ニーチェ『ツァラトゥストラ』(1)


はじめに

イメージ 3 哲学に興味のある人なら、1度は通読したい本だろう。

 しかし、全編アフォリズム(箴言)でつづられた本書は、特にニーチェを初めて読む人にとっては、理解するのがかなり難しい本と言えるかもしれない。

 そのため、下手をすれば、自分が「読みたいように読む」という、哲学を読む時に最もやってはならない読み方を許してしまう可能性もある。

 そこで以下では、本書におけるニーチェ哲学の核心を、できるだけつかんでいただけるように紹介・解説していきたいと思う。


 ツァラトゥストラとは、古代ペルシアにおけるゾロアスター教の開祖、ゾロアスターのこと。

 もっとも、本書はゾロアスター教とは何の関係もない。その開祖の名を借りて、ニーチェが自身の思想体系を語ったものだ。

 なぜツァラトゥストラが主人公に選ばれたのかははっきりとは分からないが、ニーチェが敬愛した、19世紀アメリカの思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンの影響だったのではないかとも言われている。

 実際、エマソンは、彼のエッセイの中でゾロアスターについて何度か触れている(『エマソン論文集』のページ参照)。

 それはともかく、ニーチェが打ち立てたかったのは、ヨーロッパにおけるキリスト教以後の価値思想だった。

 「神は死んだ」

 そう言ったニーチェは、キリスト教に代わる価値を語る者として、本書の主人公にツァラトゥストラを選んだのだ。

 本書のテーマは、大きく3つある。

 1つは、「神の死」「超人」(第1部)。2つは「権力への意志」(第2部)。そして3つは、「永遠回帰」(第3部)。

 あらかじめ言っておくと、本書の最大のテーマは、ひと言で言うなら「生の肯定」にある。

 生が苦しいからと言って、「神」のような彼岸を打ち立てるなとニーチェは言う。

 しかし、ではどうすればわたしたちは生を肯定することができるのだろう?

 ニーチェは本書で、この問いに真っ正面から答えを与える。



第1部

1.神の死

 ツァラトゥストラは、30歳の時、故郷を去って山にこもった。

 しかしそれから10年経って、自分の教えを人びとに語るため山を下りることにした。

 山を下りて最初に出会ったのは、森で隠遁生活を送っていた聖者だった。

 聖者はツァラトゥストラに言う。

 なぜ自分はこんなところで隠遁生活を送っているのか。それは、わたしは人間ではなく神を愛しているからだ、と。

 聖者と別れたあと、ツァラトゥストラは言う。

「いったい、こんなことがありうるのだろうか!この年老いた聖者は、自分の森のなかにいて、神が死んだことについて、まだ何も聞いていないのだ。」

「神は死んだ」とは、「絶対の真理」などもはや存在しないということを意味する。

 かつて人びとは、キリスト教の教えこそが絶対であると信じていた。しかし今日、それはもはや「真理」ではないことを人びとは知っている。

 現代、それは「絶対の真理」が失われた時代なのだ。

 ならば、今日求められているのは一体何なのか?

 それは「超人」である。

 ニーチェはそのように言う。


2.超人

 ツァラトゥストラは市場へ行った。

 そこでは、今まさに、一人の綱渡り師が綱渡りをはじめようとしていた。

 集まった見物客を前にして、ツァラトゥストラは言った。


「わたしはきみたちに超人を教える。人間は、超克されるべきところの、何ものかである。

人間にとってサルとは何であるか?個のお笑いぐさ、あるいは個の痛ましい羞恥である。そして超人にとっては、人間はまさしくそういったものであるはずだ、すなわち一個のお笑いぐさ、あるいは一個の痛ましい羞恥であるはずだ。」


「かつてきみたちはサルであった。ところが、いまもなお人間は、いかなるサルよりも、より多くサルである。

人間は、動物と超人とのあいだにかけ渡された本の綱である、――つの深淵の上にかかる一本の綱である。    

そこで、わたしは最も軽蔑すべき者について彼らに語ろう。ところで、それは最後の人間なのだ。

牧人のいない個の畜群!誰もが同じものを欲し、誰もが同じである。別様に感じる者は、みずから進んで精神病院に入るのだ。

 ニーチェは「超人」をはっきり定義してはいないが、さしあたっては、自ら価値を創造し、そして自らを絶えず超克していく者のことと考えていいだろう。

 神なき今、わたしたちに必要なのはこの「超人」なのだ。

 人間は、この超人へといたるための過渡的な存在にすぎない。そして「最後の人間」は、周りと同じであることしかできない畜群である。

 そうツァラトゥストラ(ニーチェ)は言う。


 突然現れて、自分たちをサル呼ばわりしたツァラトゥストラを、人びとはあざ笑う。

 その時、綱渡り師の綱渡りが始まった。

 と、その綱渡り師の後ろから、突如1人の道化師(悪魔)が現れた。そして、綱渡り師の上を軽々と跳び越えた。

 その衝撃で、綱渡り師は落下する。

 悪魔にやられた、という綱渡り師に対して、ツァラトゥストラは言う。

「きみの語っているようなものは、すべて存在しない。悪魔も地獄も存在しないのだ。」   
 
 綱渡り師は死ぬ。ツァラトゥストラは、その死体を抱え、旅を続ける。

 しかしやがて、彼はこう考えるようになる。

ツァラトゥストラが求めるのは共に創造する者たちである、ツァラトゥストラが求めるのは共に収穫する者たちと、共に祝祭を行なう者たちである。彼は畜群や牧人たちや死体などと何のかかわりがあろう!    

 理解しない者に語る言葉はない。ツァラトゥストラはそう気づく。

 その時、彼は太陽の近くに、一羽のワシと、その首に巻きついている一匹のヘビを見る。

 太陽が象徴しているのは、おそらく「権力への意志」だろう。ワシは「超人」、ヘビは「永遠回帰」だろうか。

 いずれにせよ、ツァラトゥストラはヘビとワシに勇気づけられ、聞く耳を持つ人びとに向かって自らの教えを説き始める。


3.3つの変化について

 ツァラトゥストラがまず語るのは、「精神の三変化」についてである。

 人間精神は、まずは重荷を背負うラクダのようである。

 しかしその後、彼はシシになる。シシは、もはやただ重荷に耐えるだけの存在ではない。

シシの精神は「われ欲す」と言う。    

 シシは、さらにやがて子供に変化する。


子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、つの神聖な肯定である。
 そうだ、創造の遊戯のためには、わたしの兄弟たちよ、一つの神聖な肯定が必要なのだ。

 あるがままにある子供。これこそ「神聖な肯定」である。ニーチェはそう言うのだ。


4.背後世界論者について

 その一方で、多くの人間は、この世界を否定し、その背後に「絶対の真理」があるのではないかと考えている。

 神を求める人間も同じだ。

 しかしそれは、自分の苦しみに耐えられず作り上げたまやかしなのだ。

「すべての背後世界を創造したもの――それは苦悩と無能力とであった。またそれは、最も苦悩している者だけが経験する、あのつかのまの、幸福の狂乱であった。」    


5.隣人愛について

「隣人愛」も同様だ。

 このキリスト教の教えは、自分を愛せない、そして人から愛されない自分自身を、何とか愛してもらうために捏造した教えなのだ。

「きみたちは、自分自身に我慢がならず、自分を充分に愛していない。そこで、きみたちは、隣人を誘惑して自分に好意をいだかせ、隣人の思い違いでもって自分を金めっきしようと欲するのだ。」    


6.老若の女どもについて

 ここで、ニーチェのかなり問題な女性観についても紹介しておきたい。さすがにこれは、今日許されるものではないとわたしは思う。


「真の男は二つの違ったことを欲する。すなわち危険と遊戯だ。それゆえ、真の男は女を最も危険な玩具として欲する。」

 男は戦争向きに教育されるべきであり、女は戦士の休養向きに教育されるべきである。そのほかの一切は愚かなことだ。

そなたたちの希望は、つまりこうであれ、「わたしは超人を産みたい!」

男の幸福はつまるところ、われ欲す、ということだ。女の幸福はつまるところ、彼は欲す、ということだ。
「見よ、今まさに世界は完成したのだ!」――衷心の愛情から服従するとき、どんな女でもこのように考える。

 かくて女は、服従し、そして、自分の表面に応ずる或る深みを見いださなくてはならない。


7.自由な死について

 超人の死に時について、ニーチェは次のように語る。


「一つの目標と一人の継承者とを持つ者は、目標と継承者とにとって然るべき時に死を欲するのだ。

歯の抜けた口には、もはやいかなる真理を口にする権利もない。
 かくて、名声を得たいと思う者は誰でも、時機を失うことなく栄誉に別れを告げなくてはならず、かくて、然るべき時に――去るという、困難なわざを身につけなくてはならない。
 人間としての自分の味が最もよいときに、ひとに食われるのをやめなくてはならない。」
 


第2部


1.同情深い者たちについて

 以上のような教えを述べたあと、ツァラトゥストラは山へ戻った。

 しかしやがて、彼は自分の教えが危機に瀕していることを知る。

 そこで彼は、また自らの教えを説きはじめる。

 まず彼が説くのは、「同情」の否定である。


君が悩んでいる友人を持っていたら、彼の悩みにとって憩いの場であれ。ただし、わば堅い寝床、野戦の寝床であれ。そうであれば、きみは彼のために最もよく役立つであろう。」

 同情は、人を自ら超克させることがない。それに対して、「大いなる愛」は、人をして自らを超克させることを可能にする。そうニーチェは言う。


あらゆる大いなる愛は、同情としての愛のすべてより、さらに上にある。というのは、大いなる愛は、さらに愛の対象を――創造しようとするからだ!」

 否定的な感情(ルサンチマン)を断ち切って、人生を喜べ。これがツァラトゥストラの最大の教えだ。

 ルサンチマンにまみれている限り、わたしたちは人を受け入れることができず、むしろ人を攻撃してしまうことになる。


人間があってよりこのかた、人間は喜ぶことがあまりに少なすぎた。それだけが、わたしの兄弟たちよ、われわれの原罪なのだ!

 そして、われわれがよりよく喜ぶことを学ぶならば、われわれは、他人に苦痛を与えたり苦痛〔を与えるすべ〕を考えだしたりすることを、最もよく忘れるであろう。」


2.権力への意志

 同情の大切さや、「絶対の真理(神)」を説く聖職者たちは、実は自分たちを突き動かしている本当の欲望を知らない。

 ニーチェはそのように言う。

 人間の根底にある欲望、それは「権力への意志」である。


「きみら最高の賢者たちよ、きみたちを駆りたて、熱心ならしめるものを、きみたちは「真理への意志」と呼ぶのか?」

「きみら最高の賢者たちよ、それが、権力への意志の一種として、きみたちの全意志なのだ。」

 本当は、だれもが「より強い者になりたい」という欲望を持っている。しかしそれが叶わないために、聖職者たちは、そのルサンチマンの反動から、弱き者を助けてくれる神などというまやかしを作り出したのだ。

 そうニーチェは主張する(この点についての詳細は、ニーチェ『道徳の系譜』のページを参照)。

 以上のように語ったツァラトゥストラは、また再び山の洞窟へと帰る。

 続く第3部、第4部では、ついに、本書のハイライトである「永遠回帰」の思想が語られることになる。




(苫野一徳)

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