ブローデル『物質文明・経済・資本主義(1)—日常性の構造②』


はじめに

 『日常性の構造』邦訳第2分冊のテーマは、技術、エネルギー、貨幣、都市。

 第1分冊と同様、15〜18世紀の、ヨーロッパを中心とする人びとの生活が、これでもかというほどの無数の例とともに描き出される。


1.技術とエネルギー

(1)必要が推進する技術

 技術について考えるにあたって、ブローデルはまず次のことに注意を促す。

「いかなる発明にせよ、ドアをノックしてから実生活に導き入れられるまでには、何年間も、あるいは何世紀間も待たなくてはならない。まず《inventio》〔発明〕がなされ、ずっとのちに、社会の受容力が所要の程度にまで達したところで応用(usurpatio)の出番となる。」

 たとえば蒸気機関は、産業革命が起こるずっと前から発明されていた。しかしその必要性が十分認識されていなかったために、大がかりな実用化までにはかなりの時間がかかったのだった。

 石炭もまた、ヨーロッパでは1112世紀、中国では前4000年紀から利用されていた。

 ブローデルは次のような興味深い例も挙げている。

「十四世紀の流行病のせい西ヨロッパの人口が激減したのち長柄の鎌を構えた死に神、すなわち《Schnitter Tod》〔草刈り人夫姿の死神〕の画像が心に取り憑いて離れなくなた。しかし当時にあってはその長柄の鎌はもっぱら牧場の牧草を刈るのに用いられたのであって麦を取り入れる道具に使われたことはめったにない。〔中略〕長柄の鎌は穀粒が落ちこぼれるという苦情のたねになて、十九世紀初頭まで般化するにいたらなかったのである。そのころになって初めて作業を早める必要が生じ穀物をある程度無駄にできるようになってこの手早い道具の優先的利用が広まりえたのである。    


(2)家畜

 人類にとって、家畜は長い間重要な「エネルギー源」だった。

 たとえばラクダ。

 大著『地中海』にも、「ひとこぶラクダ」「ふたこぶラクダ」についての興味深い記述があるが、本書においても彼は次のように書いている。

「〈旧世界〉のがらんどう地帯一帯――大西洋岸のサハラ砂漠からゴビ砂漠まで間断なく続く、あの暑かったり寒かったりする果てしない砂漠の連鎖――に駱駝と単峰駱駝が広まったのは、このうえなく理に叶ったことである。〔中略〕暑い砂漠は、寒がりな――おまけに山岳地帯にも適さない――動物である単峰駱駝の領域である。寒冷地の砂漠と山岳とは駱駝の領域であって、アナトリアおよびイランがこの二つの領域の分割線をなしている。」

 ちなみに『地中海』には、寒さに弱いひとこぶラクダを使用したアラブ人たちが寒い地域に侵入できなかったのに対して、寒さに強いふたこぶラクダを使用したトルコ人たちは、山岳地帯にまで侵入することができたという記述がある(『地中海』(1)のページ参照)。


 馬について言うと、これは新石器時代からフランスにいたことが分かっている。そして前18世紀にはエジプトにいた。

 中国には馬は少なかったが、中国の皇帝はおそらく世界最大の馬の持ち主であったろうとブローデルは言う。

「皇帝の臣下を全員合わせたところで、君主が所有するよりも多くの馬を持っていたかどうか、怪しかったのではあるまいか。」 

   イスラム圏には馬が豊富にいた。そのためヨーロッパは、この侵入者たちに対抗するため、馬と騎兵を増大させていく必要があった。

 しかしヨーロッパでは馬はひどく高額だった。コジモ・デ・メディチは1531年に騎兵隊を創設したが、そのせいで彼は破産したのだった。

 18世紀末、パリには粗悪な辻馬車があった。

「十八世紀末には、約二〇〇〇台の粗悪な辻馬車が、廃馬に引かれ、粗野な口を利く御者に御されてパリを走っていた。〔中略〕この時代の《パリの渋滞》は有名で、具体的な例をいくらでも挙げられる。」    


(3)水車、風車

 水車と風車もまた、人類にとっての重要なエネルギー源だった。


 11〜13世紀、ヨーロッパは「第一次機械革命」とでも呼ぶべき水車・風車の増大を経験する。

 ヨーロッパの水車や風車は、いずれも「垂直」式だったが、これはローマが発明した天才的偉業であったとブローデルは言う。

  ギリシア、スカンディナヴィア、日本などは水平水車だったが、垂直水車はその力が圧倒的に強力だったのだ。

 風車については、北ヨーロッパの方が南ヨーロッパよりも進んでいた。ブローデルは次のような興味深いことを言っている。

「たとえばスペインのいくつかのとりわけラマンチャに風車が到来したのはだいぶあとになてからであるしたがある歴史家が語るところによるとドン・キホーテがあんなに怯えたのはごく当然であった。あの巨大な怪物が立ち並んだ姿は彼にとては未見のものであ

 風車と言えばネーデルラントだが、それには理由があった。

 水はけの悪い土壌を改良するためにその動力が必要であり、また、大西洋からバルト海めがけて絶えず吹き寄せる、西風の中心地に位置していたからである。


(4)森林資源

 ヨーロッパには豊富な森林資源があった。ブローデルは言う。

「長期的な見方をするならイスラム圏の衰因はヨーロッパに比して森林資源が貧弱で徐々に涸渇していとにある    

 しかしその森林資源は、ヨーロッパにおいては次々に破壊されていくことになった。


「どの国のばあいでも、一回の艦船全体を整備するたびに、こうしてじつに厖大な森林資源が破壊されていった。」

「伐採すると、元どおりになるまで二、三十年間待たなくてはならなかった。」

 木材は、水路、海路を通って様々な都市に運ばれた。

早くも十四世紀から、木材を組んだ巨大な筏が幾組も、ポーランドの河川をバルト海まで下ってゆくさまが見られた。はるかかなたの中国では、これと同様の、しかもより壮大な光景が見られた。    

 石炭について見てみると、中国では石炭は紀元前1000年ごろから使用されていた。

 しかしコークスが利用されず、中国は産業革命を起こせなかった。

 ヨーロッパのエネルギー源について、ブローデルは次のようにまとめている。

 重要性の順に並べると、第一は動物、第二は薪、第三は人力、そして最後に帆船となる。

重要なのは牽引用動物と薪とが文句なく一位と二位とを占めていたということである〔中略〕。水車・風という解決策がもっと大きくびずにまったのはとつには技術的理由のためである(鉄ではなくて木材が広く利用されていたことからくる)

 しかし産業革命以前に、ヨーロッパにはすでに前産業革命とも言うべき段階があったとブローデルは言う。

繋駕した牛馬薪の炎そのうえ流水風に頼初歩的原動機そのうえ労働に携わる人の増加。――上すべての要素が十五世紀から十七世紀にかけてヨーロッパにおける一定の成長さ・出力実際的知力の緩慢な増進を引き起こした。」

 それゆえ彼は次のように言う。

蒸気が登場するやまるで魔法のはたらきのようにロッパではすべてが加速されることとなた。しかしそれは説明のつく魔法であった。    


(5)鉄

 続いて鉄について。


 鉄の早期の使用においては、中国が群を抜いている。

「そこでは西暦紀元前五世紀ごろに鋳鉄が知られてた。早くから石炭が利用されていたしおそらく西暦十三世紀にはコークスによる鉱石の溶解法が知られていた。


 とりわけサーベルに使用された、ヨーロッパ人に「ウーツ」と呼ばれた特殊鋼は、彼らにとって神秘以外の何ものでもなかった。

十九世紀初頭の三十年間といものずいぶん大勢の西ヨロッパの学者やロシアの冶金学者たちが《ウツ》の秘密を情熱的に研究したのであって彼らの探求が金属組織学の起源をなしたといもよい。

 しかし中国では、13世紀以降、鉄の技術がまったく進歩しなくなってしまう。

 これはいったいどういうことかとブローデルはいぶかるが、しかし何事においても、それが中国というものなのだ。

中国の運命は全体と同じひとつの問題を提示しておりそれは茫漠としていまだに解決しがたい。



(6)三大技術革新

 15世紀から18世紀にかけての三大技術革新といえば、言うまでもなく「大砲(火薬)」「印刷」「外洋航海」だ。

 まず火薬について言うと、中国では9世紀に火薬が作られ、11世紀には火器も登場していたが、15世紀末にはヨーロッパに抜かれてしまう。

 紙もまた中国からやってきたが、その滑らかさは印刷術の誕生を予告するものだった。

「ヨーロッパの印刷術は苦難を経ながら、一四四〇年—一四五〇年ごろ、あいつぐ手直しを重ねつつ根をおろした。」

 外洋航海についても、鄭和の遠征において中国がヨーロッパに先んじていた。

 しかし1433年以降、この遠征は中止されることになる。その理由をブローデルは次のように述べる。

「たぶん明朝の中国は、北方遊牧民の脅威の再発に直面しなくてはならなかったのである。」

 ちなみに、ブローデルの弟子とも言っていいウォーラーステインは、鄭和の遠征が中止された理由を別の観点から次のように言っている。

 1つは、稲作の中国は食糧が十分にあったため外に向かう必要がなかったということ、そしてもう1つは、広大な中国帝国は、その内側の管理だけで手一杯であったということ(ウォーラーステイン『近代世界システム』のページ参照)。

 要するに、中国は遠征の必要がなかったのだ。

 このことについてはブローデルも次のように言っている。

 中国も日本もイスラム圏も、外洋航海の技術は持っていた。しかし彼らにはその必要がなかった。

「かたや西ヨーロッパは、狭苦しい《アジア大陸の岬》に閉じこめられていたために、世界を必要とし、自分たちの圏内から出てゆくことを必要としていたわけで、西ヨーロッパの長所はそういう必要を感じたことにあったのではなかろうか。」


2.貨幣

 続いて貨幣について。


 ヨーロッパは、比較的金・銀・銅が豊富だったが、1316世紀は銀が稀少になり、15501680年までは逆に金が稀少に、そして1680年以降、両者は均衡することになる。

「悪貨は良貨を駆逐する」とはサー・トマス・グレシャムの言葉として有名だが、実はこの言葉は彼以前からあったものらしい。

「この法則の文言は非常に有名である。――悪貨は良貨を駆逐する。尺度を長く取って見渡すと、金貨なり銀貨なりが順繰りに《良く》ないほうの貨幣の役割を演じて、他方、つまり良いほうの貨幣を、投機業者の手中なり蓄財者の毛糸の長靴下のなかなりに追いやったのである。」    

 銀が稀少になれば銀が高価になり、金が稀少になれば金が高価になる。実に単純な法則だ。

 ヨーロッパの貨幣経済には、不治の病が2つあったとブローデルは言う。

 1つは、貴金属がつねにヨーロッパから出ていってしまうということ。極東の絹・胡椒・香辛料・麻薬・真珠の代価を払うのに、ヨーロッパは銀や金をもってしなければならなかったのだ。

 もう1つは、そうして大量の貨幣が本来必要であるにもかかわらず、人びとはこれを貯め込んでしまったということ。

「それに、諸国政府が蓄財の仲間入りをした。すなわち、シクストゥス五世がサンタンジェロ城に詰めこんだ宝とか、シュリーが兵器廠に貯め込んだ宝とか、〈軍曹王〉の宝とか。」    

 証券について言うと、これは紀元前20世紀のバビロンにおいてもすでに使用されていた。

 ヨーロッパもまた、必要にせまられてこれを再発明することになる。

「(為替手形は)西洋では十二世紀になって生まれたそれは金銭がその時代になって地中海全域をつうじまたイタリアの諸都市からシャンパュ地方各地の大市へとじつに遠大な距離を運ばれなくてはならなかったからである。    


3.都市

 最後に都市について。

 11世紀、ヨーロッパには、ローマ滅亡以来ようやく都市がよみがえる。そしてこれが、ヨーロッパを世界の勝者たらしめる大きなきっかけとなった。

 都市ではさまざまな分業が行われ、経済を推進していった。

 ブローデルによれば、このような都市は、農村という「植民地」を必要とした。


市が都市として存在するのは自分より劣った生活と向かあうばあいに限られこの規則には例外がない。都市が《存在する》ためには、たとえどれほど小規模で植民地を支配しなくてはならない

っさい農村が都市を支えなくてはならなかった。さもないと都市は一瞬ごとに自分の存続について心配することになたのである。」

 大規模な通商によってその人口を養うことのできた都市は、ごく一部に限られていたのだ。

それはいくつかのとくに恵まれた都市のばあいに限られていた。すなわちレンツューヴェネィアナポリーマ、ジェノヴ、北、イスタンブル、デリー、メッカなど

 都市には次から次へと新来者たちがやって来た。富裕な商人、親方・職人、傭兵、操舵者、有名教授・医師、技師・建築家・画家など……。

 しかし特筆すべきは、極貧者たちの存在だった。

「都市は低次の労役を新来者に任せた。〔中略〕この極貧の底辺プロレタリアートの存在こそ、すべての大都市の特徴であった。    

 そのため捨て子がほうぼうに見られ、都市にはこうした子どもたちを病院まで運ぶ仕事まであったという。

 都市の外観を見てみると、海に囲まれたイギリスや日本、ヴェネチア、また自信に満ちたオスマン・トルコ帝国等は例外として、都市にはほぼ必ず城壁があった。

 その内側には、菜園や畑などもあったが、これは戦争の時の補給に必要だったからだ。

 この限られた都市空間に、次から次へと人が来るものだから、町は自然と無秩序状態になる。

 しかしルネッサンスのころになって、その無秩序は徐々に改善されていく。

「ルネッサンスが劃期となって、自覚的都市計画が最初の飛躍を遂げ、碁盤目あるいは同心円型の、一連の幾何学的構成が《理想的構成》として提示されて花咲いた。」    

 「都市の空気は自由にする」という有名な言葉があるが、なぜ、都市はヨーロッパにおいてのみ自由を獲得できたのだろうか?ブローデルは次のように言う。


「(1)西ヨーロッパローマ帝国の終末とともに、それを支えていた都市の枠組みをまさに失うとしか呼びようのない仕方で失ってしまっ
(2)十一世紀以降都市の再生が急速に進んだがれは山村の活力の上昇や、畑ぶどう畑果樹園などの多様な伸長と重なりあっていた。〔中略〕発生期の都はこうして農村が再編成されたものであっから論理的結果としてそこには領主世俗的君高位聖職者など後背地の政治的・社会的権威の代表者たちが入り込んだ
(3)全面的な健康回復や、伸展する貨幣経済への全面的復帰がなかったならば、以上のすべてはなにひとつ可能とならなかったであろう。〔中略〕少なくとイタリア、フランドルドイツでは都市が完勝を遂げたというこそれこそ奇蹟だったのである。都市はかなり長期にわたって完全な独立を経験したのであった。

 要するに、まずローマ帝国の都市が失われたことで、一から作り直すことができたということ、力ある権力者が住んだこと、そして貨幣経済の拡大にともなって、都市の生産力が物を言うようになったこと。これらの理由が、ヨーロッパにおける都市の存在を巨大なものにしていったのだ。

 このような都市においては、愛国心や初期資本主義の心性もまた育まれていくようになる。


商人は自分の金を節約し収入に応じて支出収益にもとづいて投資を計算してゆくこととなった。

西ヨーロッパでは資本主義と都市とはつまるところ同じものだったのである。

 しかし、都市はやがて遅れてやってきた国家と結びつくことになる。

「国家はというと、諸都市を打ち破りはしたが、都市が敷いた制度とその心性とを継承したのであり、そしてまったく都市なしですますわけにはいかなかった〔中略〕。国家の幸運はそのうえさらに都市の幸運となっていった。ポルトガルはリスボンに帰着し、ネーデルラントはアムステルダムに帰着し、イギリスの優位はロンドンのそれであった(一六八八年の平穏な革命〔名誉革命〕のあと、首都ロンドンはイギリスを思いのままにした)。」    

「すなわち国家が都市の早駆けに追いついたのであった。それ以後特権を得る資格があろうとなかろうと各国の首都が特権的な立場を与えられた。    

 こうして強大な国家の後ろ盾を得た都市が、その後ヨーロッパの経済をますます発展させていくことになる。






(苫野一徳)

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