ニーチェ『権力への意志』(1)


はじめに

 ニーチェの死後、妹のエリーザベトによって編まれた著作。

 「権力への意志」。この言葉は、ニーチェの「超人」思想などとともに、後にナチスによって利用されることになる。

 しかしニーチェ自身は、国家主義も、人種差別主義も、実はとことん毛嫌いした哲学者だった。

 ニーチェをナチスと結びつけたのは、妹エリーザベトだった。

 反ユダヤ主義の夫を持ち、自身も人種差別主義者だったエリーザベトは、兄の思想を改ざんし、そうしてナチスに取り入ったのだった。

 しかし、このページではひとまずそのことはおいておいて、本書を一応はニーチェ自身の言葉が編まれたものとして紹介していくことにしたいと思う。


1.ニヒリズム

 まずニーチェは、本書は来るべきニヒリズムを予告する書であると言う。


「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来たるべきものを、もはや別様にはたりえないものを、すなわちニヒリズムの到来きしるす。」

 ニヒリズムとは何か?ニーチェは言う。

ニヒリズムとは何を意味するのか?――至高の諸価値がその価値を剥奪されるというこ。目標が欠けている。何のために?」への答えが欠けている。

 何のために生きているのか?わたしたちのこの苦しみの意味は何か?

 かつて、こうした問いに答えを与えてくれていたのは宗教(ヨーロッパではキリスト教)だった。

 しかし今や、宗教はその権威を失った。

 そこで登場したのが、ニヒリズムである。

 ニヒリズムは言う。世界や人生に、意味などないのだと。

 しかしニヒリズムはわたしたちを苦しめる。「無意味」に耐え続けることなど、人間にはとうていできることではない。

 しかしニーチェは言う。

 だからと言って、中途半端に「意味」を求めるな。それは結局、「神」とか「真理」とかいうまやかしに、わたしたちを再び舞い戻らせるだけである、と。

 わたしたちは、今や「神」も「真理」もないことを知っている。だから生半可にこれを求めても、余計に苦しむだけなのだ。

 ではどうすればいいのか?

 ニーチェは言う。

 まずはニヒリズムを徹底せよ。「神」や「真理」を求めるな。むしろ、これらの価値をまずはとことん転換せよ。

「これまでの価値を価値転換することなしに、ニヒリズムからのがれ去ろうとする試みこそ、その反対のことをうみだし問題を尖鋭化する。

 その具体的な価値転換のあり方については、本書後半で語られることになる(『権力への意志』(2)のページへ)。


2.キリスト教批判

 続いてニーチェは、「これまでの最高価値の批判」と称して、キリスト教、道徳、そして哲学を批判する。

 宗教について、ニーチェはまず次のように言う。

「宗教の起源は、外からのものとて人間を襲うところの、権力の極端な感情のうちにある。そして、四肢をあまりにも重たるく奇妙に感ずる病人が、他人が自分のうえに乗っているのだと結論するのと同じく、幼稚な宗教的人間はおのれを多数の人格のうちへと分裂させる。」    

人間のすべての偉大さや強さが、超人間的なものとして、外からのものとしてとらえられていたかぎり、人間はおのれを卑小ならしめた

 要するに、自らの苦しみに耐えられない弱い人間が、その反動から偉大な絶対者(神)などというものを捏造したと言うのだ。

 その時、人間は神の前で不完全な者となる。自己の矮小化、卑小化。これこそが宗教(キリスト教)の本質である。ニーチェはそのように言う。

 人間や生を肯定するのではなく、否定すること。

 そのようなねじ曲がった宗教が許されるだろうか?

 ニーチェはそのように問う。

 さらに、キリスト教は自らをシステムとして作り上げた。

 「僧侶」たちの登場だ。

 ニーチェは彼らをとことん罵倒する。

物的な権力を手中にしていないとき(軍隊をもたず、総じて武器をもたないとき・・・)何が権威をあたえるのか?」

「それは、彼らが、より高いより強い威力を手中にしているという信仰をよびさますことによってのみである、――、神を手中にしているとの信仰を――。」

 ニーチェに言わせれば、僧侶は卑屈な人間の典型である。

 すべての人間と同じように、彼らもまた「権力への意志」を持っている。そしてそれを満たすため、絶対の神を捏造し利用した。

 僧侶はこう言うのだ。

 神は絶対であり、自分はこれに仕えるものである。それゆえ、人間の中で最も偉いのは自分たちである、と。

 ニーチェは言う。

物の尺度としての卑小な者どもの道徳性、これこそ、文化がこれまで示した最も胸のむかつく変質である。」

(ニーチェのキリスト教批判については、『道徳の系譜』のページも参照されたい。)


3.道徳の批判

 続いてニーチェは、キリスト教的な「利他主義」道徳を批判する。

 ニーチェに言わせれば、これは「畜群」の道徳である。

ヨーロッパの全道徳は畜群の利益を基礎としている。

 どういうことか?

 ニーチェの考えでは、「よい」というのは、本来、強い者が自分の思うがままに生きられることを意味していた。

 しかし、ほとんどの人間はそのように生きることができない。

 そこで人びとは考えた。「よい」とは、利己的であることとは逆のこと、すなわち利他的であることなのだ、と。

 こうして、弱き畜群どもは「強さ」を否定した。

 そして、道徳的であるとは、「利他的」で弱者にやさしいことであるという「型」を作り出したのだ。

 これこそまさに畜群の理想。

 彼らは、個性を持たず、型にはまることで安心し、そして型にはまらない者たちを断罪することで、見苦しい優越感を得ようとする卑小な者たちなのだ。

 ニーチェはそのように言う。

有徳的人間は、いかなる人格」でもなく定不変の人間範型にかなっていることによってその価値を保っているというすでにこのことからても低劣な者どもである。有徳な人間は、おのれの価値を独自にもっているのではなく、したがって同等されうるし、おのれと等しき者をもっており、個別的であってはならないのである。

「道徳の歴史のうちにはつの権力への意志があらわれているのであるが、これによって、ときには奴隷や圧迫された者どもが、ときには不出来な者や自己に苦しむ者どもが、ときには凡庸な者どもが、おのれたちに最も好都合な価値判断を貫徹しようとこころみている。

 それにしても、なぜそのようなバカげた道徳がこれまでまかり通ってきたのだろうか?

 ニーチェは言う。

私たちは、何がこれまで至上の価値を決定してきたのか、なぜそれが敵対する価値評価を支配してきたのかを理解した――。それは数的により強力であったからである。

 あまりにも多くのルサンチマン人間たち。彼らは、その数によって、畜群的な道徳を世に広めることができたのだ。

 彼らに対して、強者、貴族、高級な者たちはあまりに少ない。

 ニーチェはそのように主張する。


4.哲学の批判

 続いて、ニーチェはこれまでの哲学もまた批判する。

 カント哲学にもヘーゲル哲学にも、「絶対的権威」の残りカスがある。

 彼らも、結局は「神」を前提とした哲学を展開した哲学者だったのだ(たとえば、カント『実践理性批判』ヘーゲル『精神現象学』などのページ参照)。

 しかし、実を言うとその根は、すでに古代ギリシアのソクラテスプラトンにある。

 ニーチェは言う。

「プラトンにあっては、私たちは、かつて善の可想界に住んでいた者として、いまでもその当時の遺物を所有している、すなわち、神的な弁証法が、善から由来するものとして、すべての善へと導くのである」    

 「真理主義」を殲滅せよ。

 ニーチェはそのように主張する。







(苫野一徳)

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