ブローデル『物質文明・経済・資本主義(2)—交換のはたらき①』


はじめに

 本書第1巻「日常性の構造」で「物質文明」について詳細に論じたブローデルは、続く第2巻「交換のはたらき」で、15〜18世紀の「市場経済」の全貌を明らかにする。

 市場経済とは何か?

 ブローデル歴史学の特徴は、「市場経済」と「資本主義」とを分けて考えるところにある(厳密には、市場経済の中に「市場」と「反−市場」があると言ったほうがいいだろうか)。

 ブローデルは言う。

「私が始終気付いたのは、通常のそしてしばしば慣習的な(十八世紀では、自然のと呼ばれたであろう)交換経済と、より上位の、精緻をきわめた(十八世紀では、人工的なと呼ばれたであろう)経済との絶えざる対立であった。私は、この区分が明白に触知できるものであり、これらの相異なる階の間では、活動の担い手と人間・行動様式・心性が明(2)らかに同じではないと信じている。」

 つまり、市場経済とは公正で透明な交換のこと(市場)、資本主義は、独占的で特権的な特徴のある交換(反−市場)のことである。

「一言で言えば、商業世界の階層制度というものが存在するのである。」    

 本書でブローデルは、この比較的公正で透明な「市場経済」をテーマに論じる。

 「資本主義」が論じられるのは、続く第3巻「世界時間」においてである。

 前巻同様、本巻も邦訳は2分冊になっている。そこで本ブログでも、以下2回に分けて、第2巻「交換のはたらき」を見ていくことにしたいと思う。


1.市(いち)とその解体

 ブローデルによれば、早くも12世紀には初歩的な「市」(いち)が存在していた。

 市、それは、仲介者なしの、生産者と消費者の直接の交換の場である。それは「もっとも直接的な、もっとも透明な形態であって、もっとも監視の眼も行きとどき、騙される危険が少ないのである。もっとも公正なと言ってよかろうか。」 

   都市が発達するにつれ、都市は市の監督権を一挙に手に入れていくことになる。

 そうなると、伝統的な「市」はやがて解体していくことになる。市は巨大化し、あらゆるものが商品となって市を通過するようになる。

 中でも重要なのは、「労働力」もまた商品化されていくという点だ。

 17世紀イングランドの哲学者、トマス・ホッブズはすでに次のように言っていた。

「「各人の能力は一つの商品」、すなわち通常市場の競争のうちで交換に供されるものである。」

 もっとも、こうした考え方は当時まだあまり一般的ではなかった。

 18〜19世紀の経済学者リカードまでなると、この考え方はより自覚的なものになっていく。リカードは次のように書いている。

「労働は売買できるすべての品物と同じく……」

 こうして農民たちは、賃金を受け取ることに慣れていく。新しい「心性」が芽生えるようになったのだ。


2.商店

 市に対する最初の強敵は「商店」だった。

 市が定期的に行われるものであったのに対して、商店は常に開いていた。

「都市の出現とともに直ちに姿をみせる最初の商店は、実際には、パン職人、肉屋、靴職人、木靴職人、鍛冶屋、仕立師その他小売りを行う職人の(そういう言い方が可能ならば)工房である。」   

 その後、「本当の」商店主が現れることになる。交換の「仲介者」である。

「彼らは生産者と購買者の間に割り込み、売り買いのみを行い、決して自分の手で(少なくとも初めから終わりまでは)製造しない。」    

 こうした仲介者にはヒエラルキーがあった。

「頂点には遠隔地交易を専門とする何人かのきわめて富裕な商人がいる。底辺には針や油びき布の零細な小売人」    

 こうして17世紀になると、商店が隆盛をきわめることになる。

 その最大の理由は、「信用売買」にあった。

 こうして、商店を通じて次のようなことが起こることになった。すなわち、①供給の増大、②交換の加速、③サービス業の発達、である。


3.行商

 こうして商店が発達する影に、伝統的な「行商」がいたことも忘れてはならない。

「行商人(colporteurs)とは、ごくわずかの商品を「首(col)にかけて運ぶ(porter)」、要するに背負って運ぶ一般にみすぼらしい商人のことである。しかしながら彼らは交換の無視できない部分の担い手なのである。彼らは、都市の中でも、そして町や村ではなおさらのこと、供給の通常の網の目の欠けた所を埋めているのである。」    

 もっとも、彼らは比較的後進的な地域にいた。

 しかしその中に、のちの大商人がいたとブローデルは言う。

「何か偶然の機会に恵まれれば彼らは社会の階段を一段上るのである。十八世紀において、われわれが先に語ったような、村々のささやかな店舗を開いたのはほとんど常に行商人であった。」    

 そしてまた、きわめて適応性に富んだ彼らは、供給に支障が生じたところに出向き、その穴を埋めることができた。

「たとえば大革命と帝政時代のフランスは行商の異常増殖の舞台であった。」


4.大市

 都市では大市もまた定期的に開かれた。

「一ヵ月、二ヵ月あるいは三ヵ月の不在の後それらは再び同じ場所に戻って来る。〔中略〕もっとも頻繁に開かれたのは、最大規模の大市ではなくて、小規模な家畜大市、「肉獣大市」と呼ばれていたものであった。」    

 その騒がしさは、たとえば次のようであった。

「花火、かがり火、太鼓の連打、それらはすべて同市の負担である。そして市街は今や、人を楽しませる芸を身につけたあらゆる種類の人々、霊妙な効能を持つ薬・売薬・万能膏薬などの売り子、占い師、軽業師、手品使い、綱渡りの芸人、抜歯師、遍歴の楽師と歌手にあっという間に占領される。旅宿は人でふくれ上がっている。」    

 この大市で発達したのが、「信用制度」だ。信用制度は人類の歴史と同じくらいの歴史があるが、それは大市において著しく発達することになったのだ。

 しかしその後、大市は取引所に取って代わられていくことになる。

「ピアチェンツァの大市が十六世紀末と十七世紀初頭において商業活動の中心であったとすれば、その後やがて、世界の新しい中心はアムステルダムの取引所ということになる。一つの新しい形態・機構がもう一つのものに打ち勝ったのである。」    


5.取引所

 取引所、それはすべてのものを扱う場所である。

「大卸売商人たちと無数の仲介業者の出会いのおかげで、そこでは同時にすべてが扱われる。商操作、手形交換、出資分担、危険が多数の保証人の間で分担される海上保険。それはまた金銭市場、金融市場、証券市場でもある。」    

 17世紀初頭の革新、それはオランダのアムステルダムにおける証券市場の成立だった。

 ここにおいて、公債東インド会社の株券は現代とまったく同様の活発な投機の対象になった。

 もっとも、国債証書はヴェネツィアでは非常に早くから、またフィレンツでは1328年以前から取引の対象になっていた。

 しかしアムステルダムが新しかったのは、証券取の量流動性公開性投機の自由という点にあった。

 そこにさまざまな人の「思わく」が働いた。

 有名なのは、1634年ごろにオランダ中で荒れ狂った「チューリップ投機熱」である。

「それ自身としては大して値を持たない」球根一箇と新調の馬車一台葦毛の馬二頭および馬具一式」が交換されるとろまでいった

 アムステルダムに続いたのがロンドンだ。1659年、王立取引所では国東インド会社株、イングランド銀行株の最初の取引が見られた。


6.アルメニア商人とユダヤ商人

 こうした巨大事情に対応するため、16世紀終わりごろから、委託売買と協同事業が一般化するようになる。

 ここに、新たな「商人道徳」と言うべきものが成立していくことになる。

「商人の協調と協同の形式がいかなるものであれ、それは誠実さ・個人的信頼・正確さ・指図への忠実さを要求する。かなり厳格な一種の商人道徳というべきものである。」    
 
 こうした市場においては、世界中にネットワークを持った商人たちが活躍するようになる。

 たとえばアルメニア商人は、ペルシア、フィリピン、トルコ帝国、ネーデルラント、イギリス、フランスなど、商業世界のほぼ全域にいた。

 ユダヤ商人は、1492年にスペインとシチリアから、また1541年にナポリから追放されるが、その後2つの方向に分かれていくことになる。

 地中海沿岸のイスラム圏と、大西洋沿岸諸国である。

 イスラム圏のトルコでは、彼らはセラニク、ブルサ、イスタンブル、アドリアノープルにおいて、16世紀以降、大商人として、あるいは徴税請負人として巨大な富を築くことになる。

 他方の大西洋においては、アムステルダムとハンブルクが特権的なゴールだった。

「彼らがイベリア半島の方向への――リスボンに向けてと同様にセビリャ、カディスおよびマドリッドに向けての――オランダの商業的発展に力を貸したのは疑う余地がない。」

 とは言え、ブローデルは、資本主義はユダヤ人によって考え出されたとするゾンバルトには賛成できないと言う。

「ユダヤ人が資本主義の最前線にいたからといって、彼らがそれらの戦場を作り出したということにはならない。ユダヤ人の知性は今日世界中に輝やいている。だからといってわれわれはユダヤ人が核物理学を作り出したと言うであろうか。アムステルダムで、彼らが株の「繰越取引」「特権つき取引」の中心的存在になったのはたしかである。しかしこれらの株式操作の始まりには、イサーク・ル・メールのようなユダヤ人でない人物の姿が見られるではないか!」    


7.ヴェルザー家とフッガー家

 この時代に忘れてはならないアウクスブルクの大商人が、ヴェルザー家フッガー家だ。


 ヴェルザー家は、ヨーロッパ全域に、地中海地域に、新世界に姿を見せる。

 フッ家の人々は、中部ヨーロッパのハンガリー、ボヘミア、それにアルプスにおける最大の鉱山事業の主人である。

 また、彼らは代理人を通じてヴェネツィアにもいる。

 16世紀の世界の活動の中心であった、アンヴェルス(アントウェルペン)もまた支配している。

 彼らは早い時期からリスボンやスペインにも姿を見せる。スペインでは、彼らはカルロス一世(神聖ローマ皇帝としてはカール五世の味方となる。

 さらに彼らはインドにも手をのばしていた。

「要するに、巨大な商会の版図は、よく知られているように、太陽の沈むことがないと言われたカルロス一世〔カール五世〕とフェリペ二世の帝国よりもさらに広大だったのである。」


8.貴金属、貨幣

 こうした巨大市場においては、貴金属や貨幣が早いスピードで移動した。

 金や銀の生産国は、ほとんどが未開の地である。そのためその地の人びとは、ヨーロッパ人から徹底的に搾取されることになった。

「そこでの物価は、富める者にとってさえ常軌を逸したものである。めんどり一羽がそこでは高い時には八レアールにもなった。〔中略〕これは何を意味するのであろうか。銀がそこではただ同然であったということである。そして、そこで楽な暮らしをしてるのは、鉱夫でも鉱夫の親方でもなく鋳造された銀・食料品鉱山で必要な水銀を前貸ししそれを当たり前のように地金で返却させている商人である。    

「世界規模における分業において鉱夫の仕事は、繰り返し言うが、人間のうちもっともみじめなもっとも恵まれない者たちに割り当てられることになっていたのである。賭けられているものがあまりにも重要なので、この世の強者たちは彼らがいかなる存在でありどこにいようともそこに強力に介入して来ずにはいない。また、同じ理由によりダイヤモンドや宝石探鉱も彼らは自分たちの爪から逃しはしない。    

 この貴金属が流れ着く先は、中国やインドなどだった。胡椒などの香辛料を有するアジアとの貿易において、ヨーロッパは貴金属や貨幣以外に交換できるものがなかったからだ。

 そんな中、16世紀の最後の20〜30年間に、ヨーロッパは、後にピアストルと呼ばれることになるスペインの8レアール銀貨の洪水に見舞われることになる。

 スペインは、南米植民地から大量の銀を獲得することができたのだ。そしてそれが、極東に対するヨーロッパ経済の武器となる。

 しかし当時のヨーロッパ諸国は、重商主義政策をとり貴金属の流出を防ごうとした。

 ブローデルは、これは喜劇的な光景だったと述べる。

 なぜなら、オランダ、そしてのちにイギリスは、金と銀の自由な流出入によってこそ栄えることになったからだ。

「(オランダでは、)金と銀の貨幣は好きなようにそこへ入りまた出ていく。同様な自由が、躍進するイギリスでも、やがて確立されるであろう。十七世紀末までつづいた激しい議論にもかかわらず、貨幣の形をとる金属に対して門戸はますます広く開かれるだろう。東インド会社の盛衰はそれにかかっているのである。    

 しかし、フランスをはじめ、門戸開放が一般的思想になるまでには、かなりの時間がかかることになる。

 それは、新しく登場した領域国家の、「自己防衛」的態度のせいだったと言っていい。

「よりよいのは収支が黒字であることだ。それは、国家の富と貨幣の備蓄を同一視するすべての重商主義的政府の夢である。こうした思想はすべて、いわば理の当然として、領域国家と同時に出現したのであった。成立の兆しを見せるや否や、それらは自己防衛の傾向を持つ。」


9.悪貨は良貨を駆逐する

 前巻においても、「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則について述べた(繰り返すが、この言葉は実はグレシャム以前からあったものである)。

 これはまさにこの時代のヨーロッパに当てはまる。

 この時代、ヨーロッパは大量の銀を放出した。しかしその一方で、金を高く評価し、これを手もとに置き続けようとしたのだ。

「金を引き止めておくことと銀を奔流のように流出させること。結局のところ、このプロセスを明晰に説明するためには、グレシャムの法則を再び持ち出さねばなるまい。悪貨は良貨を駆逐するのである。事実、貨幣はその価値が当該経済の相対的水準との関係において過度に高くなったとき、現に通用している貨幣を駆逐するのである。〔中略〕ヴェネツィア、イタリア、ポルトガル、イギリス、オランダ、そしてスペインさえ、金を重んじる。その上ほんのわずかの差でさえ金が高値の方へ流れるために十分である。その時、それは「悪貨」である。なぜならそれは、白い金属を駆逐し、それに世界を駆け回らせるからである。」    


10.ポランニー批判

 ここで、ブローデルのカール・ポランニー批判を取り上げておこう。

 ポランニーによれば、19世紀になってようやく、「自動調整機能を持つ市場」への「大転換」が起こった(もっともポランニー理論の根幹は、「完全に自動調整的な市場など存在しない」と主張することにある。ポランニー『大転換』のページ参照)。

 ポランニーは、自身の理論を論証する際、アメリカの先住民族のポトラッチや、メラネシアのクラといった慣習について述べる。

 しかしこのことについて、ブローデルは言う。

なるほど十九世紀の「大転換」についての議論の中に(十七・十八世紀のひじょうに多様化した商業体制ではなく)ポトラッチやクラを持ち込むことを、禁じるものはない。しかし、それは、ヴィクトリア女王の時代のイギリスにおける結婚のしきたりに関して、レヴィ=ストロースの血族関係に関する説明を援用するようなものなのである。 」   

 つまりブローデルは、経済学者・経済史家・経済人類学者ポランニーの、いわば歴史的教養のなさを問題にするのだ。

「近年においては、社会学者と経済学者、今日では人類学者が、不幸にも、われわれを彼らのほとんど完全な歴史に対する無理解に慣れさせてしまった。」    

 さらにブローデルは言う。

その上、われわれに提示された「自動調整市という概念――それは、かくかくしかじかであり、それは、かくかくの、ものではなく、それはかくかくしかじかの例外をみとめないといった調子の――は、定義に対する神学的嗜好にもとづいている。〔中略〕ある交換の形態を経済的であり、他のある形態を社会的であると名付けるのはあまりにも安易である。実際はすべての形態が経済的であり、すべてが社会的なのである。何世紀もの間、きわめて多様な社会・経済的交換が存在し、それらはその多様性にもかかわらず、あるいはその多様性のゆえに共存して来たのである。    

 19世紀とそれ以前とで、市場のあり方ががらりと変わったなどと安易に言うなとブローデルは言うのだ。人類の長い歴史においては、実にさまざまな交換形態が存在し続けてきたのだ。

 たとえば、価格の変動は市場経済の存在を証明すると考えていいが、その観点からすれば、「十三世紀には、価格はすでにヨーロッパ全域で一致して変動している。」

要するに、市場経済はゆっくりと着実に形成されて来たと思われるのである。    

 ブローデルからすれば、市場経済への転換は、ポランニーの言うような「大転換」ではなかったのだ。


11.資本・資本家・資本主義

 ここでブローデルは、徐々に資本主義へと考察を移していく。

 そこでまず彼は、資本・資本家・資本主義という言葉について考察する。

 まず資本という言葉は、12〜13世紀に登場したものである。そして次第に、この言葉は商人や商会の「資本金」という意味を持つようになる。

 資本家という言葉の登場は、17世紀中頃のことだ。そして18世紀後半には、「金銭資産」の保持者という意味を獲得していた。

 最後に資本主義という言葉は、1842年の辞書にようやく見られるが、よく知られているように、マルクスはこの言葉を知らなかった。

 資本主義という言葉が学会に登場するのは、ゾンバルト『近代資本主義』(1902年)によってである。そこにおいて、資本主義は社会主義との対立概念として提示された。

「マルクスによって用いられたことのないこの語は、まるで当然のようにマルクス主義の図式のなかに組み入れられ、『資本論』の著者が区分した三つの大きな発展段階を一般に奴隷制・封建制・資本主義と呼ぶところまで行くのである。」    


12.なぜ資本主義は閉じられていたのか?

 しかしブローデルは、先述したように資本主義という言葉を不公正で特権的な市場経済という意味で使用する。そして言う。

「もっとも肝心な問題は、どのような理由によって一昔前の社会の、私が資本主義的と呼ぶことをためらわない一部門が、閉じられた、さらに言えば殻をかぶったシステムとして生きたのか、どうしてそれが容易に他の部門へ移り住むことができず、社会全体を征服することができなかったのかということである。」    

 なぜ資本主義は、この時代いまだ一部に閉じられていたのだろうか。ブローデルはそう問うわけだ。

 その最大の理由は、ヨーロッパの農民社会にある。

 ヨーロッパにおいて、土地の所有は社会的上昇を意味しており、ヨーロッパの金持ちたちは、さまざまなところに土地を買った。

「十六世紀にジェノヴァの商人たちは遠くナポリ王国において貴族領を買ったものであった。 」   

 しかしそのことは、ただちに資本主義的農業の開始を意味するわけではない。購入した土地は、結局のところ伝統的な荘園にとどまったのだ。

「アウクスブルクのきわめて富裕な商人フッ一族は、彼らの最隆盛期にシュヴァーベンフランケンにおいて荘園や大公領を多数買い入れ。〔中略〕しかし彼らはだからといってそれらの土地の構造を変化させはしなかった。彼らの所有する荘園は荘園でありつづけ、古来の権利と賦課租を上納する農民をかかえたままであった。」    

 なぜか?

「疑いもなく、農村へは自分の流儀で入りこむことができないからであり、荘園制という上部構造が活力と抵抗力を持つ現実だからであり、そしてとりわけ農民世界がえてして革新への障害となりがちだからである。    

 農村の伝統は、それほどにも根深いものだったのだ。

 とは言え、ブローデルは、多くの農民生活史学者が言うような、農村は何百年もほとんど代わり映えしなかったという説には与しない。

農民にもさまざまなあり方があり、窮之するにも数々の仕方がある。リュシアン・フェーヴルは、地方ごとの相違を念頭において、「フランスは、多様性という名を持つ」と始終言っていたものであった。だが、世界もまた多様性という名をもつのである。土・気候・作物の違いがある。    

 たとえば、農民はある時には領主に対して大きな自由を手に入れることができた。そしてそれは、徐々に大きなものになっていった。

 その反対に、16世紀、ポーランドの「第二次農奴制」(再版農奴制)は、農民たちを再び農奴にしてしまった。

 また、都市の誕生とともに、多くの農民が都市へと流れ込んだ。

 農村の生活は、決して一様のものではなかったのだ。


13.荘園制の解体

 そしてついに、この荘園制が徐々に解体していくことになる。

 それはたとえば、領主自身や大百姓が資本主義を志向して起こる解体だった。

 あるいはもっと巨大なものとしては、都市の金が流入したことで起こった解体だった。

利潤の多い外部市場の需要にこたえて、ジノヴの事業家たちは、十五世紀にシチリア島でさとうきびの栽培をはじめ製糖場を開設し、トゥズの卸売商人たちは十六世紀に彼らの住む地方でいせいの産業的栽培の誕生をうながす。ボルドー地方あるいはブルニュ地方のぶどう園は、次の世紀に、相当な規模の経営地に発展して、ボルドーとディジョンの高等法院の院長や評定官たちの堅実な資産を作り出すことになる。結果として生じるのは、任務と役割分割、経営の資本主義的組織の立である。」   

 こうして、資本主義的農業が徐々に行われていくようになる。


14.再版農奴制

 しかしその一方で、東ヨーロッパでは再版農奴制(邦訳では「第二次農奴制」)が強化されていった。

「その後、バルト海から黒海、バルカン半島、ナポリ王国、シチリア島に及ぶ、また(ひじょうに特異なケースであった)モスクワ大公団からポーランドと中部ヨーロッパを経て、ほぼ、ハンブルクからウィーンそしてヴェネツィアへ引かれた線まで達する広大な空間において、農奴制に向けての全面的な揺り戻しが起こったのである。    

 ブローデルは、これは資本主義的なものではまったくなかったと述べる。

「ポーランドの大貴族や領主は資本家ではない。彼らが手にする金銭の平面と、彼らの足下にある自然経済の平面の間で、すべてが彼らにとってあまりにも容易である。彼らは計算をしない。なぜなら機構がひとりでに動くからである。彼らは、是が非でも彼らの生産コストを切りつめようとはしない。彼らは土地の生産性を改善することにはほとんど意を用いない、それを維持することにさえ――とは言え、土地は彼らの資本なのだが。彼らはあらゆる現実の投資を拒む、彼らは、できる限り、無償の労働力である彼らの農奴ですまそうとする。収穫は、それがどのようであれ、その時点で彼らにとって儲けなのである。    

 しかしこの大地主たちは、資本主義システムとかかわっていた。

大地主は資本家ではないが、彼はアムステルダムの資本主義に奉仕しており、あるいはその上、その手先、そしてその協力者である。彼はシステムに加わっているのである


15.プランテーション

 再版農奴制が資本主義的ではなかったのに対して、新大陸のプランテーションは完全に資本主義的である。

 それは奴隷制によって成り立っていた。そして、「金銭、信用、輸送、交換が、それらを大洋の東側の岸と結びつける。セビリャ、カディス、ボルドー、ナント、ルーアン、アムステルダム、ブリストル、リヴァプール、ロンドンからすべては遠隔操作されているのである。」

 しかし現地のプランターは、利潤から疎外されていた。それは本国が独占したのだ。


16.一部の先進地域とほとんどの後進地域


 資本主義はイギリスで発展していくが、その背景には次の4つが考えられる。

 ①荘園制の消滅、②農地の賃貸、③賃金労働者、④借地農が企業家になり、賃金労働者が最下層になる。

 やがてフランスでも同様のことが起こっていく(ただし、周知のようにフランスでは産業革命は1830年からのことで、イギリスよりずっと遅れていた)。

 しかしこうした資本主義的形態は、ヨーロッパではまだまだ長い間例外的なものだったのだ。

「資本主義的未来を予示する先進地域が存在する。しかしヨーロッパにおいては、そういう言い方ができるとして、後進あるいは停滞地域の方が優勢である。」





(苫野一徳)

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