バタイユ『宗教の理論』


はじめに


 比較的短い作品ながら、バタイユ思想のエッセンスが、本書にはぎゅっと詰まっている。名著『エロティシズム』と並んで、バタイユ入門書としても最適だろう。

 本書が執筆されたのは、1948年ごろのこと。しかし発表されたのは、バタイユの死後、1974年のことだった。

 宗教の本質は何か?それはどのように展開し、そしてどのようにいわば低迷してしまったのか?その未来は?

 バタイユは本書で、これらの問いにきわめて独創的な、しかし説得力のある答えを与えていく。


第1部 基本的資料

 第1部では、いわば宗教誕生のプロセスが、バタイユ独自の視点から描かれる。

 まず彼が描き出すのは、動物の世界だ。


1.動物の内在性

 バタイユはいう。


全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している。
 
 動物は、人間のように自分自身を対象化して生きることができない。つまり、自分は何者かとか、目の前のこれは一体何かとか、自分はなぜ生きるのかとかいったことを考えることがない。

 つまり動物は、いわばただ本能のままに、食べ、排泄し、交尾をし、死んでいくのだ。

 これをバタイユは、動物の「内在性」という。 

 この動物の世界を、わたしたちは正確にはいい表すことができない。動物は、わたしたち人間に近い存在であるようにも思われるが、実はその存在の仕方において、あまりにも遠すぎる存在なのだ。

したがってわれわれはこのような対象を、明確な様式で記述することはできない。というかむしろそれについて語る適正な様式とは、公然詩的な様式である以外ありえないのである。」


2.道具

 人間が動物と異なっているのは、まず何をおいても、自分を対象化できるという点にある。

 ではどのようにして、人間はそのような観点を得ることができたのだろう?

 バタイユはいう。

「物=客体をそれとして位置づけることは、動物性においては与えられていないのだが、人間がいろいろな道具を使用するということのうちに与えられるのである。    

 道具の使用が、まず世界を「利用可能な対象」として認識させることを可能にした。そしてそれは、回り回って、わたしたちに、わたしたち自身をも対象化する視線を獲得させたのだ。


3.連続性(=聖なるもの)

 しかし、このように一切が対象化可能な世界(有用性の世界)へと還元されると、わたしたちにはかえって「連続性」へのノスタルジーがわいてくる。

 「連続性」、それは、先に述べた動物的な「内在性」の世界のことである。

「連続性とは動物にとっては他のなにものとも区別されないものであって、動物においては即自的にも対自的にも唯一可能な存在の様態なのであるが、人間においてはその連続性は、俗なる道具の貧困さ(非連続な物=客体の貧困さ)に対し、聖なる世界のあらゆる魅惑を対比させたのである。    


4.供犠

 この「連続性」の世界を再探求するものこそが、宗教の本質である。バタイユはそのようにいう。(『エロティシズム』においては、エロティシズムもまた、この「連続性」への回帰のあり方として描かれている。)

 それを象徴するのが、供犠である。

供犠が犠牲の生贄の内で破壊したいと願うのは、事物――ただ事物のみ――なのである。供犠はある一つの物客体を従属関係へと縛りつける現実的な絆を破壊する。つまり生贄を有用性の世界から引き剥がして、知的な理解を絶するような気まぐれの世界へと戻すのである。献上された動物が祭司によって殺される領界へと入っくとき、その動物は事物たちの世界から――つまり人間にとって閉じられており、なにものでもなく、外から知るだけの事物たちの世界から――引き戻されて、人間にとって内在的な、内奥的な世界へと、ちょうど消尽を思わせる肉体的交わりの中で女が知られるのと同じように知られる世界へと移行するのである。それが仮定しているのは、そのとき人間のでも自分自身の内奥性から切り離された状態を止めるということ、すなわち労働という従属関係において人間がそうである状態を止めるということである。    

 供犠においては、奴隷、食料、動物など、有用なものが犠牲にされる。つまりこれは、有用性の世界を、連続性の世界へと移行させていく営みなのだ。

「重要なのは持続性のある秩序から離れて、つまりそこでは諸々の資源の消尽が全て持続する必要性に服従しているような秩序から離脱して、無条件な消尽の激烈さ暴力性へと移行することである。〔中略〕供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチーゼであって、瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。    

 これはまた、有用性の世界にとらわれたものを、本来あるべき連続性の世界へと戻してやる営みともいえる。

「供犠の対象となるものとは、動物たちや食料となる植物たちのように、本来精霊としてありえたはずなのに事物と化してしまったものたち、だからそれらが由来する源である内在性へと、失われた内奥性の茫漠たる領界へと戻してやらねばならぬものたちなのである。    


5.宗教の本質

 こうしてバタイユにとって、宗教の本質は「喪われた内奥性を再探求することにある」

 しかしその上で、彼は次のようにいう。

「宗教とは、その本質は失われた内奥性を再探求することにあるのだが、結局のところ全体として自己意識であろうとする明晰な意識の努力に帰着するのである。しかしこの努力は空しい。なぜなら内奥性の〔についての〕意識とは、意識がもはや一つの操作ではないような水準、つまり操作とはその結果が持続を当然のこととして含むものであるが、そのような操作ではなくなるレヴェルにおいてしか可能でないから。    

 内奥性(連続性)の世界や、またそれについての意識は、本来言葉にしがたいものである。

 にもかかわらず、宗教は、やがてこれを「明晰な意識」において捉えようとするようになる。

 こうして宗教は、やがてその矛盾を露呈することになってしまうのだ。


6.戦争

 その矛盾について述べる前に、バタイユはここで戦争についてひと言触れる。

 戦争もまた、有用性とは無関係な、瞬間的なエネルギーの爆発であるように見える。

 しかし実はそうではない。戦争は結局のところ、勝者による「有用性」の世界を築き上げるものであるからだ。

「確かに戦争行動は、個人の固有な生の価値を否定的に賭に投入することによって、独特な様式で個人を解体する方向性を持っているけれども、やがて時間の継続のうちに、逆にその価値を強調するようになることは避けがたい。というのも生き残った方の個人が、その賭への投入の結果を利益として享受する人になるからである。」    

 バタイユは、人間は消尽(蕩尽)存在であるということを、様々な著作で繰り返し述べている。

 それはつまり、人間は究極的には、何か有用なもののためにエネルギーを使うのではなく、ただ爆発させるためだけにためこんだエネルギーを爆発させる、そのような存在であるということだ。

 宗教やエロティシズムが、その象徴である。

 しかし人は、この消尽(蕩尽)を、時に戦争という形で実現しようとすることがある。

 第2次大戦は、バタイユにとっては、ある意味ではそのような蕩尽の姿でもあった。

 しかしバタイユはいう。戦争は、実は本来の蕩尽のあり方ではないのだと。

 バタイユは、やがて訪れるかもしれない第3次大戦を恐れていた。それゆえ彼なりの仕方で、この危機をどう克服しうるかを考えた。本書と同時期に書かれた『呪われた部分』は、その1つの答えである(バタイユ『呪われた部分』のページ参照)。


第2部 理性の限界内における宗教(軍事秩序から産業発展へ)

 続く第2部では、「内奥性の再探求」であったはずの宗教が、軍事や産業の世界において、理性の世界内部へと押しとどめられていく様が描き出される。


1.二元論

 軍事や産業の世界は、徹頭徹尾「有用性」の世界である。

 ここにおいては、宗教もまた、有用性の世界に資するものへと堕していくことになる。

 その象徴が「モラル」である。軍事・産業世界においては、宗教はモラルを司るものになってしまうのだ。

 しかしこのモラルなるものは、その本性からいって、あらゆる無益で、有用性のない消尽を断罪するのである。」

 こうして、次のような二元論が登場することになる。

二元論が進展していくと、神的なものは理性的で、モラルに関わるものとなり、不吉な聖性を俗なるものの側へと投げ棄てるのである。

 それまでは、神的なるもの(聖なるもの)の中に、吉と不吉、清浄と穢れが混在していた。それは端的に、有用性の世界に対置される「連続性」の世界だった。

 しかし、軍事・産業世界の進展に伴って、宗教は理性的なモラルを司るものになり、不吉なもの、穢れたものを、俗なるものの世界に追いやることになったのだ。


2.科学

 このことは、科学の進歩によってさらに決定的なものとなる。

 科学は、いわば有用性(合理性)そのものの世界である。

 それゆえ、科学的な認識と内奥性(連続性)の世界との交流とは、互いに相容れないものである。

「判明に区切られた認識と内奥次元とを一致させるのが困難である理由は、時間におけるそれらの存在様式が対立しているということに拠っている。神的な生命は直接=無媒介的であり、瞬時なものであるが、認識は宙吊り状態とか待機などを要求する一つの操作なのである。」

 内奥次元との交流は、直接=無媒介的なものである。それに対して科学的な認識は、様々な操作(観察・実験など)を通して、世界を客観的に、つまり対象的に捉えようとする。

 人間が、こうした操作的な知の世界から脱却するためには、いったいどうすればいいのだろうか?バタイユはいう。

こうした条件においては、客観的な認識という形態のうちに与えられた要請に適切に応えることは、誰であれ非—知を措定することによる以外できないであろう。」    

 ありていにいうと、わたしたちは、言語化不可能な世界と交流しなければならない。科学的な世界観へと還元されてしまったわたしたちの認識を、もう一度内奥性の世界へと還元しなおす必要がある。そうバタイユはいうわけだ。

ただ彼がなしうることは、操作によって事物へと還元されたのだから、逆の操作にとりかかること、つまり還元の還元へととりかかることだけである。



 (苫野一徳)

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