パスカル『パンセ』


はじめに

 17世紀フランスの思想家、パスカルによる、あまりにも有名な本書。

 「パンセ」とは、「考えること」とか「思想」とか、さらにはまた「格言」とかいった意味のフランス語。

 さまざまなテーマについての思索の断片からなっている本書だが、実はパスカル自身が編んだものではなく、死後になって発見された文章を編纂して作られたものだ。

 鋭い人間洞察が随所に見られる本書だが、実のところその半分以上は護教論、つまり、キリスト教がいかに絶対かつ他の宗教に対してすぐれているかを論じたものだ。

 パスカルのキリスト教論は、宗教史や宗教思想の観点からすれば興味深いものではあるが、わたしたち現代人の多くには、正直ちょっと縁遠い印象も否めない。

 以下では、こうした護教論的な部分は触れる程度にとどめて、パスカルのすぐれた人間洞察を中心に紹介していくことにしたいと思う。


1.世渡り上手なパスカル?

 本書には、処世術を語ったような文章がふんだんに登場する。

 たとえば彼は、人を説得する術について次のようなことを言っている。

「雄弁とは物ごとを次のように話す術である。一、話しかける相手の人たちが苦労しないで楽しく聞けるようにする。二、彼らがそれに関心をいだき、したがって自愛心にかられて進んでそれについて反省するようにしむける。」

 相手に楽しんでもらえるような話し方を心がけ、その上で、自愛心をくすぐりつつ自らを反省させよ。……取り立ててどうというほどのこともない格言だが、パスカルの世渡り上手な(?)一面がうかがえる。

 あるいはまた、こんなことも言う。

人間は、欲求でいっぱいで、それをみな満たしてくれる人たちしか好きではない。

 ということは、人を説得するには、相手の欲求を満たしてやろうという姿勢を見せることが大切だ……と、パスカルはそう直接言うわけではないのだが、この文章からはそんな含意も読み取れそうだ。

 次のような、ちょっとした人間観察もある。

「人間は、意地悪が好きである。しかしそれは、片目や不幸な人たちに対してではなく、高慢なしあわせ者に対してである。そこをはずすと見当ちがいになる。」 



2.人間の限界

 パスカルのほぼ100年後に生まれたカントは、人間は究極の真理を知り得ないということを“証明”した(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 本書には、そのカントに先駆ける次のような言葉が記されている。

「一匹のだにが、その小さな身体のなかに、くらべようもないほどに更に小さな部分、すなわち関節のある足、その足のなかの血管、その血管のなかの血、その血のなかの液、その液のなかのしずく、そのしずくのなかの蒸気を彼に提出するがいい。そしてこれらのものをなおも分割していき、ついに彼がそれを考えることに力尽きてしまうがいい。」    

 世界の最小単位はいったい何か。人間の理性は、このことを考えると、必ず限界に突き当たってしまう。だからパスカルは次のように言う。

「それならば、われわれの限度をわきまえよう。われわれは、なにものかであって、すべてではない。」 

   まさにカントに先駆け、パスカルは人間の理性の限界を指摘したのだ。

 とすれば、人は理性によって何を探究すべきなのだろう?

 この問いについてのパスカルの答えもまた、道徳哲学を打ち立てたカントに先駆けるものだ(カント『実践理性批判』のページ参照)。

「もしも理性が自分自身の利害によって最も真剣に努力させられるはずのことが何かあるとすれば、それは自分の最高善の探究についてである。」    

 最高善、つまり究極の善とは何か?私たちが理性を使って考えるべき最大の問いは、ここにある。パスカルはそう言うのだ。


3.哲学(者)批判

 とは言うものの、パスカルはこの「理性」、あるいは理性を徹底的に使用する「哲学」に、ある面ではひどく批判的だった。

私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。    
 
 デカルトは、『方法序説』などで神の存在証明を試みた(デカルト『方法序説』のページ参照)。しかし彼の哲学の本領は、疑い得ないものは「私」以外にないことを主張するものだ。つまりそこに、本来神は必要ではない。パスカルにはこのことが許せなかった。

 同じような批判はモンテーニュにも向けられている。

「モンテーニュの欠陥は大きい。みだらな言葉。〔中略〕彼の著書は人を敬虔にさせるために書かれたものではないから、この義務はなかった。 〔中略〕  しかし、彼の死に対する全く異教的な気持は許すことができない。〔中略〕彼はその著書全体を通じて、だらしなくふんわりと死ぬことばかり考えている。」 

 とにもかくにも、不敬虔な人間がパスカルには許せなかったのだ。


4.人間の不幸、みじめさ

 人間の不幸やみじめさについてのパスカルの思索は、本書の一つの白眉と言える

「人間の不幸はすべてただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来するのだということである。」    

 これもまた、取り立ててどうというほどの洞察でもないが、それでも、「ふむ、なるほど」と思わせる言い方ではある。

 しかし逆に、この「静かにとどまっていられないこと」が、人に慰めもまた与えてくれる。

数ヵ月前、一人息子を失い、訴訟や争いごとで打ちひしがれ、つい今朝、かたもあんなにくよくよしていたあの男が、今ではもうそんなことは考えていないのは、どうしたわけだろう。驚くことはない。猟犬どもが六時間も前からあんなに猛烈に追いかけている猪が、どこを通るだろうということを見るのですっかりいっぱいになっているのだ。それだけのことでいいのだ。人間というものは、どんなに悲みで満ちていても、もし人が彼を何か気を紛らすことへの引き込みに成功してくれさえすれば、そのあいだだけは幸福になれるものなのである。    

 だから重要なことは、気晴らしを上手に使いこなすことだ。そうでなければ、わたしたちはこの気晴らしによって身を滅ぼしてしまうこともある。

われわれの惨めなことを慰めてれるただ一つのものは、気を紛らすことであるしかしこれこそわれわれの惨めさの最大なものである。なぜならわれわれが自分自身について考えるのを妨げわれわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものはまさにそれだからである。」   

 と、人間というのは、こんなにも愚かでむなしい存在なのだ。パスカルが有名な「クレオパトラの鼻」について語るのは、このくだりにおいてである。


クレオパトラの鼻。それがもっと低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう。

 クレオパトラの鼻がちょっと高いか低いかしただけで、人間の歴史は変わってしまう(その美貌と知性によって、クレオパトラはカエサルを魅了し、カエサルの死後はアントニウスもまた魅了した)。ことほどさように、人間とは愚かで惨めな生き物なのだ。

 これに続いて、パスカルは次のようなしゃれたことも言っている。

われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである。    


5.賭について

 パスカルの護教論的断章も、いくつか見ておくことにしよう。

 パスカルにとって、神への信仰なきところに幸福はない。


神の認識なしには幸福はなく神に近づくにつれて幸福になり、究極的な幸福は神を確実に知ることにあり神から遠ざかるにつれて不幸になり、究極的な不幸は、反対のことの確実さであるということは疑う余地がない

それゆえに疑うということは不幸であるしかし疑いのなかにいる場合に、必ず果たさなければならない義務は求めるということである疑いながらも求めないという人はしたがって、不幸であると同時に不正であるしかも、その人が、それで愉快にしていて、思い上がっているのだったら、私はこんな度はずれた手合いを形容することばを持ち合わせていない

 そこでパスカルは、本書で信仰へと「賭ける」ことの重要性を説く。

確率計算からいって君は真理を探究することに苦労しなければいけない。なぜならもし君が真の原を拝しないで死んだら君は滅びてしまうからだ。〔中略〕からさがしたまえ。さがす値うちが十分ある    


6.考える葦

 最後に、有名な「考える葦」についての断章を紹介しよう。


人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。〔中略〕だからわれわれの尊厳のすべては考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであて、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原埋がある。


(苫野一徳)

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