ブローデル『物質文明・経済・資本主義(3)—世界時間①』



はじめに

 『物質文明・経済・資本主義』第3巻(邦訳第5、6巻)のタイトルは、「世界時間」。

 「世界時間」とはいったい何か?

 まずそれは、世界を均一に流れている時間ではない。たとえば、本書が取り扱う15〜18世紀の世界を眺めた時、イタリアで流れる時間とアフリカの奥地で流れる時間とは、ほとんど別物のようにさえ思われるだろう。

 つまり「世界時間」とは、あるまとまりをもった経済圏(世界=経済)が、様々な仕方で相互作用し、結びつき合う時に観察できる、大きな時間の流れのことなのだ。

 本書のテーマは、15〜18世紀における、ヨーロッパ資本主義に流れていたこの「世界時間」を描き出すことにある。


1.世界=経済とは何か

 本書冒頭で、ブローデルは「世界=経済」の概念について述べる。

 まず彼は、「世界経済」と「世界=経済」を区別せよと言う。

 「世界経済」とは、文字通り「全世界の市場」のこと。他方の「世界=経済」は、地球の一片にすぎないが、経済的に自律性があり、おおむね自給自足することができる」経済圏のことである。

 したがって、「世界=経済」は大昔から存在していた。たとえば、古代フェニキア、カルタゴ、ヘレニズム、ローマ、11世紀以降のヨーロッパ、中国、など。

「世界=経済」には、次のような3つの法則がある。

 第1規則は、ゆるやかに様変わりする空間。

「ある世界経済の境界は、同種の別の経済が始まるところに位置し、一筋の線、より正確に言えば幅のある地帯に沿って長く延びている〔中略〕それゆえ通則として、世界経済相互間の境界は、活気に乏しく、動きのない地帯という様相を呈する。厚くて越えがたい覆いのようなもので、たいていのばあいは天然の障壁がその役をつとめる。

 第2規則は、支配的資本主義都市が中心に存在するということ。

世界=経済はかならず極をなす都市を有する。すなわち、その商業活動の兵站中心地に位置する都市である。

 これら中心的都市は、時代によってさまざまに代替わりする。

 たとえば、以下で見るように、ヨーロッパの「世界=経済」の中心は、イタリア(ヴェネツィア、ジェノヴァなど)、アンヴェルス、アムステルダム、そしてロンドンへと移動していく。

 第三規則は、さまざまな地帯の階層性。

 これは、イマニュエル・ウォーラーステインが言うところの、「中心」「半辺境」「辺境」という階層性を「世界=経済」は持つということだ(ウォーラーステイン『近代世界システム』のページ参照)。

「その場全体にわたって、すくなくとも三つの《区域》、三つの範疇が色分けされている。すなわち、狭い中心がひとつ、かなり発達した第二次的地方がいくつか、第三に膨大な外縁である。〔中略〕イマニュエル・ウォーラーステインは、この説明にもとづいて、その著作《The modern Worldsystem》〔『近代世界システム』〕(一九七四年)全体を構築したのであった。」    

 ウォーラーステインは、このような「世界=経済」(ウォーラーステインの言葉で言うならば「近代世界システム」)ができあがったのは16世紀ごろだったと主張する。

 それに反してブローデルは、もっと早く、大体13世紀ごろのイタリアにそれは見られると言う。

「わたしの見方では、ヨーロッパ世界=経済は非常に早い時期に生まれたのであって、わたしはイマニュエウォステインとはちがって、十六世紀の呪縛にはかかっていない。    


2.ヨーロッパの世紀サイクル

 ではそのようなヨーロッパ「世界=経済」は、これまでにどのような周期を見せてきたのだろうか。

 ブローデルは次の4つのサイクルを挙げる。

(1)上昇期1250年、絶頂期1350、下降期15071510年。

(2)上昇期15071510年、絶頂期1650、下降期17331743

(3)上昇期17331743年、絶頂期1817、下降期1896

(4)上昇期1896年、絶頂期1974年?

 この中でも、とりわけ4つの絶頂期に注目してみよう。

(1)については、データが不足しているため不確かではあるが、1350年は、絶頂期にして、あの「黒死病」がヨーロッパを襲った頃でもある。

 このあと、ヨーロッパ「世界=経済」の中心は、また後で述べるようにヴェネツィアで形成されることになる。

(2)の1650年は、イタリアやスペインの繁栄の絶頂期にして、その最終期でもある。「17世紀の危機」と呼ばれる。

 これを境に、経済の中心は地中海から「北」、特にアムステルダムへと向かっていくことになる。

「この一般的景気後退こそは《十七世紀の危機》であって、古典的な論争課題をなしてきたが、いまだに結論を見ていない。さて、十七世紀初頭にはすでに世界の中心になりかけていたアムステルダムが、まさにこのときに勝ちどきを挙げつつ完全にその中心の座についた。」    

(3)の1817年は、アムステルダムからロンドンへの移行の境である。

「そのときイギリスはその世界の中心地になった。そして、これは否定しようのないことだが、同国はその勝利にもかかわらず難渋したし、ふたたび息をつくまでに何年かを要したのである。」    

(4)の1973年〜1974年は、ブローデルは明記していないが石油危機の時期のことだろう。

 ブローデルが本書を刊行したのは1979年。彼の目には、この石油危機の時期が絶頂期であって、その後「世界=経済」は衰退していくように見えた。

「見事なまでに即応的な短期的政策にしても、病気を癒す段になると無力を露呈する恐れがある。そしてわれわれの孫子の代になっても、この病気はまだ結末が見えない定めにあるのかもしれない。」    

 ブローデルが生きていたなら、2007年〜2008年の世界経済危機を、「世界=経済」第4サイクルの衰退期と捉えただろうか(次の巻で見るように、ブローデル自身は、たとえば前述のウォーラーステインらとは違って、資本主義が終焉を迎えるとは考えなかった。ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』のページ等参照)。


3.ヴェネツィア

 それでは以下、ヨーロッパ「世界=経済」の推移を見ていくことにしよう。

 まず、ヨーロッパ最初の「世界=経済」の中心はイタリアにあった。11〜13世紀のことである。

 イタリアの諸都市は、まず農村から生じた。その発展を押さえつけようとする「領域国家」は、このころまだ存在していなかった。

 やがて都市は農村と分断し、前巻『交換のはたらき(1)』で見たような、市(いち)を中心としたいかにも都市らしい様相を見せていくようになる。

 なぜイタリアでこのような都市の発達が見られたのか?

 領域国家の不在に加えて、さまざまな理由が考えられる。

 とりわけ大きな理由としては、農業技術の改良や、ビザンチンおよびイスラム圏との交易が挙げられる。

「人口が増大し、農業技術が改良され、商業が復活し、産業が初めて手工業的段階での飛躍を遂げるという事態がこったからこそ、ヨーロッパの全空間にわたって、都市網が、また都市の上部構造が究極的に作りだされたのである。」    


4.北ヨーロッパ

 ブローデルによれば、ヨーロッパ史における最も重要な点は、「北」(ネーデルラント・北海・バルト海)と「南」(イタリア・地中海)という二つの経済的「極」を有していたということにある。

「つまり西ヨーロッパは、単一の《極性》地方ではなくて、ふたつの極性地方を所有していた。この両極性は、大陸をイタリア北部と広義のネーデルラントとのあいだで引き裂き、さらにそののち何百年かそのまま続くこととなった。このことが、ヨーロッパ史の主要特質のひとつ、おそらくはあらゆる特質のうちでもっとも重要なものである。」    

 北について言うと、すでに1200年ごろには、ブリュージュ(ブルッへ:今日のベルギー)が発達を見せていた。

一二七七年、ジェノヴァの船が数隻、ブリュジュに接岸した。こうして地中海と北海との定期航路連絡が確立したことは、地中海人の決定的闖入を意味した。    

 ブリュージュの繁栄は、イタリア商人たちによってもたらされたのだ。したがって、ブリュージュ市民はほぼ下働きに徹していた。

 その後、とりわけハンザ同盟(バルト海と北海との交易同盟)の隆盛に伴って、その中継地点であったドイツのリューベックが繁栄を見せるようになる。

 ハンザ同盟隆盛の背景には、やはり強力な領域国家がなかったこと、そしてまた、商人たちがほぼ単一の言語(低地ドイツ語を土台とした諸言語)を使用していた点にある。

 しかし弱みもあって、それは、70から170にもおよぶ同盟都市が、集団としてはバラバラで不安定だったという点にある。

 それゆえ、14世紀後半にヨーロッパ全体を不況が襲うと、体力のないハンザ同盟は衰退していくことになる。

その経済は物々換と貨幣とのあいだで迷っていて、信用にはあまり頼らず、その後も長期にわたって銀貨しか認めなかった。以上の伝統はどれもこれも、時の資本主義の枠内で考えてさえ立ち遅れた点、だったのである。十四世紀末期の非常に重大な激動に当たっては、地歩の定まらない経済のほうが打撃を受けざるをえなかったのである。    


5.ヴェネツィアの転機

 その後ヴェネツィアが「世界=経済」の中心に位置するようになるが、このヴェネツィアが「世界=経済」の中心に躍り出た1つの大きなきっかけは、1202〜1204年の「第4次十字軍」にあった。

 周知のように、この時、ヨーロッパのキリスト教徒たちは、イスラムと戦うのではなく、あろうことか同じキリスト教徒の国、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させた。

「それまでは、ヴェネツィアはビザンチン帝国に寄生して、それを内側から蝕んできたのであった。いまやこの帝国はほとんどヴェネツィアの財産となった。」    


6.間奏曲としてのシャンパーニュ

 しかしこのヴェネツィアの勝利の前に、フランスのシャンパーニュが、13世紀、「北」(ネーデルラント)と「南」(イタリア)の合流地点として間奏曲を奏でることになる。

 シャンパーニュ「大市」の時代である。

 もっとも、ここでもその影の支配者はイタリア商人たちだった。

「シャンパーニュの大市の新しさは、商品があふれるほどあったということよりは、むしろ金銭の両替が行われ、信用が先駆的に活用された点にあったといってよい。」

これらの両替商はふつうイタリア人だったが、じつは彼らこそ大市のほんとうの音頭取りであった。
 しかし、1350年の「黒死病」を伴う大不況よりも前、早くも13世紀末には、シャンパーニュの繁栄にはかげりが見え始める。

 ブローデルが繰り返し言うように、「世界=経済」において相対的な繁栄を保つことができるのは、不況を乗り切る体力のある都市に限られているのだ。

 シャンパーニュの繁栄は、ヨーロッパ「世界=経済」における、「北」と「南」という中心のはざまに見られた、ひと時の間奏曲にすぎなかったのだ。

 そしてこれ以降、フランスは「世界=経済」の外部へと押しやられていくことになる。


7.ヴェネツィア、遅ればせに優位に立つ

 こうして遅ればせながら、「世界=経済」の中心にヴェネツィアが立つことになる。 

 14世紀の不況に耐える体力を備えた都市は、とりわけヴェネツィアとジェノヴァだったのだ。

 しかしなぜ、この時期ヴェネツィアがジェノヴァに勝利したのか?

 それは、レヴァント貿易に有利な地理的条件のゆえだろうか?


ヴェネツィアは、すでにずっと以前から自分の植民地〉を仕立て上げることに成功していたそれは範囲こそ広くなかったが、レヴァント・ルトに沿って伸びいた点で、戦略上でも商業上でも驚くほど重要な意義がた。散らばっている〈植民地〉であって、その規模こそ異なるとはいえ、のちにインド洋に伸びていったポルトガルやオランダの〈植民地〉を先取りする感があった。これは、アングロ・サクソン人が《trading posts Empire〔物々交易場植民地〕と呼んだ図式に即したもので、一連の交易場から成り、その全体でもって資本主義の一筋の長い触角をなしていたのである。

 ヴェネツィアはすべてを独占しようと試みる。

 かつてヴェネツィアは、イスラム諸国と貿易した時、商館に閉じ込められ、自由に貿易ができなかったという苦い経験をもっていた。

 今度は逆に、ヴェネツィアがその経験を活かして他国を閉じ込めることになる。

「ヴェネツィアは同じ手を使って、その商業中心地リアルト橋の向かいに、ドイツ人商人を強制的に集めて分離する地点として《ドイツ商館》を創設した。ドイツ人商人はだれでも、そこに商品を下ろし、そのためにした部屋のひとつに宿泊し、共和国政庁の役人のこうるさい監督のもとでそこで商品を売り、その売り上げ金をヴェネツィア商品の買い入れに使わなくてはならなかった。」    

 さらにヴェネツィアは、商業ガレー船体系を作り上げ、無敵の対外競争力を誇るようになる。

 もっとも、資本主義的な諸技術の点から言えば、ヴェネツィアは決して先進国というわけではなかった。

「銀行とか、強力な会社の形成とかにかんしてはヴェネツィアはトスカナの先駆的な都市に比してはるかに遅れを取っていた。最初の金貨を鋳造したのはヴェネツィアではなく、まずジェノヴァが十三世紀初頭に、ついでフィレンツェが一二五年に鋳造したのである〔中略〕小切手なり《holding》〔持ち株〕なりを考案したのは、ヴェネツィアではなくフィレンツェであった。複式簿記を思いついたのも、ヴェネツィアではなくてフィレンツェであった。    

 しかし14世紀にもなると、ヴェネツィアはすでにこれらのすべてを有していた。

「すなわち、市、商店、倉庫、ラ・センサの大市、ツェッカ(造幣局)、統領宮殿、兵器廠、ラ・ドガナ〔税関〕等々である。」    

 商業上の貸付けも忘れてはならない。

 これには「片務契約」と「双務契約」があった。

「前者においては、貸し主(《socius stans》――残留する協力者――と称する)が《socius procertans》(旅行に出る協力者)にある金額の前貸しを行う。旅行に出た者は、帰国して決済するときに出発時に受け取った金額を返済したのち、利益の四分の一を貰い受けて、残りを資本家に渡すのである。後者、すなわち双務契約の《提携》のばあいには、貸し主は所要金額の四分の三を前貸しするにすぎず、《旅行に出る協力者》のほうは、労働に携わるほか、資本の四分の一を負担したのである。そのばあいには、利益は折半された。」    

 しかしブローデルは言う。ヴェネツィアがやがて行き詰まるのは、このあまりに自足的にすぎる資本主義体制にあったのだ、と。

 つまりヴェネツィアは、すべてがレヴァント貿易に依存した都市だったのだ。

「つきつめて言えば、ヴェネツィアが特異に見えたのは、そのAからZまでレヴァントでもって説明がつき、その商業上の振る舞いすべてがレヴァントともって動機づけられるという、その度合いの極端さによるのではなかろうか。    

 16世紀初頭には、ヴェネツィアの衰退が始まっていた。その最大の理由は、大航海時代を迎えたとりわけポルトガルの盛運にあった。


8.ポルトガルの盛運

 ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰就航を成し遂げ、インド洋航路が開かれたことは、ポルトガルにとって革命的な事態だった。

 リスボンには、胡椒香辛料が届くようになる。

 もっとも、その影にはやはりイタリア商人たちがいた。ジェノヴァフィレンツェの商人たちが、リスボンを支配下に置いたのだ。


9.アンヴェルスの盛運

 こうして、「世界=経済」の中心はポルトガルに移行したかのように見えた。

 しかし事実はそうではなかった。

 中心は、ふと気がつけば「北」にあった。ネーデルラントのアンヴェルス(アントワープ/アントウェルペン)である。

大航海時代の数々の発見によって世界の軸が移動した結果、世界は大揺れに揺れて大西洋に向かて倒れかかり、ほかに仕方がなくてアンヴェルスにしがみついたのであるこの都市は、世界の目に見える頂点に立とうと、みずから戦ったのではなかったある朝ふっと目たら頂点にいたのである    

 アンヴェルスには3度の飛躍が見られた。1501〜1521年、1535〜1557年、1559〜1568年である。

 最初の飛躍は、ポルトガルの影響下における胡椒のおかげだった。胡椒の主な需要は、ヨーロッパ北部および中部にあったからだ。

 しかしこれにはヴェネツィアの反撃が続くことになる。ヴェネツィアが扱う胡椒は、リスボンの胡椒より高価だが、それだけ上等のものだったのだ。

 2回目の飛躍の背景には、スペインの流入があった。

 スペインは、バルト海から来る木材・タール・船舶・小・ライ麦など必要とした。そしてその支払いを、銀で行ったのだ。

 このスペインの影響下にあった1535〜1557年こそ、アンヴェルスが最高の繁栄を誇った時期だった。

 しかしその後、1557年にスペインが破産したことに伴って、アンヴェルスもまた衰退していく。

 最後の輝きを放ったのは、1559〜1568年、カトー=カンブレジ条約によってヴァロワ家とハプスブルク家の戦争が終結したことにともなって、バルト海方面の通商が復活したためだった。

 しかしこれもまた、やがて衰退していくことになる。

 その最大の理由は、経済的というよりは政治的なものだった。プロテスタントのネーデルラントは、カトリックに対抗し、その結果、カトリック国スペインのフェリペ二世は強硬策に打って出ることになった。こうして、事実上ネーデルラントとスペインとの海上連絡は断絶したのである。


10.ジェノヴァ人の世紀

 1557年から1627年は「ジェノヴァ人の世紀」である。その地位は、スペインの破産によってアウクスブルクのフッガー家がスペインから手を引いたのち、その地歩を受け継いだことによって固まった。

 ジェノヴァは、陸からも海からも、地理的にきわめて攻撃しやすい都市だった。そのため、生きながらえることはジェノヴァ人たちの至上命題だった。

「そもそもこの都市においては、万事が曲芸ではなかったであろうか。製品を作ったが、それはよその人たちのため。航海をしたが、それもよその人たちのため。投資したのも、よその人の土地においてであった。」

 ジェノヴァ人はあらゆるところに投資をし、しかも機を見て投資先を次々と変えていった。

 そして先述したように、スペインへの投資が、彼らの盛運の契機となった。


「一五五七年にスペインが破産して高地ドイツの銀行家たちの支配に終止符が打たれたとき、ジェノヴァ人は当然ながらその空席を占めた。」

「こうして彼らはきっぱりと商品から金融へ移っていった。」

 イタリア各都市の富もまた、ピアチェンツァの大市を通してジェノヴァに集まることになる。

 しかし1627年、再びスペインが破産することで、「ジェノヴァの世紀」は終焉を迎えることになる。


11.アムステルダムが覇権を握る

 ジェノヴァに取って代わったのは、「北」のアムステルダムだった。

 オランダはもともと非常に貧しい国だった。したがって、早いうちから市場で大きな取引が可能な換金栽培への集中を高め、そのためますます市場に依存するようになっていた。

 生きるためには、ネーデルラント諸州の相互協力も不可欠だった。

 こうした背景とともに、アムステルダムはやがて「世界=経済」の中心へと発展していく。

 このアムステルダムの特徴について、ブローデルは次のように言う。

寛容でないような(もともと寛容にならざるをえないからだが)また自分の必要とする人々を(せく彼らのほうから自分のところへやってくるのに)受け入れないような、そのような世界の《中心》を想像できるであろうか。〔中略〕信教の自由がいやでも必要となり、規則となったのである。

 今でも続く、オランダにおける信教の自由や寛容の精神は、きわめて多様な人たちが集う、大商業都市ゆえに培われたものだったのだ。

 オランダの最大の武器は、その質量ともに圧倒的な船舶にあった。そしてまた、前巻『交換のはたらき(2)』でも述べられた、その巨大な倉庫群にあった。

 1602年には、オランダ東インド会社が設立される。そして、アジアにおける香辛料貿易を独占した。

日本との特恵的な接触を別にすれば、オランダ人が行った唯一の効果的かつ永続的独占は上等な香辛料の独占であった。すなわち、メナツメグ丁子桂皮などである。どのばあいにも、解決は同様になされた。島の狭い領域に生産を囲いこむ。これをがっしりと押さえて、その市場をわが物とし、よその土地での同様の栽培を妨害する、という手段であった。」

 しかしさしものオランダも、やがては衰退の時を迎えることになる。

 1696年ごろから、慢性的な悪化が見られた。きっかけは、「世界=経済」の需要が、胡椒から茶、珈琲、漆、中国陶器へと移行していったことにあった。オランダはこれに対応ができなかったのだ。

「そうしたばあいにありがちなことだが、適応が必要なのに、昔ながらの制度が形骸化して生き延びて妨害となることがままある。」

「イングランドの〈会社〉は早くも一六九八年には、急速に直接の(したがって銀と交換する)通商を開始していた。これにひきかえVOC〔オランダ東インド会社〕は、なかんずく胡椒、そして若干の桂皮・白檀・珊瑚を買い入れにパタヴィアへやってくるジャンクを介して中国製品を受け取ることに慣れていたから、現金の銀に頼らずに商品と交換する間接通商に固執したのであった。」    

 オランダの金余り現象もまた、その経済がやがて衰退する背景にあった。

「逆説的にも、オランダはこのだぶついた金銭に当惑したのである。金余りがひどかったので、オランダがヨーロッパ商業界に提供した信用貸しだけではこれを吸収するのに不十分であり、オランダは、これを諸近代国家にも提供することとなった    

 こうしてあろうことか、オランダは最大のライバルであるイギリスにも投資をすることになる。

「(オランダは、)結構ずくめな《倉庫保管商取り引き》を捨てて投機師的年金生活者の生活を選んだかのようである。そのさい彼らは、手のよいカドをロンドンに渡し、みずからの競争相手の上昇のために融資さえした。    

 気づけば、イギリスがオランダに対して優位な位置に立っていた。

「やがてオランダは驚愕した。一七八二年—一七八三年に、イギリスの国力が逆転してオランダに刃向かい、地面に叩きつけた。その勢いのその激しさに驚愕したのである。」    


12.イングランドの飛躍


 1453年、百年戦争後のイングランドは、それから1558年までに、自律的経済空間を作り上げていった。

 そのため、国内の仕事の価値が高まった。

 さらには、カトリックからの離脱によって、カトリック教会の土地を没収し、さらに経済に弾みをつけた。

 1560年から61年にかけてポンドが安定させられたこともまた、この国の発展の重要な条件になる。

 こうして、「イギリスは一七八〇年—一七八五年ごろにヨーロッパ世界=経済の押しも押されぬ支配者になった」


 イギリスはアメリカ独立戦争で敗れたが、そのためにかえって、消耗の激しい軍事よりも、自国の経済を強固にする道を選ぶことになる。


(苫野一徳)

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