ブローデル『文明の文法』(2)


はじめに

 第1巻に続いて本第2巻では、主としてヨーロッパとアメリカの文明についてが論じられる。

 本書冒頭で、ブローデルは次のように言う。

「さていまや、われわれはわれわれ自身に、ヨーロッパに、その洗練された輝かしい諸文明に、立ち戻ろう。ほかの諸文明を研究しおえたのちは、ヨーロッパ文明をもっと公平無私に考察できるだろう。」 


1.ヨーロッパ

 ヨーロッパの歴史について考察するためには、まず次の基本的なことをおさえておく必要がある。

①ヨーロッパはアジアの一半島であるということ。

②東と西、北と南の間には対立があるということ。つまり、暑い地中海と、イギリス海峡、北海、バルト海といった北の海との間には、常に何らかの対照があるということ。


③この対照は、地理的なものだけではなく、歴史的な理由にも起因するということ。

③については、特に宗教的な対立が目立っている。

「西はローマの方を、東はコンスタンティノープルの方を向いている。教会分裂という大きな出来事は、九世紀における聖メトディオスと聖キュリロスの布教活動の成功によってすでに決定づけられていた。二人は早くから時代を先どりして、東の未来、東方正教会世界の未来を形づくったのである。
 時代がくだると、こんどは北と南と間の分裂が、プロテスタンティスムの誕生とともにあきらかになってくる。これは、かなり奇妙なことに、ほぼローマ帝国の旧辺境に沿ってキリスト教世界を「引き裂く」ことになるのである。」


(1)自由

 ヨーロッパの歴史、それは「自由」をキーワードに展開した。ブローデルは言う。

「五世紀から現代、あるいはより正確には一八世紀まで、ヨーロッパの歴史に関するわれわれの知識の総体をそっくりとらえることができるとして、次に、それを電子記憶装置に記録し(そのような記録が想像できるとして)、そして最後に、種々さまざまな機能をもったこの記憶装置にむかって、はてしないこの歴史のなかで時間的にも空間的にも頻出する問題は何かと興味津々問うてみることにしよう。そうすれば、それは必ずまちがいなくヨーロッパの自由、より正確には、さまざまなる自由の問題ということになるだろう。自由という言葉がキーワードになるのである。」

 しかしここで言われる「自由」は、今日の「自由」概念とはやや趣を異にしている。

自由とは、こんにちの「自由世界」でふつう基準となる尺度とされている個人的な自由だけではなく、 集団の自由をも意味する。中世においてlibertas〔「自由」を意味するラテン語の主格単数系〕よりもlibertates〔主格複数形〕の方がずっと多く語られていたことは興味深い。「自由」という語は、このように複数形におかれると、privilegiajura〔いずれも「特権」の意〕とほとんど異なるところがなくなる。実のところ、自由とは特権の謂であり、人間集団や利益集団はそれに守られ、その保護を笠に着て他の集団を攻撃した。それも多くは恥ずかしげもなくであった。」


 中世ヨーロッパにおける「自由」、それは特定の集団の「特権」のことだったのである。

 しかしブローデルは、農民が自ら土地を所有し、剰余生産物を生み出していたかどうかが、その社会が真に「自由」であったかどうかの基準になると言う。

 その点、10世紀から11世紀ごろにおいては、農民たちは比較的「自由」であった。経済発展が、農民に剰余生産物を生み出させ、それで必需品などを購入することを可能にしていたからだ。

 しかし11〜13世紀、「遠隔地交易」がさかんになり、初期資本主義が勃興し始めると、まず職人たちが、そしてその親方たちまでもが、賃金を払って雇われる存在に成り下がっていく。

「締め出された職人たちは、自分たちの団体や組合をつくったり、自分たちで「小屋」をもったり、町から町へと放浪したりした。彼らはまさに最初のプロレタリアートであった。」

 さらに16、17世紀、経済の退潮にともなってもはや他に行き場のなくなった資本主義が、農村の方にまで逆流してくることになった。

 要するに、近代世界が経済的、資本主義的に発展するにつれて、全ヨーロッパでそうした自由や特権はふたたびまた農民には認められなくなった」のだ。


 こうなると、自由なのは、都市の一部の富裕な人間たちだけということになる。

 しかし彼らもまた、やがてその自由を存分には味わえないようになっていく。

 15世紀ごろから、「国家」が徐々に力をつけ始めたからだ。

 とは言え、国家は、万能であったわけでも、万事制止できるわけでもなかったから、自由が国家から奪取されることもあった。」

「当時政治的自由が認められていた国々においでさえ、国家の要職はもっぱら有力な特権集団の手に握られていた」のだ。

 こうなると、「自由」なのはやはり特権的な貴族やブルジョワジーだけということになる。経済原理が浸透し、経済的な「役立たず」は、いささかも自由が認められないようになる。

 中世においては、貧民も狂人も、神の名において庇護されてきた。しかし資本主義社会においては、貧民は軽犯罪者とともに閉じこめられることになる。

「貧民たちの閉じこめは、合法化された監禁として行政当局によって組織的におこなわれたが、その結果、家族の求めで放蕩息子や道楽息子や「散財する父親」を閉じこめたり、また国王の封印状によって政敵を監禁することもできるようになった。」    

 ブローデルは言う。

こうした悲観的な状況にたいする解毒剤はただひとつしかない。    

 ある一部の者たちだけの「自由」ではなく、万人の「自由」を実現せよ!

「さまざまな自由〔複数形の「自由」〕から自由なるもの〔単数形の「自由」〕へ。この定式は、ヨーロッパの歴史を、その根源的な方向のひとつにおいて照射するものである。」


(2)キリスト教

 言うまでもなく、キリスト教はヨーロッパを語る上で欠かせないものだ。

 10世紀から13世紀にかけて、キリスト教は上昇期にあった。

 しかし14世紀の黒死病、さらに百年戦争(1337〜1453年)を通して、ヨーロッパはキリスト教を含め大きな後退を見せることになる。


 そして続く16、17世紀、ヨーロッパは激しい宗教的情熱と過激な宗教論争に支配されることになる。

 言うまでもなく、宗教改革とそれに伴ってカトリックにおいても起こった対抗宗教改革である(宗教改革についてはまた後述する)。

 その後18世紀になると、キリスト教は重大な退潮を見せることになる。

 科学の進歩。これがキリスト教を衰退させることになったのだ。


(3)ユマニスム

 ヨーロッパにはユマニスム(ヒューマニズム)の思想もまた広まった。この言葉は、19世紀にドイツ人の歴史家たちによってつくられた学者語(ギリシア語・ラテン語からの意識的な借用によってつくられた語)である。

 ブローデルは、本書で次の3つのユマニスムを取りあげる。「ルネサンスのユマニスムと、これとほぼ同時代の宗教改革のユマニスム、そして、この二つからはかなり離れて、一八世紀、フランス革命の激越なユマニスム」である。
  
 ルネサンスのユマニスム、これは、古代の人々と生をともにする、彼らとふたたび生きることである。」


 この時代、古代ギリシアやローマの精神がヨーロッパの人びとの心を捉えたが、だからと言って、必ずしも彼らがキリスト教会と目に見えた対立関係にあったわけではない。

 むしろルネサンスが中世キリスト教から遠ざかるのは、思想の領域でというよりも、生そのものの領域においてである。」

幸福な時代に生きているという感情をこれほどまでに生き生きと人間が抱いたことは、歴史上稀有なことである。
 要するに、「ユマニストたちは、自分たち自身の王国を建てるのにあまりに忙しく、神の王国に異議を申し立てようなどと考える暇はなかったのである。」

 しかし続いて起こった宗教改革はそうではなかった。

 ルターに始まる宗教改革は、16世紀においてはきわめて戦闘的なものだった。

 しかし18世紀になると、この闘争的な性格が徐々に静まっていく。

「おそらくカリシスムからの強い圧力がゆるみ、反宗教改革の激しい嵐がおさまっていったからである。」

 しかしまた同時に、それはプロテスタンティズムに内在的な理由からでもあった。


プロテスタンティスムは当時聖書の自由な検討と歴史的批判理神論的合理主義の方へと向かったそしてそうすることによって、内をおさめ、内部和解をはたすことになった。これは重要である。なぜならば、イギリスの清教徒やドイツとオランダの再洗礼派など、周縁的な宗派すべて、それまで反動分子として遠ざけられていた全宗派が、勢力を広げ、発展していったからである。

プロテスタントはつねに一対一で神と向かいあう。プロテスタントはいわば自分自身の宗教を練りあげ、それを生き、そしてなおかつ宗教界との関係を保ち、それに背馳しないでありつづけることができる。しかも、さらにプロテスタントは、自分の個人的な問題を難なく解決してくれる宗派を数多くの宗派のなかから見つけだすこともできるのだ。

 プロテスタントは、一対一で神と向き合う。それゆえ人びとは、ある意味では、さまざまな思想を自由に持つことが許されたのだ。

 他方カトリックにおいては、いかなる人間も、ある程度精神的従属を受けいれるか、一共同体たる教会と断絶するか、いずれかを選ばなければならない。つまり、属するか属さないかのどちらかなのだ。」

 それゆえブローデルは次のように言う。

「以上のようなことから、カトリックとプロテスタントでは行動や態度に一連のさまざまな差異が生じ、アングロサクソンとカトリック・ヨーロッパのあいだに乗りこえられない見えざる境界線が引かれているのある。    

 最後に、フランス革命におけるユマニスムについて。


 フランス革命は、2度、あるいは3度、あるいは4度あった。

「現代の多段式ロケットのように、フランス革命には数度にわたる噴射数度にわたる連続発射があったのだ。」

 フランス革命は当初、バスティーユ襲撃などはあったものの、穏健な「自由主義革命」としておこった(「革命Ⅰ」)。

 しかしこれにつづく「革命Ⅱ」は暴力的で、1792年4月20日の、対オーストリア宣戦布告にまでおよんだ。

 この第2段階の時期は、1794年7月27日から28日にかけてのロベスピエールの凋落とともに幕を閉じる(テルミドールのクーデター)。


 「革命Ⅲ」は、1794年のテルミドールから1799年11月9、10日のブリュメールまでと位置づけられる。つまり、国民公会の最後の数か月と総裁政府期全体をおおう時代である。

 「革命Ⅳ」に含まれるのは、1799年から1815年まで、つまり、執政政府期、帝政期、そして百日天下まである。


(4)科学の進歩

 キリスト教、ユマニスムに続いて、ブローデルは科学について述べる。

 なぜ、科学はヨーロッパにおいてのみ急速に発展したのか?

 その最大の理由は、資本主義による経済発展にあるとブローデルは言う。経済の発展は、科学技術の発展もまた要請したのだ。

「ジョゼフ・ニーダムが好んでのべていることであるが、中国にはきわめて早くから、西洋よりもはるかに早くから、科学が、かなり洗練され進んだ科学の萌芽が存在していた。しかし、決定的な段階を乗りこえるのに必要なあの経済的飛躍は、中国にはなかった。」 


(5)ヨーロッパの工業化

 ではヨーロッパの工業化はいったいどのように起こったのか?それはなぜ、まずイギリスにおいて起こったのか?

 イギリスでは、技術革新は2つの基幹産業でおこった。繊維産業と鉱業である。

 このうち、鉱業の現場、つまり鉱山は、たえず浸水災害にさらされてきた。

そこで強力なポンプを追い求めて研究がつづけられ、一七一二年から一七一八年にかけてついに登場したのがニューコメンの蒸気機関だった。そして、この大きくて重い、費用もかさむ蒸気機関を修理するうち、もと単純で効率のよい独自の蒸気機関を発明するにいたたのが(構想は七七六年)、スコットランド人ジェムズ・ワット――エジンバラ大学の「助手」といえばよいだろうか――である。

 まさに、経済発展とそれに伴う必要が、技術革新を生み出したのである。

 だがそれだけではない。イギリスには、当時、農業改革に伴う爆発的な人口増加による、安価な労働力を手に入れていたのだ。

 これもまた、イギリスで産業革命が最初に起こった理由である。

 さらに、植民地支配を通して、巨大な資本が蓄積されていたことも見逃してはならない。

「こうした搾取の例として重大な出来事を年代順にあげれば、 一六世紀におけるアメリカからの「財宝」(金塊と銀塊)の到来、プラッシーの戦い(一七五七年六月二三日)の後のイギリスへのベンガル割譲につづく急激なインド開放、アヘン戦争(一八四〇年—一八四二年)後の中国市場の強制解放、一八八五年のベルリン会議におけるアフリカ分割、ということになろう。その結果、ヨーロッパに広範囲にわたる商業集中がおこり、イベリア人、オランダ人、ついでイギリス人が利益を得るとともに、全体として資本主義のネットワークが確固たるものとして強化され、それによって工業化への始動が促進されることになった。」


2.アメリカ

(1)ラテン・アメリカ

 続いてアメリカ文明について。まずは南アメリカから。

 ブローデルはまず次のように言う。


「北アメリカと南アメリカの、唯一ではないにせよ、第一の違いといえば、まずまちがいなく、南アメリカが人種的偏見から解放され、人種問題にたいして自然でリベラルな態度を示しているということだろう。」

 なぜか。それは、黄色人種と黒色人種と白色人種が、いずれも互いを排除できるほど強大ではなかったからだ。

「ともに生きることをよぎなくされたこの三人種は、何度かの衝突は避けられなかったものの、このような状況に順応し、混ざりあい、そしてたがいに寛容と尊敬の念をいだけるまでになったのである。」

 スペイン、ポルトガルという「本国」から解放されたラテン・アメリカは、その後特にイギリスによって開発されることになる。

 その経済は、したがってヨーロッパに依存するほかないものだった。それゆえラテン・アメリカの経済は、世界経済の周期にもろに影響された。

「南アメリカをおそったそうしたさまざまな経済周期の最初は貴金属だった。つまり、ほぼ一六世紀中葉までの金の周期と、一六三〇年ないし一六四〇年ころまでの銀の周期(とりわけメキシコとポトシ〔ボリビア南部〕の鉱山)である。」   

 その状況は、今もさほど変わっていない。


「これと同じように、牧畜や砂糖やコーヒーの周期もたどってみることができよう。」

「こうしたさまざまな単一生産あるいは単一耕作の「周期」という大きな主題は、一巻の書物をあげて論じても、論じきれるものではないだろう。」


(2)アメリカ合衆国

①フランス、イギリス、そして独立

 アメリカ全土における植民地競争の最初の勝者は、スペインだった。次いでフランス人がやって来て、最後にイギリス人がやって来る。そして最終的に、イギリスが勝利をおさめることになる。

 その勝利のチャンスはどこにあったのだろう?


「おそらくそれは、イギリスの植民地が、あまり広くはなかったものの(もちろん相対的にだが)、しっかりと占領されていたという点にあった。とりわけ北部――それもボストンが大きく発展していたマサチューセッツ――と中部――ニューヨーク(旧ニュー・アムステルダム)とクエーカー教徒の町フィラデルフィアが根をおろしていた――がそうだつた。」

 1762年、イギリスとフランスとの7年戦争(フレンチ・インディアン戦争)は終結し、翌年のパリ条約によって、フランスはアメリカにおける植民地を失った。

 イギリスとフランスとの戦いが終わると、アメリカにとって、今度はイギリスがうっとうしい存在になる。

 そうして1776年、独立宣言がなされ、独立戦争の末に、1787年、憲法が制定される。

 この独立宣言には、「金持ち」たちの理念が謳われていた。

独立宣言は革命権利と法の前での万人の平等をうたった。しかし、あの地主や実業家、法律家、農園主、投機金融業者――あの「貴族たち」――の頭にとりついてはなれず、彼らをかりたてたのは、所有地と財産と社会的特権を安全に守るという大きな理念であった。アメリカが誕生するや、すでに金持ちが存在していたというわけである。

 アメリカ憲法は、利己主的で残忍人間の、さまざまな衝動をたがいにつりあわせようとするものだったのだ。


②西部征服

 18世紀末、西部開拓が大々的に行われるようになる。


強調しておかなければならないのは、「フロンティア」、つまり白人によて征服された空間にも精神的にも、いかに大冒険の産物であったか、ということだ。物質的いうのは、金融、つまり資本主義が、最初から原動力の役割をはたしたということがあきらかだ精神的というのは、プロテスタンティズムの、そしてそれをこえてアメカ文明の、決定的な第二段階へのあたらしい広がりが見られるからである。」

 西部開拓は、資本主義とプロテスタンティズムの精神によって行われたものだったのだ。

 資本主義、というのは、彼らは皆、農民になろうとして開拓に向かったのではなく、一儲けしようという相場師マインドをもって西部を目指したからである。

 プロテスタンティズムの精神、というのは、開拓を行ったのは、行為を尊ぶ素朴なプロテスタントたちだったからである。

「それは、「個人神学主義」を、「個人の至高権」を、ようするに「信仰ではなく行為」を、よりどころとすることによってであった。キリストの言葉は、かくして直接的かつ単純な交わりに還元されることになった。」    


③奴隷制

 アメリカの歴史に最初から刻まれていた暗部、それが奴隷制度だ。

 南北戦争は、これを廃止しようとする北部と、維持しようとする南部との間の戦いだった。

 しかしこれは、両者の対立理由の一部にすぎない。両者の間には、次の4つの問題があったのだ。


(一)工業地域の北部は高関税政策をもとめたが、綿を輸出する南部はむしろヨーロッパから品質もすぐれた工業製品を輸入する方がよいとし、門戸開放政策を主張した。

(二)紛争の政治的側面――権力を争う共和、民主の二政党は、それぞれ南部連合派の民主党、北軍派の共和党と分かれ、対立した。

(三)この対立は、西部に創設された新しい諸州がどちらのブロックに帰属することになるのか、という争点をはらんでいただけに、いっそう激しいものとなった。


(四)現実にこの危機はひとつの深刻な問題をなげかけていた。つまり、連邦に統合された個々の州は、連邦の中央政府によって決定されたあれこれの諸施策に反対することができるのか否か、また、そうした諸州は連邦を出る、すなわち離脱する権利があるのか否か、という問題であった。


④資本主義の発展

 1880年ごろまでは農業国だったアメリカは、その後飛躍的に工業化をすすめ、資本主義を発展させていく。

 その過程で、市場の自己調整機能を主張した経済学者たちの理論は現実の前に有効性を発揮せず、代わってケインズが登場することになる。

「アメリカはこの理論を二〇世紀の新しい経済の絶対的な真理とうけとり、しばしばそれにもとづいて政治行動をみちびきだすことになった。」    

 つまり経済への国家介入の強化である。

「経済機構の正常な作動を監督する任務を負った最高の調整役としての国家の役割がますます大きくなってきている。一九三九年からはこうした必要性に異をとなえる者はだれひとりとしていない。」    


3.もう一つのヨーロッパ、ロシア(ソ連)

 本書最後に論じられるのは、ロシアについてだ。


(1)リューリク朝

 最初のロシアは、ヨーロッパ起源の諸民族とアジア起源の諸民族との混淆からなる、小ロシア人(ウクライナ人)たちのロシアだった(9〜13世紀)。キエフ・ロシアとか、リューリク朝とか呼ばれている。

 この時キエフはギリシア正教に改宗しているが、これがその後のロシアの運命を決定づけることになる。


(2)モスクワ大公国

 1240年、キエフはモンゴルに敗れる。

 しかしそれ以前、11世紀後半から、キエフの住民の一部は北東へ移動しており、スラブ人とフィン人との混淆が進んでいた。これが大ロシアの起源である。

 1480年、ロシアはタタール(モンゴル)の軛から解放されると、モスクワの皇帝(ツァーリ)が、キプチャク・ハーン国のハーンに取って代わるようになる。


 それが一大勢力に成長したのは、モスクワ大公、イワン雷帝がカザンを攻略し(1551年)、ついでアストラハンを攻めとり(1556年)、それ以降、広大なボルガ河流域をその源からカスピ海にいたるまで支配下においた時のことである。

「この二重の成功は、大砲と火縄銃によって得られたものであった。馬に乗って「西洋の胎内にまで入りこんできた」アジアからの侵入者は、黒色火薬の前についに退却したのである。」

 こうして、ロシアに中央集権体制ができあがっていくことになる。


(3)ヨーロッパへの接近

 ロシアはしだいにヨーロッパの方を向くようになっていった。これは、ロシア近代の数世紀間において、1917年のロシア革命にたるまで、そしてそれ以降においても、ロシア史上、重大な意味をもつ決定的な事実であった。    

「大胆で荒々しく性急なピートル大帝(六八九年—一七二五年)が登場し、また、その長い治世が対外的な栄光にいろどられたエカチェリナ二世、すなわちエカチェリナ大帝(〔在位〕一七六二年—一七九六年)が出るにおよんで、この露欧接近はまるで映画のクローズアップのように明確なものとなってきた。」    


(4)ソ連とマルクス主義

 1917年、ロシア革命

 マルクスによれば、資本主義は工業化段階に達すると、大規模労働、大量生産がおこなわれるようになり、したがって隷属階級がますます広範に形成されるにいたる。つまりプロレタリアートの広範な出現である。

 彼らは必然的に階級闘争を激化させ、そうしてやがて革命をひきおこすことになる。マルクスはそう考えた。

 ところが、ロシアはまだまだ工業化段階には到達していなかった。それは農業社会だったのである。

 にもかかわらず、ロシアにおいて革命が起こった。

 農民を動因したのはレーニンだった。

「レーニンは〔中略〕隷属的な農民層のうちに革命の重要な原動力を見てていたのである。ニンはこの爆発的な一大勢力をそのままにして遊ばせておくつもりはなかた。かくしてこの大勢力が一九一七年の成功を保証することになるのは周知のとおりである。」

 農業国でマルクス主義的革命が起こるのはおかしなことだが、その理論的問題はレーニンが埋め合わせた。

「レーニン主義とは、再検討れたマルクス主義――人類学者なら「再解釈されたというだろう――、近くて遠二〇世紀初頭の時代の帝政ロシアという農業優位で工業がまだ未発達の国に適用されたマルクス主義なのである。
 
 ブローデルは言う。

一九一七年のロシアには「資本主義があらかじめ供してくれる」はずの既成の社会基盤がまたくなかたのでロシアはそれをみずからの手でつくりださねばならなかたのである。スターリ裁があれほどまでに異常な様相を呈することになったそのためであた。〔中略〕スターリン体制の残虐さは、権力に酔ったひとりの人間の気まぐれによっても、社会主義の必然性によっても、共産主義の必然性によっても、完全には説明できないものだ。それは後進国の悲劇でもあり、後進的な農業国が工業化の数々の段階を人的投資によって速く飛びこえようとして生みだされた非情な国家政策のあらわれだったのである。    


(苫野一徳)

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