤重、⑥軽、⑦滑、⑧渋などの感触とともに生起する。


7.心

 続いて心について。

 アビダルマでは、「心自体」と「心作用」とを区別して考える。

 心(意/識)が連続的なものであるのに対して、心作用は断続的なものである。

 心作用には先述したように46種類があるとされるが、いずれにせよ、この心と心作用との関係性において「さとり」は成立する。

 要するに、一切が「無常」「無我」であることを心作用がさとればよいというわけだ。


8.さとりへの道

 では、わたしたちはどのようにさとりへと到達するのか。

 それには見道・修道無学道の3つがあるという。

 もっとも、無学道とは、もはや学ぶものはないというさとりの境地のことなので、実際には見道と修道の2つがさとりへの道である。

 見道は、四諦前巻参照)の真理性を認識することだ。この認識が、即さとりにつながる。

 しかしそれだけでは十分ではない。知だけではなく、情・意においても、わたしたちはさとりの境地に到達する必要がある。それが修道だ。

「三昧を修め四諦の真理の観知をくり返し行なうことによって、倦まずたゆまず心を養い高めて、断ちがたい煩悩を徐々に断ち切ってゆかねばならない。」


9.「らかん」と「ほとけ」

 最後に、さとりを開いた聖者には4段階あるという。預流(よる)、一来(いちらい)、不還(ふげん)、らかん(あらかん)だ。


「修行の道を進む者が「見道」にはいったときから、“貴い人”(聖者)と呼ばれるのは上述のとおりであるが、その聖者は四つの段階に分かれる。預流(はじめて法の流れにはいった者)・一来(一度だけこの世に還ってくる者)・不還(もはや二度と欲界に還らない者)・らかんあるいはあらかん(供養受けるにふさわしい者)である。これをふつう四果と呼ぶ。修行道の四つの成果という意味である。」

 アビダルマにおいては、「らかん」と「ほとけ」は、どちらもさとりを開いた者という意味において、同じ存在とされている。

「らかんということばはアーガマ以来ほとけと同義に用いられている。それはもとより当然のことである。ほとけとは真の自覚者を意味する。“ありのままに知り見る”正しい知恵によってすべての煩悩を断ち切った人はみなほとけであり、その人こそは“供養を受けるにふさわしい”らかんである。」


(仏教の思想1)『知恵と慈悲〈ブッダ〉』




 (苫野一徳)

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