ブローデル『物質文明・経済・資本主義(1)—日常性の構造①』


はじめに

 歴史学の「教皇」と呼ばれたブローデルの、長大な3部作。

 15〜18世紀の歴史が描き出される。

 本第1巻の副題は、「日常性の構造」。続く第2巻は「交換のはたらき」、第3巻は「世界時間」。それぞれ、本書のタイトルである「物質文明」「経済」「資本主義」に対応している。

 邦訳では、それぞれの巻が2分冊となっているため、全6巻の構成になっている。そこで本ブログでも、以後6回に分けて紹介・解説していくことにしたいと思う。


 第1巻「日常性の構造」で描き出されるのは、ブローデルが「物質文明」と呼ぶ世界だ。

 物質文明とは何か。ブローデルは言う。

「それは、基盤をなす基本的活動である。〔中略〕この厚い層を成す地帯のことを、ほかによりよい呼び方がないままに、わたしは物質生活とか物質文明とかいう名で呼んだ。この表現はあきらかに曖昧である。しかしいつかは、この下部経済を指し示すための、より適切な呼称が見いだされることと思う。」    

「この下部経済とは、経済活動のうちのあの無定形な残された半分、つまり自給自足の活動とか、非常に狭い範囲内で行われた、生産物とサービスとのあいだの物々交換の活動とかから成るのである。」    

 具体的には、本書で論じられる項目を列挙するなら、「日用の糧」「食べ物と飲み物」「住居・衣服・流行」「技術」「都市」などのことである。

 こうした「物質文明」の世界を全部描き出すことなど当然できるものではないが、ブローデルは、15〜18世紀におけるこれらのテーマを、ヨーロッパを中心にこれでもかというほど膨大な例とともに描き出していく。

 読み進めていくうちに、自分が当時の生活を送っているような錯覚に陥ってしまうほど、その描写は具体的で生々しい。民衆の生活文化を重視した、アナール学派面目躍如と言うべきだろう。

 ところで、ブローデルによれば、この「不透明な」物質文明の上に、より明瞭で透明な「市場経済」の層があり、そしてさらにその上部に、またまた不透明で「特権的」な「資本主義」の層がある。

 本3部作は、これら「物質文明」「市場経済」「資本主義」のそれぞれの層を、明晰に構造化し踏破していく試みだ。

 長大な作品のため、本書の全体イメージを手っ取り早く知りたい方は、ブローデル『歴史入門』のページを参照していただければと思う。

 以下の紹介では、ブローデルが挙げる無数の例のほとんどを割愛せざるを得ないが、要所要所で彼の言い回しを味わいながら、本書の内容を見ていくことにしたいと思う。


1.さまざまな「数」

(1)人口

 まずブローデルは、さまざまな「数」を列挙して、15〜18世紀の世界の様相を浮かびあがらせる。

 最初に取り上げるのは、やはり「人口」だ。

 15〜18世紀、すべては人口の移行によって変化した。

 人口が増えるとまず生産力が上がるが、ピークを超えると逆に食料不足に陥ることになる。

 ブローデルによれば、人口増加が著しく見られたのは、11001350年、14501650年、そして1750年以降である。

 1750年以降の人口の増加は著しいばかりだが、1100〜1350年、および1450〜1650年の増加の後には、ひどい人口減少が起こった。

 中でも、13501450年の人口減少はきわめて過酷なものだった。14世紀の黒死病(ペスト)が、人口減少にさらに追い打ちをかけた。そして人口が減ると、富は残されたものの手に渡ることになった。

 しかしこのペストの猛威さえ比較にならないのが、ヨーロッパの進出によってもたらされた新大陸における人口減少だ。

 無慈悲な植民地戦争以外にも、理由はいくつかあった。

 たとえば、家畜の乳の欠如。

「十五世紀末期にインディアン人口が人口学的に脆弱な相貌を呈したのは、とりわけ母乳に代わるべき家畜の乳がまったく欠如していたためである。家畜の乳がなかったので、母親は子どもが三、四歳になるまで哺乳せざるをえず、この長期にわたる哺乳中は女性の《生殖能力》が中絶していたから、活力のある人口再上昇はいっさい望み薄となったのである。」

 ヨーロッパからもたらされた、天然痘・麻疹・流行性感冒・赤痢・癩病・ペスト・各種性病も、アメリカ大陸における人口減少の大きな理由だった。

 とは言うものの、1300年から1800年まで、世界の人口は急上昇し続けた。その上昇率は、138%から、見方によれば400%にまでのぼると考えられる。

 ブローデルは言う。

「欧米の歴史家は、〔中略〕この現象がヨーロッパに限られたものだと信じてきたが、じっさいには人類は、彼らの占めている陸地全体において、人数の増進に対抗する多種多様の障害物に打ち勝ってきたからである。このことは、ひとつの事実なのである。――しかもそれは、われわれが本書のなかでこれから記録してゆくべき数々の事実のうちでも、もっとも重要な、もっとも気になる事実なのである。」

 そこで1680年ごろの世界の人口を試算すると、アフリカ3500万ないし5000万。アジア2億4000万ないし3億6000万。ヨーロッパ1億。アメリカ大陸1000万。オセアニア2000万となる。

 なぜ全世界でこのような人口上昇が起こったのか?ブローデルは言う。


全体に通ずる回答は、ただひとつしか思い浮かべることができない。〔中略〕すなわち気候の変化である。」


(2)参照用スケール

 現代との違いを強調するため、ブローデルはここで「参照用スケール」について述べる。


 たとえば、16世紀頃の人口2万は、今日の1020万くらいの密集地帯と考える必要がある。

 1571年のレパントの海戦は、敵味方総勢10万人で戦われたが、これもまた今日の50100万人のスケールと考える必要がある(レパントの海戦については、ブローデル『地中海』(3)のページを参照)。

 ここでブローデルは、ゴードン・W・ヒューズが作成した1500年ごろにかんする世界地図を検討して、次のような考察を加えている。

 たとえば、当時の「文明圏」は、今のフランス国土の20倍程度の広さだったと考えられる。

 また、(1)文化と文明の場所は何百、何千年にもわたって変わらず、(2)人類は、ヨーロッパが進出する以前から世界全体をすでに探検しつくしており、(3)人口稠密地帯は均質的ではなかった。つまり、当然のことながら諸文明にはさまざまな差異があったのだ。


(3)誕生と死

 誕生と死の比率についても、ブローデルは興味深いことを述べている。

命がもたらしただけのものを死が奪い去っていった。」

 18世紀までは、誕生と死はほぼ同じ率で推移し続けたのだ。

「一方が勝つと他方が反撃した。一四五一年にケルンでペストが二万一〇〇〇人の生命を奪ったといわれる。そのあと何年かのうちに、同地で四〇〇〇件の結婚式が挙行された。どの点から見ても、この数字には水増しがありそうだが、たとえそうだとしても補償作用がはたらいたのは明白である。」

イツは三十年戦争の災禍によって深刻な影響を蒙ったのであったが、騒乱から脱却したとき、全国的に人口の再上昇を見た。」

「均衡の回復があまり捗らないと当局が介入するのであった。ヴェネツィアは、ふだんは厳として閉鎖的な都市だったのであるが、恐るべき〈黒死病〉の直後の一三四八年十月三十日、寛大な政令を発布して、一年間の猶予期間内に家族・財産ともどもこの地に移って定住する者すべてにたいし、完全な(《de intus et de extra》〔市域の内外における〕)市民権を付与することにした。」

 先述したように、ペストは1348年に大流行したが、18世紀に入ると衰退していく。

 しかしいずれにせよ、飢饉と病気は、当時の人びとの日常であると言ってよかった。


2.食糧

(1)小麦

 続いてブローデルは、当時の人びとの食糧事情について述べていく。

 まず小麦から。

 小麦と言えば西ヨーロッパのものというイメージが強いが、これは古来から、中国、インド、エジプト、エチオピア、シベリアなど、世界中で栽培されていた。

 17〜18世紀にはアメリカ大陸でも小麦が栽培されるようになるが、これはヨーロッパの世界進出を象徴する出来事だった。

 しかし小麦は、その生産力の低さという決定的な欠点があった。

「同じ畑地で小麦を二年続けて作れば、かならずひどい損害を生ぜずにはいなかった。場所を変えて順ぐりに作らなくてはならなかった。それゆえ、中国を訪れた西ヨーロッパ人がすっかり感心したのは、見ていると、稲が《同じ土地で》いつまでも育ちつづけることであった。」


 こうして小麦畑では輪作が行われることになったが、ここに牧畜との相互依存関係が生まれることになった。ヨーロッパ人が肉食になったゆえんである。

「こうして家畜を迎え入れることが、西ヨーロッパにとっては必要でもあり、また成功を見たのであった。」

 小麦の収穫率の低さを改良するため、人びとは莫大な投資を行った。

 たとえば16世紀タリアでは、強力な土地改良事業が進められジェノヴァフィレンツェヴェネツィアの資本家そのために莫大な額のぼる投資を行った

 しかしその達成のための犠牲が農民生活に負わされるという事態が、あまりに頻繁に生じたのである。農民は、領主たちの奴隷であるとともに、それと同程度に小麦そのものの奴隷でもあった。」

 また、穀物は水路を通って輸送された。供給国は、トルコ帝国、バルバリア諸国、サルデーニャ島、シチリア島など、ヨーロッパの周辺地帯の国々である。

 当然、利益を得るのは仲介業者ということになる。そしてまた、「繰り返し襲いかかる飢僅を自国から首尾よく追い払いえたのは海洋列強のみであった。」    

 小麦は相対的に安く、それゆえパンがヨーロッパでは勝利を収めるが、貧乏人は雑穀の粥で我慢しなければならなかった。

 白パン革命が起こったのは、1750から1850年のこと。ナポレオンに率いられた兵士が、全土に広めたのだった。

 また、15〜18世紀においては、パンの値段と暴動とが直結していた。

「警報が発せられるたびに、貧しい消費者たち、辛い目に遭う細民は、憚ることなく暴力に訴えるのであった。一五八五年のナポリにおいて、大量の穀物がスペインに輸出されたのがきっかけで飢僅が起こった。やがて《di castagne et legumi》(粟と豆類で作った)
パンを食べなくてはならぬ騒ぎとなった。買い占め商人ジョヴァンニ・ヴィチェンツォ・ストラチは、そんなパンなど食いたくない、という怒号を回りから浴びせられた。ところが彼は横柄にもこう答えた。――《Mangiate pietre.》「石ころでも食え。」ナポリの民衆は彼に躍りかかり、殺害し、手足を切断したすえに、その屍体を引きずって町じゅう練り歩き、しまいにばらばらにしてしまった。副王は三七人を絞首刑および四ツ裂きの刑に処し、一〇〇人をガリー船に送った。」

 言うまでもなく、フランス革命もその始まりはこのようなものだったのだ。


(2)米

 小麦が紀元前5000年ごろには知られていたのに対して、稲作が広まったのは紀元前2000年ごろと考えられている。


 初期中国文明は、米を知らなかった。華北は三種の禾本科植物(もろこし、小麦、黍)、華南はやまいもやタロイモを栽培していた。

 前2000年〜1250年ごろ、インドから水稲が華南にやってくる。

 こうなると、華南が華北に対して一気に栄えていくことになる。そしてここから、チベット、インドネシア、日本へと広く伝播していった。

「日本のばあい、稲は西暦一世紀ごろに根づきはじめたにもかかわらず、日本人の食生活において米が王位に即くのは十七世紀以降のことであるからには、根をおろすのにとりわけ暇がかかったわけである。」    

 水田耕作を行うにつれて、極東では人口が大幅に増加し、そして社会的規律が強まっていくことになる。    

 ヨーロッパが、山岳地帯において牧畜を行ったのに対して、中国は山を無視した。

「中国人は、森林利用とか牧畜とかの感覚が皆無で、牛乳もチーズも口にせず、肉もごくわずかしか食べず、山岳地帯に住民が存在していたときにも彼らを仲間に入れようとしなかった――それどころではなかった――のであるから、山を利用するわけがなかったのである!」    

 それと言うのも、ヨーロッパの小麦に対して、稲作は強大な生産力を誇ったからである。

「輪作を行っていたヨーロッパでは、農地一ヘクタール当たりの扶養人口は、中国のばあいよりはるかに少なかった。稲作の盛んな華南においては、中国人はひたすら稲作に専念していたので、山岳征服に失敗したのではなく、初めからそれを企てなかったのである。」    

 稲作は都市と依存関係にあった。なぜなら、都市の汚物、人間の排池物、街路の泥が、水田を肥沃にしたからだ。ヨーロッパも、都市と農村とは緊密に結びついたが、中国のそれはヨーロッパよりもはるかに強力だった。

「農村と都市とのこういう共生関係は、西ヨーロッパのばあいよりも強力であった。いや、そう言ったくらいでは追いつかない。稲そのものではなくて、稲作の成功こそ、そうした事態に責任を負わねばならないのである。」    


(3)とうもろこし

 インカ、マヤ、アステカを支えたとうもろこしは、「奇蹟の植物」である。


「それは成育が早く、その穀粒はまだ熟さないうちからもうだいたい食べられる。」

 しかもとうもろこしを作るには、年間50日の労働、そして季節によって一日に7時間または8時間の労働時間を費やすだけですんだという。

「それゆえ、彼らは暇であった、暇すぎたのである。アンデス山脈の灌漑した段々畑にせよ、メキシコ高原の湖畔地方にせよ、とうもろこし栽培の行きついた果ては〔中略〕、とめどなく暴政的な神政国家であった。そして、農村のこれらすべての閑暇は、エジプト流の厖大な工事のために利用されることとなった。もしとうもろこしがなかったら、マヤやアステカの巨大ピラミッドも、クスコの単眼巨人的〔巨大な〕城壁も、マチュ・ピチュの感銘深い驚異もできるわけがなかった。要するに、とうもろこしがひとりでに――あるいは、ほとんどひとりでに――できたからこそ、これらの巨大建造物を築くゆとりが生じたのである。」

 しかし、とうもろこし煎餅も、素焼きの平皿に載せてとろ火で焼いた菓子も、火にかけて弾けさせた穀粒も、いずれも食物として十分とはいえなかった。


「逃避は、発芽した(あるいは嚙みしめた)とうもろこしで作ったビール、すなわち《chicha》を飲むこと」だった。

 18世紀になると、新大陸と旧世界との間を植物が行き来することになる。これは食品革命と呼ばれるにふさわしく、そしてこのことが、世界の人口増加の一因になったのである。


3.料理と飲み物

(1)食事とその作法

 ヨーロッパは、15〜16世紀、料理においては遅れに遅れていた。


「成熟した文明にはすべて凝った料理が存在していたのに――中国料理はというと早くも五世紀に、モスレム教徒の料理はというと十一—十二世紀ごろに生じた――それが西ヨーロッパに現れたのは、ようやく十五世紀になって、それもイタリアの富裕な都市でのことでしかない。」

フランスの名代の料理が確立されたのは、〔中略〕一七四六年に《貴重な書物であるムノンの『有産市民料理指南』がついに刊行された》ときのことで、〔中略〕「それ以後フランスは、あるいはパリは、料理の流行を得意がるようになった。

 食べ方もまた、ヨーロッパは洗練されていなかった。スプーンやフォークが一般化したのは16世紀に入ってからのことで、それまで人びとは手で食事をしていたのだ。


「スプーンの使用が一般化したのは十六世紀に入ってからにすぎず、ナイフを提供する習慣も同様である。〔中略〕各自が自分自身のグラスを間前に置く習慣も同じころ始まった。昔の礼儀からすると、グラスの中味を飲み干したら、それを隣席の人に渡し、その人も同様に振る舞うことになっていた。」


「あるドイツ人説教師は、この贅沢を悪魔的だとなじった。――わたしたちがこの道具を用いるようにと神が望まれたのなら、果たして神は指をくださったであろうか、と。モンテーニュはフォークを無視していた。なにしろ彼は、自分の食べ方は早すぎる、あまり早いので《あわててときどき自分の指を噛んでしまう》ほどだ、と自分を責めているからである。なお彼は、自分は《スプーンやフォークをあまり用いない》と認めている。」


(2)水

 飲み物について見ると、清潔な水を手に入れるのは、当時ひどく困難なことだった。

 大都市ヴェネツィアでさえ、事情は違わなかった。

「広場や大邸宅の中庭にある井戸は、潟の土壌の下側まで掘り抜いてあって真水の水面まで達していたものと思われているだろうが、じつはそうではなかった。じっさいには、細かい砂を半分かた詰めた貯水槽があって、雨水がその砂のあいだを染み透り、不純物を除き去られたうえで、貯水槽の中央に貫き通してある井戸に湧き出てきたのである。何週間も長々と雨が降らないようなことがあると、スタンダールが滞在していたのがちょうどそういう時期であったが、貯水槽は干あがってしまうのであった。嵐が吹こうものなら、塩水が貯水槽に入りこんだ。平時でも、その水だけでは都市の庭大な人口を支えるには足りなかった。真水は外からもたらさねばならず、じっさいそのとおりにされていたが、そのさい、水道橋を経てではなくて、小舟に積んで運んできたのである。」

 雪解け水は大変な贅沢で、金持ちたちしか飲むことができなかった。


(3)ワイン

 ワインはヨーロッパ人にとってきわめて重要なものである。彼らの世界進出とともに、南米、北米、大西洋の島々では、ワイン製造のためのぶどう栽培が行われるようになった。

 とりわけヨーロッパ北方の人びとは、ワインを暴飲した。


「一五二七年のあの恐ろしいローマ劫掠のあいだ、彼らが酒樽を叩き割り、やがて死んだように酔っ払うさまが見られたではないか。十六世紀・十七世紀のドイツの版画には農民の祭りを描きだしたものがいろいろあるが、それらの画面にはかならずといってよいほど、会食者のひとりが長椅子に腹ばいになって、過ごしたお神酒をもどしているさまが描かれている。」

 北方のこうしたワインの大量消費が、南方産ワインの大規模通商の決定的要因となったのだった。


 ただもちろん、北ヨーロッパの全住民がワインを飲んだわけではなく、飲めたのは金持ちだけだった。

 ちなみに、壜詰め、コルク栓などが知られたのは18世紀になってからのことで、それ以前はむしろ新しいワインの方が高価だった。


(4)ビール

 ビールは、大昔から、たとえば古代バビロニア、エジプト、ローマ、ガリア等でも飲まれていた。

 ヨーロッパでは、ビールはイギリス、ネーデルラント、ドイツ、ボへミア、ポーランド、モスクワ大公国など、北方でメジャーになったが、それは温暖な土地で育つワインぶどうを栽培することができなかったからである。

 もっとも、贅沢品としてのビールもあるにはあったが、ビールは主として貧乏人の飲み物とされていた。

「ぶどう作りが盛んな国々のぶどう酒愛飲者たちは、この北方の飲み物を笑いものにした。」



(5)蒸留酒


 ブランデーなどの蒸留酒は、16世紀に作られ、17世紀に前進、18世紀に普及した。これは蒸留酒革命と呼んでもいいものだった。

 ブランデーは、もともと薬用に使用されていた。しかし1514年になって、ルイ12世は酒製造人開業組合にブランデー蒸留の特権を譲渡した。


「発明者とはいわぬまでも、すくなくとも推進者の役割を果たしたのは、まさしくオランダの商人および船員であった。彼らは十七世紀に、ヨーロッパの大西洋沿岸でぶどう酒蒸溜を一般化したのである。」

 ブローデルは次のような興味深いことも述べている。

「戦闘に先立って、兵士に蒸溜酒を飲ませる習慣ができあがっていった。一七〇二年のある医師の発言によれば、そこからは《悪効果》はなにひとつ生じなかった!要するに、兵士は習慣的愛飲者となり、そしてブランデー製造は必要に応じて軍需産業となった。」    

 その一方で、ブランデーやラム酒などは、新大陸の文明を荒廃させるのにも役立った。


「インディオ諸族は、このアルコール飲料を提供されて中毒したせいで、メキシコ高原のさんざんな目に遭ったのであった。〔中略〕早くも一六〇〇年には、彼らの文明は信じがたいほど荒廃してしまったのである。」

 しかもブローデルによれば、これは新しい支配者たちの意識的政策だったのである。

 1786年、メキシコ副王ベルナルド・デ・ガルベスは次のように言っていた。

「彼らに《新しい欲求》を生じさせ、《その充足のためには、われわれに従属せざるをえないのを否応なしに認めさせる》うえで、それ以上の手段はない」


(6)チョコレート、茶、コーヒー、たばこ


 16世紀、チョコレートはメキシコからスペインにやってきた。その後、17世紀パリ、そしてイギリスへと渡った。


 がはじめてアムステルダムについたのは1610年ごろのこと。東インド会社の発意によるものだったという。

 その後18世紀、茶の消費は顕著になるが、ヨーロッパではオランダとイギリスのみに限られていた。

 その生産地は、言うまでもなく中国だった。中国には8世紀ごろから茶が全土に行き渡っていた。

 コーヒーはもともとエチオピアのものだったが、ヨーロッパにはアラビアからやって来た。

「コーヒーは一六一五年ごろにヴェネツィアにやってきた。」

 その後フランスで盛んになった。

「トルコ風の服を着てターバンを巻いたアルメニア人たちが、コーヒー沸かし・炭火を入れた焜炉・茶碗を載せた屋台を押し歩いた。」    


 1617世紀には、たばこが全世界を席巻した。

「たばこは〈新世界〉原産の植物である。コロンブスは、一四九二年十一月二日にキューバに着いたとき、原住民がたばこの葉を巻いたのを喫煙しているのを見かけた。」

「たばこはどんなに多種多様な気候および土壌にも柔軟きわまる順応を示す性質を備えている。それに猫の額ほどの土地でも、効率のよい収穫を確保できるのである。」


3.住居、衣服、流行

(1)家屋

 パリでは、17世紀ごろに石の建物が登場する。同じころ、ロンドンやアムステルダムには煉瓦の建物が登場した。

 もっとも農民の家は、世界中どこでもそうであるように、雨露をしのぐだけの粗末なものだった。

 パリの家具つき部屋には、娼婦や軽犯罪者などが巣食っていた。

 17世紀には、金持ちが田園に別荘を作りはじめ、18世紀には金持ちの仕事場と住居が分離することになる。


(2)室内

 室内について言えば、3つの通則が成立していた。

「すくなくとも十八世紀以前においては、貧乏人の家具はなにも、あるいはほとんどなにもなかったのである。」

「伝統的文明は、その習慣的舞台装置を忠実に守ってきた。陶器・絵画・ブロンズなどに見るいくつかの変種をさておくならば、中国の室内は十五世紀にも十八世紀にもまったく同じようなものであった。日本の伝統的な家屋は――十八世紀にその装飾のために用いられはじめた色刷り版画を除けば――十六世紀にも十七世紀にも今日なお見られるとおりのものであった。インド諸国においても同様である。また、かつてのモスレムの家の室内は、もっとも最近の図像をつうじて想像がつく。」

中国文明を除けば、非ヨーロッパ文明は家具の点で貧弱であった。インドには椅子がほとんどなく、またテーブルはなかった。〔中略〕イスラム圏にも、またその影響を蒙った諸国にも椅子がなく、また高いテーブルがなかった。」

 ③については、もっともイスラムには公衆浴場があり、日本の家屋は清潔で優雅だったという特徴がある。

 しかしやはりヨーロッパに比べて劣っているところも多く、たとえば日本には煖炉がなかった。

「日本では、寒さが厳しいのに、やはり煖炉はなかった。〔中略〕どの家にも薪で焚く風呂桶があって、湯を熱く沸かして入浴したが、これはからだを洗うだけでなくて温まるための手段でもあった。」    

 椅子について言うと、ヨーロッパと中国だけがこれを使用した。そして中国だけが、低い家具と高い家具を併用したのである。

「中国では(大掴みに言って十三世紀以前のこととしよう)生活がおおいに進歩して、椅子に腰かける生活と床に坐る生活とのあいだに一種の分化が生じた。後者はふだんの生活で、前者は公的な生活である。すなわち、君主の玉座・高官の座席・学校の長椅子や椅子など……。」    


(3)服装

 家具や室内装飾におけるヨーロッパの独自性は、彼らが変化を好んだという点にある。

 この点、服装も同様だった。

 中国も日本も、長年にわたってほぼ同じ服を着ていた。

 もっとも、1350年ごろまでは、事情はヨーロッパにおいても同じだった。


「なにしろ十二世紀初頭ごろまでヨーロッパにおける服装は完全にガロ=ロマン時代そのままで動きがなかったからである。女のばあいは足まで垂れ、男のばあいは膝まで届く長衣を着ていた。要するに、数世紀から千年の余にも及ぶ不動の状態であった。なんらかの変化が割りこんできて、たとえば十二世紀に男の衣服の丈が伸びたときなど、猛然たる批判を浴びたのであった。」

「十字軍は絹を持ち込み、毛皮の贅沢を導入したものの、十二世紀および十三世紀における服装の形態を根底から変えたわけではない。」

「一三五〇年ごろに重大な変化が生じ、男性の衣服が一挙に短くなるにいたったが、賢者・年長者・伝統擁護者の目から見ると、その変わり方は憤慨に値するほどであった。」

「ある意味では、流行が初めて顔を出したのはその数年のことと言ってもよい。それというのもヨーロッパでは、衣服変化の規則がこのときから作用しだしたからである。」

 16世紀にはスペイン風の暗色のラシャなどが流行する。しかしその後、17〜18世紀に最前線に立ったのはフランスだった。

フランス風の流行は早くも十七世紀には優勢を占ていたが、それがほんとうに最高権力を確立するにいたったのは十八世紀のことでしかない。一七一六年のペルでさえも――その国では当時スペイン人の贅沢三味は前代未聞のものであった――人々は《フランス風》の服を着ていた。」    


(4)不潔


 言うまでもなく、貧乏人はファッションにはまったく関係がなかった。そしてまた、その汚らしさといったらひどいものだった。

 もっとも、不潔さについては金持ちもひどいものだった。

 猿股下着は、ようやく18世紀後半から普及するようになる。下着も、それを毎日変える習慣も、それまでにはなかったのだ。

 中世においては、ローマの影響から共同浴場がまだしばらくは残っていたが、15〜17世紀にかけて退行していった。

世紀以降さまざまの病気感染や恐ろしい梅毒のせいといことであるが公共浴場はごくわずかになりとんど消え失せてしまった。おそらくれはまたックであれカルヴァン派であれ説教師たちが公共浴場は道徳的に危険で破廉な所だと躍起になて告発したためでもある。〔中略〕ルイ十四世の宮廷においては、入浴という手段に頼るのは、例外的に病気のばいに限ってのこととなっていった。

 したがって、石鹸は稀少なものだった。幼児死亡率の高さは、このことも原因の1つと考えられる。


(5)髪、髭

 ブローデルは、男の髪型や髭の流行についても紹介している。


「たとえば長髪にすべきかそれとも短髪にすべきか。顎髭髯および髭を受け容れるべきか、それとも拒むべきか。これほど特殊な分野においても、個人の気紛れがつねに抑制されていたのを見ると、いた驚かずには。」

「イタリア戦役の初頭には、シャルル八世およびルイ十二世は長髪・無髭であった。ところが顎髭・頬髯に口髭を加え、ただし髪は短く刈るという新しい流行がイタリアからやってきた。」

「ルイ十三世の治世の初頭には、頭髪がふたたび伸びだし、顎髭・頬髯および口髭は縮まってしまった。こんどもまた、時代遅れの人たちには気の毒なこととなった。〔中略〕たちまちにして、顎髭を長く伸ばしている人たちは《自分の国にいながら、いわば外国人》と化してしまった。」







(苫野一徳)

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