カント『啓蒙とは何か』



はじめに

イマヌエル・カント「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである」

 あまりにも有名な、冒頭の言葉。

 近代以前のヨーロッパは、「神」が中心の世界だった。

 それに対して、カントは、人間の「理性」とこれに基づく「意志」に、わたしたち人間の生の基盤を見出した。

 時代を画した、啓蒙主義の宣言の書。短い論考なので、ぜひ多くの方に手に取っていただきたいと思う。

 もっとも、本書に併録された他の論文を読むと、論理の精密機械であったはずのカントが、現代からすればお話にならないような「フィクション」にとらわれすぎているのに驚かずにはいられない。

 たとえば、論文「世界公民的見地における一般史の構想」において、カントは、人類の歴史には自然によって定められた「目的」があると主張する。

 後のヘーゲルにきわめて近い、目的論的歴史観と言うべきものだ(もっともわたし自身は、ヘーゲルの歴史哲学にはある重要な意義も見出している。ヘーゲル『歴史哲学講義』のページを参照されたい)。

 また、「人類の歴史の憶測的起源」において、カントは、聖書をもとに人類の起源を想像するということをやっている。

 人類はアダムとエヴァから始まった。

 カントは、この聖書の記述に基づいた独自の歴史論を展開する。

 もっとも、カントのすごさは、このフィクションの中に自らの哲学理論を強引に捩じ込んでいくところにある。

 その様は、聖書と近代哲学とのスリリングな対決のようでもある。

 カントにしてみれば、聖書の記述もまた、人間「理性」の進化の過程ととらえるべきものなのだ。


1.「啓蒙とは何か」(1784年)

 理性をもつ人間は、本来啓蒙されなければならない存在だ。カントはまずそう主張する。

 しかし社会は、わたしたちを無知蒙昧なままに留めようとする。

「私は、諸方から「君達は論議するな!」と呼ばわる声を聞くのである。将校は言う、「君達は論議するな、教練せよ!」。財務官は言う、「君達は論議するな、納税せよ!」。聖職者は言う、「君達は論議するな、信ぜよ!」」

 人類の啓蒙を阻止するような社会は、きわめて罪深い社会である。そうカントは訴える。

「私は言おう、――人類がこれからの啓蒙にあずかることを永久に阻止するために結ばれるような契約は絶対に無効である、よしんばその契約が最高権力により、国家により、また極めて厳粛に締結された平和条約によって確認せられようとも、それが無効であることには変りがない、と。」

 なぜか?カントは言う。

「啓蒙を進歩せしめることこそ、人間性の根源的本分だからである。」

 カントに言わせれば、人間が人間である限り、理性を働かせ自らを啓蒙することは、いわば義務であると言うべきなのだ。


2.「世界公民的見地における一般史の構想」(1784

 本論文において、カントは、人類史とは人間が自らの「理性」を進化させる過程であると主張する。

 そして言う。その結果、社会はやがて、「各自の自由が他者の自由と共存しうる社会」へといたるのであると。

 以下、本論文を構成する9つの命題を紹介しよう。

 第1命題は、人間本性の目的論的発展について。

「およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は、いつかはそれぞれの目的に適合しつつ、あますところなく開展するように予め定められている。」

 第2命題は、人類は個ではなく類において進化するという命題。

「人間(地上における唯一の理性的被造物としての)にあっては、理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展するのは、類においてであって、個体においてではない。」

 第3命題は、人間は理性によって幸福を得るという命題。


「自然が人間に関して欲しているのは、次の一事である、すなわち――人間は、動物的存在としての機械的体制以上のものはすべて自分自身で作り出すということ、また人間が本能にかかわりなく、彼自身の理性によって獲得した幸福、或いは成就した完全性以外のものには取り合わない、ということである。」

 第4命題は、敵対関係こそが長い目で見て社会の合法的秩序を作り出すという命題。

「自然が、人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は、社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならない、しかしこの敵対関係が、ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである。」

 第5命題は、各自の自由が他者の自由と共存しうる社会こそが自然の最高の意図であるという命題。

「自然が人類に解決を迫る最大の問題は、組織全体に対して法を司掌するような公民的社会を形成することである。組織において最大の自由が保たれ、従ってまたその成員のあいだに敵対関係が普ねく存在するが、しかしこの自由の限界が厳密に規定せられ、かつ守られていて、各自の自由が他人の自由と共存し得るような社会においてのみ、自然の最高の意図――すなわち、自然が人類に与えたところの一切の素質の開展が達成され得るのである。」

 第6命題は、しかし人間は、どうしても支配者を必要としてしまう動物だという困難についての命題。
  
「如上の問題は、 最も困難であると同時に、また人類によって最後に解決するべき課題である。この課題をちょっと思いみるだけでも現前する困難は、――人間は、同類であるところの他の人間のあいだに生活する場合には、支配者を必要とする動物だということである。」

 第7命題は、人類はやがて国際連合を作り出さねばならないという命題。

「かかる国際連合においては、どの国家も――従ってまた最小の国家といえども、その安全と権利とを、自国の威力や法的判決に求めるのでなくて、この大規模な国際連合(Foedus Amphictyonum)に、すなわち合一せる威力と合一せる意志とによって制定せられた法律に従うところの決定とに期待することができるだろう。」

 この命題については、後の『永遠平和のために』においてより詳細に論じられることになる(カント『永遠平和のために』のページ参照)。今日の国連が、このカントの構想に多くを負っていることはよく知られていることだ。

 第8命題は、人類は国内外において完全な組織を創設しなければならないとする命題。

「人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程とみなすことができる、ところでこの場合に自然の計画というのは、――各国家をして国内的に完全であるばかりでなく、更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない、このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一の状態だからである。」

 第9命題は、「一般世界史」の試みは、自然の意図の実現促進の企てであるという命題。

「自然の計画の旨とするところは、全人類の中に完全な公民的連合を形成せしめるにある。かかる計画に則って一般世界史を著わそうとする試みは、可能であるばかりでなく、また自然のかかる意図の実現を促進する企てと見なさざるを得ない。」

 哲学的な「一般世界史」は、世界史の出来事を単に叙述することとは異なっている。

 哲学的な「一般世界史」、それは、歴史とは人間が理性を展開させるプロセスにほかならないことを洞察するものである。
 だからこそ、この洞察は、そのような歴史の営み(自然の意図)を促進するのに寄与するであろう。
 そうカントは言うのだ。

3.「人類の歴史の憶測的起源」(1786年)

 本論文は、聖書を手がかりに人類の起源を想像しようという試みだ。

 文字通り、カントの「想像力」の賜物にほかならないこの論文に、歴史的な実証性はほとんどない。カント自身、この論考は「ただの漫遊」にすぎないと言っている。

 それはともかく、まずカントは、人類史は1組の夫婦(要するにアダムとエヴァ)からはじまったと述べる。

 彼らは神によって、食べてはならないものを決められていた。

 しかしやがて、彼らには「理性」が芽生え始めた。そこで、食べてはならないものを食べればどうなるかと考え始めた。

「やがて理性が独立にはたらき始め、すでに食べた経験のある食物と、本能に結びついている器官とは別の器官――例えば、視覚器官がいつか食べたことのある品に似ていると思いなす新たな食物とを比較し、こうして食料に関する彼の知識を、本能に依る制限を超えて拡張しようと試みたのである」    
 
 禁断の果実を食べた理由を、欲望ではなく「理性」に見るのがカントの面白いところだ。

 さらにカントは続ける。

「ひとたび活潑にはたらき出した理性は、その影響力を性の本能の上にも及ぼさずにはおかなかった。〔中略〕それだから彼等が、イチジクの葉を綴り合せて腰に巻いたことは、理性が初期の発展段階におけるよりも、遥かに進んでいたことを示す成果にほかならない。」
 
 性欲もまた、人間は理性によってコントロールしたのだとカントは言うわけだ。

 さらに人間は、自身があらゆる動物界の頂点にいることを自覚した。

 しかし同時に、人間は自らの理性によって次のことをも知るのだった。

「およそ動物はもはや彼と同格の被造物ではなくて、彼自身の任意の意図を達成するために、随意に使用し得る浮段であり道具であると見なすようになった。ところでこのような考えは、他方においてこれと対をなす思想を(たとえおぼろげにもせよ)含んでいるのである、すなわち――彼はこのようなこと、をほかの人間に向って言うことは許されない、この人間とても彼と等しく自然の賜物に与り得る仲間と見なされねばならぬ、ということである。」

 カント道徳哲学の根本は、他者を「手段」としてではなく「目的」として扱えという命法にある(カント『道徳形而上学原論』のページ参照)。

 聖書の記述の中に、こうやって自身の哲学を捩じ込んでいくところは、近代哲学の王者カントの面目躍如と言うべきだろう。

 以上の話からカントが言いたかったのは、次の文章に端的に表されている。

「この過程は、善から始まって悪に趣くのではなくて、比較的に悪い状態からいっそう善い状態に向って次第に発展するのである。そして各人が、おのがじし分に随って力の及ぶ限りこの進歩に寄与することこそ、すなわち自然そのものによって人間に課せられた任務なのである。」

 人類は、アダムとエヴァの失楽園によってこの世界に投げ出されてしまった。

 しかしそれは同時に、人間の「理性」の芽生えと進歩の始まりでもあったのだ。

 わたしたち人類は、この進歩にこれからも寄与しなければならない。

 カントはそう主張する。

 理性とその進歩に大きな希望を託した、「近代」哲学の金字塔と言うべきだろう。


(苫野一徳) 



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