バタイユ『至高性―呪われた部分』


はじめに

 『呪われた部分』3部作の、最終巻。(第1巻『呪われた部分』、第2巻『エロティシズムの歴史』のページ参照)。

 本書では、バタイユの有名な「至高性」の概念について詳述されている。

 「至高性」、それはひと言で言うなら、「有用性を超えた彼岸」のことである。

 私たちは、日々、これはいくらで買えば得だろう、とか、あの人とつながっておけばあとあと仕事がうまくいくだろうとかいった、合理的で功利的な生き方を送っている。

 でも、そうした合理性・功利性・有用性といったものを超えて、「これさえ手に入れたなら、ほかにはもう何もいらない」と思えるような経験もまた、わたしたちには時に訪れる。

 「至高性」とは、そういう瞬間のことである。そして人は、だれもがこの至高性を求める存在である。

 しかし現代においては、資本主義社会においても(当時の)共産主義社会においても、この「至高性」がないがしろにされてしまっている。

 現代、それは「有用性」にまみれた世界。そこでは至高な「蕩尽」が禁止され、富をただ「蓄積」することだけが美徳とされる。

 そのような世界においては、やがていつか、この蓄積された「富」が、蕩尽存在である人間の本性に従って、非合理に使い果たされることになるだろう。

 それはもしかしたら、戦争(第3次世界大戦)という形になって現れるかもしれない。

 戦争とは違う仕方で、わたしたちはどうすれば富の蕩尽をなしうるか?

 「至高性」の次元を、わたしたちはどうすれば回復することができるのか?

 バタイユ思想の真骨頂がここにある。


1.至高性=富の非合理な消尽

 至高性を象徴する存在、それは、王や祭司、そして神である。

 彼らは、労働の世界から超越した存在、つまり有用性や功利性の次元を突き抜けた存在である。そしてまた、それゆえにこそ、人びとからの崇敬を集める者である。

かつては首長とかファラオ、あるいは諸王の王と呼ばれた人々、つまり、われわれがその存在へと同一化するような存在――現代における人間存在――が形成される上で最も主要な役割を演じた人々に至高性は属していた。むろん至高性はもろもろの神々にも属していたのであり、最高神はそれら種々の神々の特別の一形態であった。」    

 しかし人間は、本来だれもがこの至高性を持っている。そうバタイユは言う。


至高性は本質的にあらゆる人間に属しているのだ。

 というのも、至高性の特徴は、蓄積された富を非合理に消尽することにあるからだ。これは本来、人間だれしもが持つ性向である。


至高性を際立たせるのは、富を消尽するということだ。


有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域である。

 にもかかわらず、現代においては、この至高性を皆が忘れてしまっている。

 なぜか?

 今日のブルジョワ社会においては、至高性の運動とは反対に、だれもが富を貯め込もうとしているからだ。

 それでもわたしたちは、今なお至高性の世界を十分に味わうことができるはずである。バタイユはそのように言う。

奇蹟的な要素、われわれの心をうっとりとさせる要素は、たとえばごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に変させる太陽の燦然たる輝きにほかならないということもありえよう〔中略〕もっと一般的に言えば、そういう奇蹟的なもの、人類(人間性)全体がそれを渇望するようなものは、美というかたちで、豊かさというかたちでわれわれのあいだに姿を現わす。また同時に激しい暴力性というかたちで、喪の悲しみ、あるいは聖なる悲哀というかたちで現われる。さらには栄光というかたちでも現れるのだ。    

 春の朝日、美、暴力、聖なる悲哀、栄光……。これらは今日なお、わたしたちに至高性を感じさせてくれるものなのだ。


2.死の不安をまぬがれる

 続いてバタイユは至高性の諸特徴を描き出す。

 まず彼は次のように言う。

至高な仕方で生きるということは、死をまぬがれるということではないにしても、少なくとも死の不安をまぬがれるということである。死ぬことが唾棄すべきなのではない――そうではなく、憎むべきは隷従的な仕方で生きることだ。至高な人間はこの意味で死をまぬがれている。」    

 動物とは違って、理性を持った人間は、自分がやがては死ぬことを知っている。

 しかし至高な生き方は、いわばこの理性の次元を超え出た生き方である。だから彼は死を恐れることがない。

「彼は意識に対し、そしてまた意識の原初的な内容をなす死の真面目さに対し、戯れ=賭の運動を対比させる。」


3.通いあう主観性

 先述したように、古代においては君主や祭司こそが至高者だった。

 しかし人びとは、彼らを通して、自分たち自身の至高性をもまた感じとることができたのだった。

至高者の――主体の――精神状態は、その者を至高者として仰ぐ人々に、主観性の深部を通して己れを伝えるからである。こういう深い主観性は、ある遠回しの手段によって以外にはけっして言説的な認識の対象となることはないが、しかしそれは強い情動の、ある可感的な接触によって、主体から主体へと交流するのだ。たとえば笑いにおいて、また涙のうちに、さらには祝祭の狂瀾のなかで、主観性は通いあう……    

 
4.至高性の観点から見た共産主義

 ここでバタイユは、至高性の観点から共産主義の分析に取りかかる。

 バタイユの考えでは、共産主義は至高性を徹底的に廃棄するものである。なぜならそれは、人びとの差異を消滅させようとする思想であるからだ。

 完全平等を目指す共産主義は、言葉を換えれば、互いが互いを単なる有用性として利用しあう世界である。

彼はいわば完成された事物、すなわち完璧な有用性となり、またそのことによって完璧な隷従性となるだろう。」    
 
 さらに、ソ連の共産主義は大きな矛盾もまた抱えている。

 至高性(至高な権力)を否定するはずの共産主義は、しかしスターリンという一種の至高者を戴いたのだ。

「とりわけで嫌悪感もなく、過度の感嘆の念もなしに、私はこう言いたいと思う。つまりスターリンの宿命のなかには、ひとを恐怖で満たすような度はもすれの要素があり、この宿命は他のどんな宿命にも比較しがたい、と。死を間近かにした、このソ連共産党の党首は、特別な他者の至高性から、また差違というものから解放された人間(といってもそれは将来もたらされるはずの結果、つまり彼の統率のもとに莫大な数の国民が関与させられることになった努力の、遠い未来の結果だとみなされている人間の姿)を、以上見たとおりに定義していたのだが、他方で彼自身、すでに、一種の至高者の特権を我が物としていたのだった! 」   

 さらにもう一つ、共産主義は大きな矛盾を抱えている。

 共産主義は、人びとの差異を認めないと言う。しかしその舌の根も渇かぬうちに、彼らは搾取する側の人間を否定するのだ。

「選別の思想を否定することが共産主義の本質に関わっているのに、このように語ることで共産主義は、遠回りながらこの思想に立ち戻ってきているのである。」    

 バタイユの共産主義についての考えは、次の文章に要約されていると言っていいだろう。

制限というものを知らぬこういう共産主義運動は、その原則において、いわば一種の機械、人間たちの間の相違を抹消する機械のようなものである。《区別》と名づけられるもの一切が、この機械の歯車のなかで圧倒され、粉砕され、永久に消え去らねばならないとされるのだ。〔中略〕至高性を廃絶すること、そしてついに相違なきものとなった人類の根源に至るまで、至高性を徹底的に取り払うことが、求められている。    


5.至高な芸術

 最後にバタイユは、至高性の観点から芸術について考察する。

 バタイユの考えでは、共産主義は芸術の至高性をまったく認識していない。なぜならこの社会においては、芸術は共産主義のイデオロギーに仕えるものでなければならないからだ。

 他方、ブルジョワ社会もまた芸術の至高性を理解していない。なるほど、ブルジョワ社会において芸術家は自由に振る舞ってはいるが、しかし彼らは、結局「有用性」の次元において認められているにすぎないのだ。

 では原始社会においてはどうだったのか?バタイユは言う。

「原始社会そのものも、本質的には、至高な作家や芸術家を排除していた。〔中略〕芸術とは、とりわけ、自ら労働にたずさわることはせず、自分以外のものに自分を従属させるような行動を取ることはありえない君主たちの主観性を表現するものであった。」

 原始社会における聖なる芸術の役割は、至高者の「主観性」を表現することにあった。

 しかしその後、俗なる芸術が登場してくることになる。

 俗なる芸術もまた、人びとの「主観性」を表現するものである。しかしここで表現される「主観性」は、至高者の至高なそれではなく、俗なる人間たちの主観性である。

 聖なる芸術と俗なる芸術は、その表現形式において著しい違いがあるとバタイユは言う。

「聖なる芸術はその効力を反覆から得ていた。最も強烈な情動を引き起こす最も大きな衝撃が、変形なしに繰り返されていた。倦怠は時を経たのちにしか生まれなかった。俗なる芸術はたしかに更新力を持ちはするが、表現が、幾世紀を経るなかで確立されたあの不変の形式を持たなくなった瞬間から、手練手管が顕著になる。〔中略〕問題となるのは、だれでもよい、事物の世界で動き回り、その喧噪から、隷属した群衆のレヴェルでの生を得る者の主観性である。」

 聖なる芸術には、飽くなき反復がある。それに対して、俗なる芸術は無節操な手練手管に頼るのだ。

 至高な芸術とは何か。バタイユは言う。

至高な芸術は、可能なるものの極限に至る。    

 どういうことか?これをもっと的確に言い表した言葉が、本書のはじめの方にある。

「不可能なことなのに、それでもそこにある」

「芸術とはつねに望外のものへの、ある種の奇蹟へのこの上もない希望に呼応する答えなのである。    

 至高な芸術とは、「不可能なことなのに、それでもそこにある」ことをわたしたちに知らしめてくれるものである。


6.戦争を回避せよ

 本書の最後に、バタイユは戦争とその回避について語る。

 それは、『呪われた部分』3部作の1つの重大なテーマだった。(バタイユ『呪われた部分』『エロティシズムの歴史』のページ参照)。

 バタイユは言う。

われわれに提起されている問題は、〔中略〕、全世界を一個の巨大な火薬樽に変えたこの前例のない蓄積を、戦争なしに使いつくすことなのだ。私の言っているのは、核爆発のことであるよりもむしろ生産の一般的な動きである。」

 共産主義も資本主義も、どちらも富を極度に貯め込む。

 しかし人間は、この貯め込んだ富を、いつかは必ず非合理に蕩尽してしまう存在である。

 そのエネルギーを、いかに戦争ではなく別の仕方で使いつくすことができるだろうか。

 バタイユはそう考えた。

 他の著作の解説ページでも述べたように、彼自身は、この問いにはっきりとした答えは与えなかった。

 しかし本書において、バタイユはささやかながら次のようなアイデアを示している。

解決は、資本主義諸国が、緊縮政策および伝統的外交の枠内で、世界において諸資源のより不平等性の少ない分配をめざしながら、理性的に贈与を企てるという、合理的行動のみにかかっている。 」   

 理性的な贈与という、合理的な行動。

 これがいったい具体的には何をイメージしているのかは分かりづらいが、バタイユは、人間の非合理的な部分(呪われた部分)を、合理的に理解し、これを使いこなすことで、来るべきカタストロフィを回避したいと考えたのだった。

 「贈与」もまた、非合理的な富の消尽である。ただ貯め込むのではなく、富を非合理に使いつくすこと。バタイユはここに、世界の未来の可能性を見出そうとしたのである。


(苫野一徳)



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