ヘーゲル『美学講義』(2)


はじめに

 邦訳の中・下巻では、芸術の弁証法的発展が論じられる。

 芸術は、素朴な「象徴芸術」、理想美を実現した「古典芸術」、そして内面の絶対性を発見した「ロマン芸術」へと展開していく。

 しかしその果てに、芸術はいわば弾け飛ぶ。

 ヘーゲルは本書で、そのような驚くべきことを言う。

 また、ヘーゲルによれば、芸術の諸ジャンルは、建築→彫刻→絵画→音楽→文学と発展していくという。

 もっともこれは、それぞれの芸術ジャンルを、エラい順に序列化したというわけではない。

 ただ、ヘーゲルは、文学(詩)こそが人間精神の深みを表現するのに最もふさわしいものと考えるのだ。

 さまざまな芸術作品を具体的にあげながら、それらを徹底的に自分の弁証法の中におさめていくヘーゲルの力技は、時に無茶にも見えるが、圧巻だ。


1.象徴的芸術形式

 以下、ヘーゲルの考察は次のように進む。

 象徴的芸術形式古典的芸術形式ロマン的芸術形式

 まず、象徴的芸術形式から。

 ヘーゲルはその3つの類型を描き出す。

(1)無意識の象徴表現、(2)高遠な象徴表現、(3)比喩を用いた芸術形式の意識的な象徴表現、だ。

 以下、1つずつ見ていくことにしよう。

(1)無意識の象徴表現

 無意識の象徴表現とは何か。ヘーゲルはその典型例として、ゾロアスター教、古代インドの宗教、そして古代エジプトの宗教などをあげている。

 これらが生み出した芸術は、どれも非常に素朴な象徴表現にとどまっていて、人間精神の能動的な働きはほとんど見られない。

 たとえば、古代エジプトでは、ナイル川の象徴がイシスとして表され、太陽の象徴がオシリスとして表される。

 実に単純な象徴表現だ。

 ただし、スフィンクスにまで至ると、若干人間精神の萌芽が見られなくもない。

 しかしヘーゲルは、それも結局は不完全なまま終わってしまっていると言う。

 スフィンクスもまた、人間と動物との精神の違いに、いまだ無自覚な作品なのだ。

 ギリシャ芸術は、この無自覚な部分を乗り越えていく。スフィンクスの謎をオイディプス王が解き明かすのは、まさにそれを象徴するものだ。

「スフィンクスが、これまた象徴的な意味のふくらみをもつギリシャ神話のなかで、謎をかける怪物としてあらわれるのも、その意味で理にかなっています。スフィンクスが、「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足となるものはなにか」という有名な謎をかける。オイディプスが「それは人間だ」とあっさり謎を解き、スフィンクスを岩山から突きおとす。象徴表現を解読するのは、絶対的な意味である精神の力によるほかはなく、だからこそ、有名なギリシャの銘文も、人間にむかって、「なんじ自身を知れ」と呼びかけるのです。」


(2)高遠な象徴表現

 続いて高遠な象徴表現が登場するが、これは、世界の創造主は神であることを認めることで起こってくる芸術である。

世界の全領域が、その現象の多様さ、力、華やかさにかかわらず、実体神との関係においては明確に価値なきものとされ、神の被造物、神の権力に屈服するもの、神の召使いにされるという関係です。    

 一切は創造神の象徴である。このように考える象徴形式は、人間精神が一歩前進したものである。


(3)比喩を用いた芸術形式の意識的な象徴表現

 続いて、比喩を多用した芸術が現れるようになる。

 寓話、たとえ話、格言、教訓話、そして変身物語などがそれである。

 たとえば、イソップ物語

 しかしこれもまた、人間精神のまだまだ初歩的な段階にすぎないとヘーゲルは言う。

「かれ(イソップ――引用者)の思いつきはたんに気がきいているというだけで、精神の力や、洞察と社会観の深さはないし、詩心や哲学もありません。かれの見解や教えはたしかに機知に富んだ利発なものではあるが、自由な精神のもとに自由な形態を創造するというより、目の前にあるあたえられた素材――動物の特定の本能や衝動、ちっぽけな日常のできごとなど――から、なんらかの応用のきく教訓を引きだそうとする、視野の狭い思考にすぎない。」    


2.古典的芸術形式

 こうして、芸術は象徴表現から次の段階へと発展することになる。

 古典的芸術形式がそれだ。ヘーゲルは言う。

「古典美の内面をなすのは、〔中略〕自分自身を自分の対象とする精神的なものです。」

 象徴芸術が、外部のものを象徴としてただ気まぐれにもてあそんでいたのに対して、古典芸術はそこに人間精神を注入しようとする。

 つまり、あらゆるものが人間精神にとって深い意味をもつようになるのだ。

「そして、意味をもつ形態とは、その本質からして、人間の形でなければならない。」

 こうして、人間を造形する芸術が生まれる。ヘーゲルが念頭においているのは、古代ギリシャ彫刻である。

 古典芸術における人間精神の自覚は、その表現において、たとえば「動物の格下げ」などをもたらす。

「インドでは、神聖な動物は、犠牲どころか、大切に保護され、世話をされるし、エジプトでも、死んだあとはミイラにして保存されます。が、ギリシャでは、犠牲に供することが神聖な行為とされる。」    

 また、山羊神パーンや半人半獣ケンタウロスなどは、一段低い神と見なされる。

 では、この古典芸術形式においては、いったいどのようなものが理想美とされるのか。

 ヘーゲルは言う。

「神々や人間がどんなに特殊な外形を身にまとおうとも、古典芸術においては、確固たる共同体の土台がゆるぎなく維持されねばならない〔中略〕。主体は、その内容をなす共同体の正義とつねに一体化しています。

 古典芸術においては、主体と共同体との美しい一体化こそが主題なのである。

 ところがそれはそうたやすいことではない。人びとは、やがて自分たちの「個性」というものに目覚め始める。

 それが、古典芸術の解体の始まりでもある。

ギリシャにおいて現実の最高の目的とは、国家生活――国民として生きること、国民としての道義を守り、生き生きとした愛国心を保持すること――にあって、それ以上の高貴な関心事はなかった。しかし、世俗の生活として目に見える形をとる国家生活は、世俗というものの一般的な性格からして、やがては滅びていかざるをえない。    

 人びとは、自らの内面をより意識し始めるのだ。

 この移行期に登場するのが、諷刺詩であるとヘーゲルは言う。

有限な主体性と変質した現実とがこのように対立してあらわれるとき、その対立を表現する芸術形式が、風刺詩です。

 しかしこれは、移行期の混乱した精神の作品であって、芸術と呼ぶことなどできない。そうヘーゲルは主張する。


3.ロマン的芸術形式

 こうして、芸術は次の段階へと展開する。

 登場するのは、ロマン的芸術形式だ。端的にはキリスト教芸術である。

 おさらいしておくと、象徴芸術は、言わば気ままな空想的創作だった。続く古典芸術は、人間精神を外界に造形しようとする芸術。

 ロマン的芸術は、この古典芸術に続いて、「精神の無限の自由」を自覚した芸術である。

ロマン芸術の真の内容は絶対の内面性であり、それにふさわしい形式は、おのれの自立と自由とを自覚した精神的な主体という形式です。 」   

 これはどのようにすれば表現できるのか?

 キリストや聖母などを描くことによってである、とヘーゲルは言う。キリストにおいて、「一人の人間が神であり、神が一人の人間であることが示され」るからである。これはまさに、人間精神の無限の自由を意味するものなのである。

 「愛」もまた、重要なテーマである。


愛の真の本質とは、自己意識を棄て、他の自己に没入した意識が、この自己放棄と没入のなかでかえって自分を獲得し所有するところにあります。

「つまり、精神は他の精神のうちに入りこむことによって、はじめておのれが絶対的な知と意思をもつことを自覚し、知的な満足を得ることができます。」

 愛において、人は自らの精神の絶対性を知ることができるのだ。

 ところが愛にはある本質的な問題がある。

 愛の偶然性という問題だ。


ロマン的な愛においては、まさにこの男がこの女を、あるいは、この女がこの男を愛するという点が肝心です。なぜこの男だけが、あるいは、この女だけが愛されるのかといえば、その根拠は、主観の特殊な趣向、偶然の気まぐれに求めるほかはありません。」

 ここに、ロマン芸術の弱点が露呈することになる。

まさにこの娘に執着するという点には、なんらの必然性もないので、そこに興味をもつのは、なんの広がりも普遍性もない、主観の最高度の気まぐれにつきあっているのです。そう考えると、灼熱の恋が表現としてわたしたちにせまってきても、どこか冷静に受けとめざるをえません。    

 ロマン芸術は、言わば「何でもあり」と紙一重の危険性をもっているのだ。


それだけでは美しくもなんともない平凡な日常茶飯事を、あえて忠実に再現しようとします。となると、そのような作品でも芸術作品の名に値するのか、という疑問が生じます。」

 こうして、ロマン芸術も解体へと向かう。

 ヘーゲルは、自分たちの時代がその解体の時代であると考える。


「今日の芸術は、芸術家が自分の主観的な技巧を基準にして、どのような内容にも同じように適用できる自由な道具となっています。

そこに主として浮かびあがるのは、芸術が崩壊して、外界の偶然の形態がなぞられるだけになるという造形法と、他方、ユーモアのうちで主体の内面の気まぐれが存分にゆるされるさまです。

 次の世紀に、それまでの芸術を文字通り解体する「現代アート」が登場したことを思うと、ヘーゲルの「予言」は正しかったのではないかという印象をもつ。


4.個々のジャンルの体系

 続いてヘーゲルは、さまざまな芸術ジャンルについて、またも弁証法的に考察していく。

(1)建築

 まずは建築について。

 ヘーゲルによれば、これは象徴芸術を代表するものである。

「建築は象徴的芸術形式に対応するものであり、象徴的芸術形式の原理を一つの芸術ジャンルとして際立たせるものということができる。自分のうちにこめられた意味を、囲いという外面のうちにしか示せないのが建築というものですから。」    


(2)彫刻

 建築により人間精神が加わったものが、彫刻である。

「建築が精神とはかかわりの薄い無機物を相手に、精神の力でそれをなにかに役立つ有用な外枠として造形するのにたいして、彫刻は、目的となる自立した精神そのものを、個としての精神という概念にふさわしい肉体の形で造形し、肉体と精神を同一不可分の全体として目の前に提示します。」    

 しかしそれは、依然、文学ほど精神的に高度なものではない。

「彫刻は基本的に詩(文学)に遅れをとるものといわねばならない。〔中略〕なにより行動する人間――あらゆる動機、運命や状況のからみあい、あらゆる感情、ことば、内面と外部事情の表現の備わった人間――をわたしたちの前に提示できるのです。それは彫刻にはまったくできないか、きわめて不完全な形でしかできないことです。    

 同じく、彫刻は絵画にも遅れをとるものだ。

「絵画における精神の表現は、顔の色や陰影によって、ありのままのすがたを物質的に正確に表現できるだけでなく、とくに、容貌や病理の特性を正確に生き生きと表現するのに大きな力を発揮できるからです。    


(3)絵画

 続いて絵画について。

 絵画はあらゆる歴史、あらゆる文化に見られるものだが、この表現形式がその本質を最も発揮できるのは、ロマン芸術においてであるとヘーゲルは言う。

 なぜなら、「絵画がねらいとする本来の内容は、主観の感情であるからだ。

 古典芸術の代表である彫刻は、3次元において人間精神を造形する必要があった。しかし絵画は、もっと自由に、主観性をその作品の中に埋め込むことができる。

 それはまさに、「主観の絶対性」を表現しようとする、ロマン芸術が目指すところのものである。


(4)音楽

 音楽もまた、主観の感情を豊かに表現するものだ。ただしそれは、造形芸術に比べたらはるかに抽象的なものである。

「聴覚は、〔中略〕視覚よりももっと観念的です。」

「物としての客観性という点からすれば、音そのものは造形芸術の材料とくらべてはるかに抽象的なものだということです。」

 
(5)詩(文学)

 最後に、文学について。

 ヘーゲルによれば、文学は芸術のいわば最高峰である。

「なにより、その原理は精神性の原理です。〔中略〕精神を、芸術的想像力のうみだした構想のすべてをふくめて、目に見える外面的なものとしてうちたてるのではなく、直接に精神にむかって語りかけるのです。」    

 しかし先に見たように、この最高峰の芸術もまた、今解体しようとしている。そうヘーゲルは言う。

 ロマン芸術は、今や「何でもあり」と紙一重のものとなっている。

 文学もまた、「喜劇」というあり方で、その徴候を示している。そうヘーゲルは言う。

「近代の喜劇は、私的な利害やそこに巻きこまれる人物たちの性格を、その性格描写や、局面や状況の喜劇的なもつれのなかで、偶然の、ゆがんだ、滑稽な、異常な、愚かな形に仕立てて観客に提供します。」    

「喜劇は〔中略〕芸術の解体のはじまりです。あらゆる芸術の目的は、永遠なる、神々しい、絶対の真理を、物のすがたをとる形象として、わたしたちの直観や心情や想像力の前にさししめすような、そういう統一像を精神の力でうみだすことにある。ところが、この統一像を喜劇は自己解体の過程においてしか表現できない。〔中略〕この解体のなかで、主観性そのものだけがおのれの存在を確信し、おのれのうちに安らぎを見いだします。」

 単なる主観性への解体。こうして芸術は解体されるとヘーゲルは言う。

 再び、その後の芸術の歴史を振り返ると、ヘーゲルの慧眼に驚かされる。






(苫野一徳)

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