フレイザー『金枝篇』(2)


はじめに

 前巻の冒頭に紹介された、アリキアの祭司殺し

 アリキアの祭司(=王)は、聖なる木を折り取った逃亡奴隷によって殺されなければならず、そしてその後、この奴隷が祭司(=王)の座につくことになる。

 そしてやがてはまた、この新たな王は次の王(逃亡奴隷)によって殺されることになる。

 いったいなぜ、このような風習が行われたのだろう?

 なぜ王は殺されなければならなかったのか?そしてなぜ、逃亡奴隷は聖なる枝(金枝)を折り取らなければならなかったのか?
 
 未開社会の信仰や呪術などの思考様式の深奥にせまりながら、本下巻ではついにこの謎が解かれることになる。


1.神を食する

 前巻に続いて、フレイザーは次に「神を食する」ことについて論じる。

 未開社会では、「神を食する」ことはごく一般的な儀式だった。

「神の体を食べることで、神の属性と力を分け与えられる。神が穀物霊であれば、穀物はその神本来の体である。それがブドウの木の神であれば、ブドウの樹液はその神の血である。そのため、パンを食べ、ブドウ酒を飲むことによって、崇拝者たちはその神の真の体と血に与ることになる。」    

 ここで早くも、読者は未開社会の信仰とキリスト教とのつながりに思いをいたすことになる。

 フレイザーは直接言及してはいないが、本書には、キリスト教がいかに原始的な信仰の延長線上にあるものであったかが数度にわたってほのめかされている。

 イエスは「最後の晩餐」において、ワインとパンを弟子たちに与え、「これはわたしの血、わたしの肉」と言って食させた。

 ここにはおそらく、原始の信仰の名残が残っているのだ。


2.神聖な動物を殺すこと

 これまでは農耕民族における樹木霊殺しを見てきたが、フレイザーによれば、こうした「神殺し」は狩猟民族や牧畜民族にも見られたものであると言う。

 その理由は、前に見た樹木霊殺しとまったく同じだ。

「神とみなされる特定の種を絶滅から救い出すためには、なんらかの措置が取られなければならない。破局を避けるために唯一考え出された方法が、その種の一員を――血管には命の血潮がいまだ脈々と流れ、寄る年波で淀んではいない一員を――殺すことであった。かくして命は一本の水路から分岐し、新たな水路の中でより生き生きと、より自由に流れて行く、と蛮人は考える。言い換えれば、殺される動物は、若い活力とエネルギーの一切を備えて蘇り、命の新たな期間に入るのである。    

 未開人たちは、神の命が衰える前に、神を殺してその魂を再生しなければならないと考えたのだ。

 ここでフレイザーは、興味深い事例としてアイヌ熊殺しについて述べる。

 アイヌ人は、熊を日常的に食していたと同時に、これを聖なる動物と考えていた。

 その彼らは、年に1度、「イオマンテ」という熊殺しの祭りを執り行う。


 冬の終わりになると、アイヌ人たちは幼い熊を捕らえて村に連れてくる。

 最初はアイヌの女が乳を与え、その後は魚が与えられる。そして成長すると、祭りが催されることになる。

 祭りの前に、アイヌたちは神々に熊を殺すことを謝罪する。

 祭りが始まると、その騒がしさに熊は遠吠えを上げる。

「熊が檻から出されると、首に縄が掛けられ、小屋の周りを引き回される。この間、男たちは、ひとりの長に先導され、先端に丸い木の付いた矢を放つ。〔中略〕一本の棒が口に入れられる。九人の男が膝で抑えつけ、柱に首を押しつける。五分後に熊は声も上げずに息絶える。一方主婦たちと娘たちは男たちの後ろに立ち、嘆きながら踊り、熊を殺した男たちを打つ。」

「熊は皮を剥がれ、はらわたを抜かれ、胴から首が切り落とされるが、このとき、皮は首のほうに残るようにする。血は椀に受けられ、これを男たちが大いにありがたがって飲む。」

「火山の麓の地域、有珠では、アイヌたちは熊を殺すと、「さあ熊よ、わたしたちはおまえを殺した。すぐにひとりのアイヌに戻れ」と叫ぶ。」

 ここには明らかに、熊を殺し、そしてまた蘇えらせるという信仰がある。


3.害悪の転移

 次にフレイザーが論じるのは、「害悪の転移」について。

 多くの未開人は、さまざまな苦しみを何か別のものに乗せて転移しようと考えた。

 いくつか例を紹介しよう。

「東インド諸島のいくつかの島では、癩病患者の顔をある種の木の葉で打ち、その後その葉を捨てれば、癩病は治ると信じられている。癩病は葉に移り、葉とともに捨て去られた、とみなされるのである。」

「オーストラリアの黒人は、歯痛を治すために熱した槍投げ器〔中略〕を頬にあてがう。その後槍投げ器を捨てれば、それとともに歯痛も、「カリッチ」(karritch)と呼ばれる黒い石の姿で離れ去る、という。〔中略〕彼らはそれを丹念に拾い集め、敵の方角に投げる。敵に歯痛を与えるためである。」

「ムーア人は、頭痛になると仔羊か山羊を捕らえ、これを倒れるまで打ち据えることがある。こうすれば頭痛がこの動物に移し替えられると信じている。」

「発熱のときのローマの治療方法は、患者の爪を切ることであった。切ってその爪を、夜明け捕に隣人の家の戸口に蝋でくっつける。こうすれば熱は病人から隣人に移る、とされていた。」

「バイエルンの発熱の治療方法は、紙片に「熱よ、立ち去れ。わたしは外出中だ」と書き、これをだれかのポケットに入れる。こうすれば熱は下がり、代わりにポケットに入れられた者が発熱する。」

 日本の「痛いの痛いの、飛んでいけ〜」という「おまじない」も、この種のものと考えていいだろう。


4.悪魔祓い

 こうした「害悪の転移」には、大きく2つのパターンがあるとフレイザーは言う。

 1つは「無媒介の追放」。これは「悪魔祓い」のことと考えていいだろう。

「ニューギニアとニューブリテン島の間にあるルーク島(the island of Rook)では、なんらかの不幸が起こると、人々は皆ともに走り叫び罵り喚き、棒で宙を叩いて(マルサバMarsábaという名の)悪魔を追い払う。この悪魔が災難の張本人と考えられている。人々はこの悪魔を、災難の起こった場所から一歩一歩海に追い詰め、海岸に達すると、島から追い出すために一段と激しく叫んで棒を振り回す。概して悪魔は海かロッテイン島(the island of Lottin)に退却するものとされている。」

 こうした悪魔祓いの儀式は、年中行事になる傾向がある。人びとは、1年のうち悪魔祓いをするのに最も適した時期があると考えるのだ。

 ちなみに、ここでの一例として、フレイザーは日本の節分の豆まきも挙げている。


5.スケープゴート

 もう1つのパターンが、「スケープゴート」。つまり何か(だれか)を実際に生贄に捧げるという仕方で、民族の害悪をどこかに追い払おうという風習だ。

 人間を生贄に捧げた例を挙げよう。

「カフカス地方東部のアルバニア人は「月」の神殿に聖なる奴隷を数多く囲い、その中の多くの者が霊感を受けて予言を行った。ひとりがいつも以上に霊感の兆しを見せ、ちょうど密林を彷徨うゴンド族の男のように、森をひとりであちこちうろつきまわると、大祭司が彼を聖なる鎖で拘束し、一年間彼に賛沢な暮らしをさせる。一年が終わると彼は軟膏を塗られ、生贄として引き出される。そして、このような人間の生贄を殺すことが仕事となっている男、経験によってこれが手馴れたものとなっている男がひとり、群集の中から進み出て、聖なる槍で生生贄の脇腹を刺し、心臓を一突きにした。殺される男の倒れ方によって、国の繁栄の吉凶を占ったのである。その後遺体はある場所に埋められ、清めの儀式としてすべての人々がその上に立った。」

 この最後の行為は、明らかに、人びとの罪がこの生贄に移し替えられたことを示している。

「ここにあるのは紛れもなく、人々の罪と不幸を拭い去るために殺される、人間神の一例である。」

 ここでフレイザーは、明らかにキリストの磔刑を意識している。

 キリスト教によれば、イエス・キリストは人間の罪を贖うために十字架に架けられた。

 フレイザーがほのめかすには、この発想は、実は太古から続く原始的な信仰に基づくものだったのだ。


6.金枝とは何か?

 こうしていよいよ、アリキアの木立の「金枝」の謎が解き明かされることになる。

 前巻の最初で述べたように、本書の問いは2つだった。

(1)なぜアリキアの祭司は自らの前任者を殺さねばならなかったか?

(2)なぜ、それを実行する前に、「黄金の枝」をもぎ取らなければならなかったか?

 (1)についてはすでに答えが出ている。つまり、アリキアの祭司は植物霊としての神である。そのため、これが衰える前に、人びとは彼を殺さなければならなかったのだ。

 以下では、(2)の問いに対する答えが示される。

 まずフレイザーは、ここで次の2つのことを思い出す必要があると言う。


「わたしが読者の注意を促したい最初の掟は、聖なる人間は大地に足を触れてはならない、というものである。これは日本のミカドとメキシコのサポテク族の大神官が守った掟であった。」

「注目すべき第二の掟は、聖なる人物の上に太陽が降り注いではならないというものである。これも日本のミカドとメキシコのサポテク族の大神官が守った掟であった。」

 聖なる人間は大地に足を触れてはならない、そしてまた、太陽が降り注いではならない。

 これら2つを考え合わせると、「金枝」の正体を見破ることができるようになる。

 結論を先取りして言うと、フレイザーの考えでは、「金枝」とはオークから生えるヤドリギである。

 以下でフレイザーは、そのことを論証していく。


7.バルドルの神話

 まず論じられるのは、古代スカンディナヴィアのバルドル神話だ。

 神話の概要は次の通りだ。

 バルドルは、自分の死を予言するかのようなひどい夢を見た。

 そこで神々は会議を開き、あらゆる危険から彼を守ることに決めた。

 女神フリッグは、すべての者に、バルドルを傷つけないと誓わせた。

 これでバルドルは不死身になった。

 そこで神々は、バルドルを囲んで、矢を放ったり刃物で切りつけたりして楽しんだ。

 しかしここに、ロキという神がいた。

 ロキは老婆に変装してフリッグのもとへ行き、こう聞いた。

「すべてのものがバルドルの命を守ると誓ったのですか?」

 フリッグは答えた。

「ヴァルホルの東にはヤドリギというものが生えているが、これだけは幼すぎて誓わせられなかった」

 これを聞いてロキはそこへ行き、ヤドリギを引き抜き、神々の集まる場に持っていった。

 集会場には、ホズという盲目の神が立っていた。

 ロキはホズに、「この枝先をバルドルめがけて投げてください」と言った。

 ホズはヤドリギを取り、ロキに指示されるまま、バルドルめがけてこれを投げた。

 ヤドリギはバルドルに当たり、体を貫通し、バルドルは倒れて死んだ。

 バルドルの妻ナンナは、これを見て悲しみで心臓が張り裂け、死んでしまった。

 そのため彼女の遺体も、夫とともに薪の上に置かれ、火が放たれた。

(バルドル神話については、エリアーデ『世界宗教史(3)』のページも参照。)

 フレイザーは、このバルドル神話は、かつて行われた儀式を説明するために作り出されたものだろうと言う。

「というのも、神話がこれほど生き生きと詳細に描かれるというのは、神話作者が自分の目で見た儀式を再現した場合に限られるからである。」
 
 つまりフレイザーは、かつてヨーロッパでは、神が殺され焼かれるという儀式が行われていたに違いないと言うのだ。


8.ヨーロッパにおける大篝火の祭り

 そこで彼は、ヨーロッパ各地における大篝火の祭りを詳細に検討する。

「ヨーロッパの大概の地域では、太古から農夫が一年のある特定の日に大篝火を焚き、その周りで踊ったり、あるいはその火を跳び越えたりする習慣があった。」

 これは明らかに陽光呪術の名残であるとフレイザーは言う。


「つまり、これは陽光呪術なのであり、人間や動物や植物に太陽の光がほどよく当たるようにと行われる魔術的な儀式だ、という説明である。」

たとえば、火祭りでしばしば行われる、丘の上から火のついた車輪を転がすという風習は、天空の太陽の経路がきわめて自然に模倣されたものであり、しかもこの模倣は、洗礼者ヨハネの祝日という、太陽が衰退し始める夏至の日に行われるのであるから、とりわり相応しいものである。」

 これら祭りでは、人の形をした木が焼かれるという儀式も頻繁に見られた。

 フレイザーによれば、それは明らかに樹木霊である。そして樹木霊が火で焼かれるのには理由がある。

「光と熱は植物の生長にとっては不可欠なものであるから、共感呪術の原理に則り、植物を表象する人間をその力のもとに晒すことで、樹木や作物にその必要物を供給する。」

 さらにフレイザーは、先史時代においては、焼かれていたのは実は人間だったのだと主張する。

「五年ごとに行われる大祭で神に捧げるために、ケルト人たちは、有罪を宣告された犯罪者を確保しておいた。〔中略〕儀式では、生贄たちはドルイドという祭司たちによって殺された。矢で射られる者もいれば、串刺しにされる者、また以下のような方法で生きたまま焼かれる者もいた。ヤナギの小枝を編み、あるいは木材と草を編んで、複数の巨大な像が造られる。この中には、人間や牛やその他多くの種類の動物が生きたまま入れられる。そしてこの像に火を放つのである。像は中の生き物たちとともに焼き尽くされた。」
 
 さらにこの祭りにおいては、ヤドリギが集められたとフレイザーは言う。

 ヤドリギ、とくにオークの木のヤドリギは、生傷の万能薬とみなされていた。大篝火の祭りでも、ヤドリギは何らかの形でその存在を誇示していたようである。

 ケルトだけでなく、バルドル神話の誕生地スカンディナヴィアにおいても、同じような大篝火の祭りが行われていた。

「かつてスウェーデンでは、これら夏至の篝火は「バルドルの大焚火」という名で知られていた。この点はバルドルとの繋がりを疑いようのないものとするし、昔はバルドルを表生きた人間もしくは人形が、毎年その火で焼かれていたはずだ、という確信を抱かせる。」

 この火祭りで焼かれていた木は、オークであっただろうとフレイザーは言う。

 言うまでもなく、オークは先史アーリヤ人にとっての聖なる木だ。

「先史アーリヤ人の宗教においてオークが占めていた地位から察するところ、火祭りでそうした中心的な役割を果たした樹木は、もともとオークであったに違いあるまい。」


9.魂の外在

 つまりバルドルはオークだったのだ。そして未開人は、オークに生えているヤドリギを、オークの魂であると考えたのだ。

オークが葉を落としているというのに、そこに生えているヤドリギはつねに緑であることを見て、未開人たちはおのずと、ヤドリギはオークの生命の中枢である、という考えを抱くようになったのであろう。〔中略〕したがって、この神が殺されねばならないとき、つまり、この聖なる木が焼かれなければならないとき、まずはそのヤドリギを折り取ることが不可欠とされた。    

 だから、オークを殺すにはヤドリギを折り取らなければならない。これが未開人たちの思考様式だった。

 魂が外在する、とする考えは、未開人にはなじみのものだ。

 たとえばインドには、黒魔術師を殺すために、黒魔術師が別の場所に補完していた魂を壊したという物語がある。

 あるいはまた、未開社会におけるトーテム(特定の部族に結びつけられた動物や植物など)も、フレイザーによれば魂の容器と考えられる。自分の外側の強い生き物に、人は自分の魂を預けようと考えたのだ。


10.「金枝」=ヤドリギ

 こうしてフレイザーは、金枝とはヤドリギのことだったのだと結論する。

 先述したように、聖なる人間は大地に足を触れてはならなかった。そしてまた、太陽が降り注いではならなかった。

 前者については、ヤドリギは地面から生えるのではない植物であるから、その条件を満たしている。

 ヤドリギは地面から生えてはいないので、魔女たちはこれに力を及ぼすことができない。スカンディナヴィアの人たちは、今でもそのように考えて、ヤドリギを魔除けに使う。

 もう1点、太陽との関係だが、これはヤドリギがなぜ「金枝」と呼ばれたかに関係している。

「先史アーリヤ人の間では、オークは炎の本来の貯蔵庫ないし供給源であり、そこから折に触れて太陽に炎が補充される、と考えられていたに違いない。しかしオークの命はヤドリギにあるとみなされた。そのためヤドリギは炎の種子ないし胚芽を宿し、これがオーク材の摩擦によって引き出される、とされていたはずである。したがって、ヤドリギは太陽の炎から発散されたもの、と言うよりも、太陽の炎がヤドリギから発散されたものとみなされた、と語るほうがより正確であろう。ならば、ヤドリギは黄金色に輝き、「金枝」と呼ばれたとしても、驚くにあたらない。」

 先史アーリヤ人の考えでは、太陽を輝かせる力を持っているのはオークである。

 その一方で、先述したように、オークの魂はヤドリギに宿る。

 それゆえヤドリギは、太陽を輝かせる当のもの、つまり「金枝」と考えられたのだ。未開人は、聖なる者は太陽の光を浴びてはならないと考えたが、ヤドリギは、太陽を浴びるどころかむしろ自身が太陽だったのだ。

 こうして、アリキアの祭司殺しの謎は解かれた。

 アリキアの祭司は、オークの樹木霊である。人びとは、これが衰える前に殺して刷新する必要がある。

 ではどうすれば彼を殺せるか?

 それは、オークの魂であるヤドリギ、つまり「金枝」を、まずは折り取ることによってなのである。




(苫野一徳)

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