ニーチェ『ツァラトゥストラ』(2)


はじめに

イメージ 3 本書第1部、第2部では、「神の死」「超人」「権力への意志」の思想が語られた『ツァラトゥストラ』(1)のページ参照)。

 本第3部、第4部では、いよいよ、本書の最大のテーマである「永遠回帰」についてが語られる。

 永遠回帰とは何か?

 それは、この世の一切が永遠に繰り返されるということだ。

 しかし、もしも世界が永遠に繰り返されるのだとしたら、わたしたちの苦しみもまた、永遠に繰り返されることになる。

 そんなことに、わたしたちは耐えることができるだろうか?

 ニーチェは言う。

 これに耐えるための思想がある、と。

 それはいったい、どのような思想なのか?

 これに答えるのが、本書の最大のテーマだ。


 ところで、ニーチェはこの永遠回帰を、必ずしも事実として主張しているわけではない。

 もしもそのようなことがあったとしたら、わたしたちはそれに耐えることができないだろう。

 しかし、耐えることができるとしたら、それはいったいどのような思想によればいいのだろうか?

 ニーチェはそのように問うのだ。

 ニーチェ自身の切実な体験(アカデミズムからの離脱、放浪生活、世間からの無理解、そして、ルー・ザロメへの恋と失恋)から生まれた、壮絶な「生の肯定」の思想書。



第3部


1.ヘビを食いちぎれ!

 ある時、ツァラトゥストラは次のような幻影を見た。


「一人の若い牧人が、身もだえし、息づまり、けいれんし、顔面をゆがめているのを、わたしは見た。彼の口からは、一匹の黒い重いヘビが垂れ下がっていた。
 かつてわたしは、一つの顔面上に、こんなにおびただしい吐きけと色青ざめた恐怖を見たことがあったか?おそらく彼は眠っていたのであろう?そのとき、ヘビは彼ののどのなかへ這いこみ――そこにしっかりとかみついたのだ。
 わたしの手はヘビを引きに引いた。――が、むだであった!わたしの手はヘビをのどから引き出せなかった。そのとき、わたしのなかから叫ぶものがあった、「かみつけ!かみつけ!
 頭をかみ切れ!かみつけ!」――このように、わたしのなかから叫ぶものがあった。」
 
 ここに登場するヘビは、「永遠回帰」の象徴であり、またおそらくは「ルサンチマン」(妬み・そねみ)の象徴でもある。

 わたしたちの多くは、ルサンチマンに蝕まれている。そしてそのために、生をうらみ、自分をうらみ、他人をうらむ。

 もしもわたしたちの人生がそのようなものであったなら、わたしたちは「永遠回帰」に耐えることなどできないだろう。

 だからニーチェは言うのだ。

 ヘビをかみ切れ!食いちぎれ!と。

 そして言う。

わたしは、祝福する者、《然り》と言う者になったのだ。」    

 生を否定するのではなく、「然り」と言うこと。

 それこそがツァラトゥストラの教えなのだ。


2.愛せない場合は通りすぎよ!

 しかし、わたしたちはどうしてもルサンチマンを抱えてしまうことがある。

 そんな時はどうすればいいのか?

 ツァラトゥストラ(ニーチェ)は次のように言う。

「もはや愛することのできない場合、とるべき態度は――通り過ぎることだ!


3.自らを愛せ

 自らを愛せる者になれ。そうツァラトゥストラは説く。

軽くなろうと欲し、になろうと欲する者は、自分自身を愛さなくてはならない、――わたしはこのように教えるのだ。    

 そのためには、少しずつ自らを愛することを学ぶ必要がある。

「いつの日か飛ぶことを学ぼうと欲する者は、立つこと、歩むこと、走ること、よじ登ること、舞踏することを、まず学ばなくてはならない、――一挙にして飛ぶことを学ぶというわけにはいかないのだ!    


4.「私が欲した!」

 ツァラトゥストラはさらに言う。

人間における過ぎ去ったことを救済し、一切の「そうあった」を根本から造りかえて、ついに意志をして、「しかし、そうあることをわたしは欲したのだ!そうあることをわたしは欲するであろう――」と語るにいたらせること、――これをわたしは彼らに向かって救済の名で呼んだ。これのみを救済の名で呼ぶよう、わたしは彼らに教えた 

 あんな辛いことがあった、こんな苦しいことがあった、わたしたちは時に、そうぐちぐちこぼす。

 しかしそれこそ、わたしたちから「生の肯定」を奪い去る思考態度である。

 どのような苦しいこと、辛いことも、むしろこう言わなければならない。

「これはわたしが欲したことである!」と。

 そうツァラトゥストラは言う。


5.永遠を欲する!

 こうして鐘の音が鳴る。ツァラトゥストラは語る。本書のクライマックスだ。


  ひとつ
 おお、人間よ! 心せよ!

  ふたつ
 深い真夜中は何を語るか?

  みっつ
 「わたしは眠っていた、わたしは眠っていた――

  よっつ
 深い夢からわたしは目ざめた。――

  いつつ
 世界は深い、

  むっつ
 昼が考えたより深い。

  ななつ
 世界の苦痛は深い――、

  やっつ
 快楽は――心の悩みよりもさらに深い。

  ここのつ
 苦痛は語る、過ぎ去れ! と。

  とお
 しかし一切の快楽は永遠を欲する――、

  じゅういち
 ――深い、深い永遠を欲する!」

 じゅうに!


 わたしたちの人生には、苦しみが満ちている。

 しかしそれでもなお、もしもわたしたちが大きな快楽(よろこび)を味わったなら、わたしたちはこう言えるのだ。

「わたしは永遠を欲する!」と。

 これが、本書におけるツァラトゥストラ(ニーチェ)の最大の教えである。



第4部


6.「これが生であったのか、よし、ならばもう一度!」

 ツァラトゥストラは山の洞窟へ戻り、そして幾年月がすぎた。

 ツァラトゥストラは老人になった。

 そんなある日、彼の耳に窮境を訴える叫び声が聞こえる。

 山を下りて、その声の主をツァラトゥストラは捜すことにした。

 そこでツァラトゥストラは、「王たち」「ヒルに腕を吸わせる者」「魔法使い」「最後の教皇」「最も醜い者」「みずから進んで乞食になった者」などと出会う。
 
 これは、ツァラトゥストラの教えを受け入れながらも、その本当の意味を理解していない者たちだ。

 たとえば「王たち」は、ツァラトゥストラの言う「超人」を、単に戦争に勝つ者としてしか捉えていない。

「最後の教皇」は、神が死んだあと、どう生きればいいか途方に暮れている。

 そこでツァラトゥストラは、彼らを洞窟に招き入れた。そして言う。

わたしの見るところでは、そなたたちはまだ充分に悩んではいないのだ!というのは、そなたたちは自身に悩んでいるのであって、いまだ人間に悩んだことはないからだ。    

 するとどうだろう。しばらくすると、彼らは突然、驚くべきことをしはじめたのだ。


「彼らはみな再び敬虔になった、彼らは祈っている、彼らは気が狂っているのだ!」――と彼は語って、とてつもなく驚いた。そして、まことに!これらの高等な人間たちはみな、すなわち、二人の王たち、失職した教皇、邪悪な魔法使い、みずから進んで乞食となった者、さすらい人にして影である者、年老いた予言者、精神の良心的な者、および最も醜い人間といった連中はみな、子供たちや信心深い老婆どものするようにひざまずいて、ロバを拝んでいた。」

 神なき世界において、彼らは再び、ロバを拝むなどという愚行をおかしたのだ。

「最後の教皇」は言う。

「おお、ツァラトゥストラよ」と、教皇は答えた、「どうか許してくれ、しかし、神の事柄においては、わたしのほうがあなたよりも明るいのだ。また、それは当然のこと
 神をこういう形で拝むほうが、全く形なしで拝むよりは、ましだ!

 しかしツァラトゥストラは、怒るどころか、むしろ次のように答える。

「この夜とこのロバ祭りを忘れるな、そなたら、高等な人間たちよ!それはそなたたちがわたしのもとで考案したものだ、それをわたしは良い前兆と見なす、――この種のものを考案するのは、ただ回復しつつある者たちだけだ!」    

 たとえロバを拝むなどという愚行であったとしても、それは、彼らが自らの思考において創造した行為だ。確かなものが失われた(神が死んだ)ニヒリズムの時代にあって、そのこと自体はむしろよろこばしいことの前兆である。

 そうしてついに、彼らは気がつくことになる。

「最も醜い人間」が言う。


「《これが――生であったのか?》と、わたしは死に向かって語ろう。《さあ!もう一度!》
 わたしの友人たちよあなたたちはどう思うか?あなたたちは、わたしと同じように、死に向かってこう語ろうと思わないか。これが――生であったのか?ツァラトゥストラのために、さあ!もう一度!と。」

 そう、彼らはついに、この生を肯定することを知ったのだ。

 ツァラトゥストラは言う。


そなたたちはかつて何らかの快楽に対して然りと言ったことがあるか?おお、わたしの友人たちよ、そう言ったとすれば、そなたたちは切の苦痛に対しても然りと言ったことになる。一切の諸事物は、鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているのだ、――」

「そなたら、永遠的な者たちよ、そういう世界を永遠に、常に愛するがよい。そして、苦痛に対しても、そなたたちは語るがよい、過ぎ去れ、しかし帰って来い!と。というのは切の快楽は――永遠を欲するからだ!


(苫野一徳)

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