ヘーゲル『美学講義』(1)


はじめに

 ヘーゲル芸術論の集大成。

 芸術とは人間精神の偉大な創造物である。

 本書でヘーゲルは、そんな芸術の歴史的な展開を、おなじみの弁証法を通して明らかにする。

 つまり、最も素朴な精神が生み出す芸術作品から、高度な精神が生み出す芸術作品への展開だ。

 現代のわたしたちからすれば、精神の高低という観点から、芸術作品をある種序列化してしまうのには抵抗がある。

 歴史や精神は発展する、という進歩主義的な歴史観も、簡単には受け入れがたい。

 しかしそれでもなお、ヘーゲルの芸術論には、徹底的に考え抜かれた思考の説得力がある。

 なるほど、確かに芸術とはそのようなものだし、また、それぞれの時代や文化の芸術について、このように考えることには説得力がある。そう思わせる、すぐれた洞察がある。

 このページではあまり細かく取り上げられないが、本書を読めば、読者は、ヘーゲルのきわめて豊富な芸術の知識にも驚かされるだろう。

 あらゆるテーマを考え抜いたヘーゲルの、独創的な、しかしまた同時にきわめて説得的な、超1級の芸術論だ。


1.芸術美は自然美よりもすぐれている

 本書冒頭で、ヘーゲルはまず、「芸術美は自然美よりもすぐれている」と述べる。

 なぜか?

ずもってきっぱりいえるのは、芸術の美は自然よりもすぐれているということです。というのも、芸術美は精神からうまれ、くりかえし精神からうまれる美であって、精神とその産物が自然とその現象よりもすぐれているのに見合って、芸術美も自然の美よりすぐれているのです。

 自然の美は、いわば「ただそこにあるだけのもの」だ。

 それに対して芸術美は、人間精神の創造的な産物である。

 その意味において、芸術美は自然美よりもすぐれている。そうヘーゲルはいうわけだ。

 だから、どれだけ自然を上手に模倣しようとも、そこに偉大な人間精神を感じなければ、わたしたちがそれを芸術と呼ぶことはない。

「カントの引照する例を挙げると、ナイチンゲールのさえずりを完全にまねできる人にたいして――たしかにそういう人はいて、――わたしたちは感心することもあるが、人間がやっているとわかると、その鳴きまねを不快に感じることもあります。ものまねのうちに認められるのは、自然の自由な生産でも芸術作品でもなく、たんなる芸当にすぎない。

 芸術、それは人間精神の偉大な創造物なのだ。


2.芸術は絶対精神のあらわれである

 続いてヘーゲルは、「芸術は絶対精神の顕現である」という。

 絶対精神とは、ありていにいえば「神」のこと。ヘーゲルはいう。


「芸術の世界は絶対精神の世界なのです。」



「真正の現実は、直接の感覚や現に目の前にある対象のむこうにはじめて見いだされる。というのも、真の現実といえるのは、自然と精神の本体たる絶対的存在だけであって、 それは、いまここに存在しつつもその絶対性を失うことはなく、だからこそ真に現実的な存在だからです。」

「こうした普遍的な力の働きを浮かびあがらせ形象化するのが、ほかならぬ芸術の仕事です。」

 芸術、それは宗教や哲学と並び立つ、絶対精神を顕現させるものなのだ。

 ヘーゲルの「絶対精神」論は、基本的に次のようなものになっている。

 人間は「絶対精神」(=神)の精神を分有している。そしてこれを、歴史を通して実現していく……。

 他のページにも何度も書いてきたことが、わたし自身は、これは現代においてはまったく話にならないフィクションだと考えている(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』『歴史学講義』『哲学史序論』などのページ参照)。

 絶対精神の真理を解き明かすのが、芸術、宗教、そして哲学の真の役割である、というのがヘーゲルの基本的な構えなのだが、絶対精神なるものが存在するのかどうか、わたしたちは決して検証することができない。

 その意味で、わたし自身は、ヘーゲルの「絶対精神」論は捨て去るべきだと考えている。

 しかしそのように捨て去ってもなお、ヘーゲル哲学には現代なおきわめて原理的な洞察が無数にある。

 彼の芸術論も、その1つである。


3.イロニー(皮肉)批判

 ヘーゲル芸術論の核心へと進む前に、まず、彼が本書だけでなくさまざまな著作で取り上げている、「イロニー」批判について見ておきたい。

 イロニーとは何か?それは、どんなものも絶対ではあり得ないといって、いっさいを相対化して得意気になる態度のことだ。

 ヘーゲルの時代、シュレーゲルを中心に、このイロニーの態度に基づく芸術論が流行していた。

となると、イロニー(皮肉)に満ちたわざとらしい芸術家の生きかたが、神のごとき天才の所産に思われてくる。ありとあらゆる存在が根拠のない被造物となり、なにもにも拘束されることのない自由な創作者は、まったく自由自在に万物を破壊もし、創造もできるというわけです。こうした神のごとき独創の立場に立つものは、すべての人間を高みから見くだして、正義や社会関係などを確固とした大切な枠組と考える人びとの生きかを、せせこましく、つまらないものだと考える。」

 確かなものなんて何もない。となると、芸術もまた、「何でもあり」の空虚な独創性を主張するものに成り果てる。そうヘーゲルはいう。

 でもあまりにも「何でもあり」をやりすぎると、本当にそれでいいのかと芸術家は思うようになってくる。

 こうして登場するのが、いわば病的な「あこがれ」の気分である。

「こうして、自我は不幸と矛盾に引きこまれるのでその実態は、主観が真理を希求し、客観性を渇望しつつも、内にこもる孤独と隠遁の状態を、いいかえれば、不満足な抽象的内向の状態を脱することができず、いまやあこがれの気分にとらわれる、というところにあります。この不満足な静止と無力の状態――内面の調和を捨てられないがために、行動や交際に踏みきれず、実在や絶対を求めつつ、非現実で空虚な内面の純粋さを保つだけの状態――が、な魂の美しさとあこがれの気分をうみだします。

 しかしそんなものは芸術ではない。そうヘーゲルはいう。

「イロニーが表現の基調になると、およそ反芸術的なものが芸術の真の原理と見なされる。平凡な人物や、内容も安定感もない人物が登場して、実のあることを意味のないものにしてしまうし、結局は、上に述べたあこがれの気分や、どうしようもない矛盾した心情が全体に広がってくる。そのような表現が本当の関心を呼びおこすわけがありません。」

 イロニーというのは、ヘーゲルからすればきわめて安易な精神的態度である。確かなものなど何もない、何もない、とただいい続け、それに苦しくなったら何かに「あこがれ」をただ向けるだけの、実に陳腐な精神だ。

 本当に力強い芸術は、そして哲学は、そのような陳腐な精神に陥ることなく、それでもなお、「このような芸術表現は普遍的といえるのではないか?」「このような哲学原理は普遍的といえるのではないか?」という。

 ヘーゲルのイロニー批判は、今日のいわゆるポストモダン思想に対する批判にもなり得ているとわたしは考えている(ヘーゲルのイロニー批判については、『法の哲学』(2)のページも参照)。


4.表現について

 いよいよ、ヘーゲル芸術論の本題に入ろう。

 先にいったように、芸術とは人間精神の偉大な創造物である。

 その表現に際して、芸術家はさまざまな感覚的な素材を利用する。それはたとえば、彫刻家にとっての石や、画家にとってのカンヴァスといった物質的なものだけでなく、舞台設定(モチーフ)や題材など、多岐にわたっている。

 ここで重要なのは、これらの題材を使って、芸術家がどれだけ偉大な精神を示せたかということだ。

「肝心なのは、芸術作品の内容として盛りこまれた事件や歴史が外面上どう展開していくか、というところにはなく、それらが人びとに受けいれられるよう、どう精神的に造形され、その造形の過程で表現され提示される人物の信条や性格が、どれだけ大きな動きを示すかにあります。」

 ヘーゲルは、芸術が利用するさまざまな設定について分析している。

 まず彼が考察するのは、「時代状況」だ。以下、ヘーゲルはきわめて多くの実例を挙げて考察するのだが、ここではごくわずかの例を挙げるにとどめたい。

 たとえば、ヘーゲルは、「理想美」を表現するために、これまで多くの場合「神話」の時代が利用されてきたことは理にかなったことだと述べる。

「題材を現在にとると、それは現に目の前にあるものとしてあらわれ、あらゆる面でイメージが確定されるから、詩人がどうしても変更が必要だと考えても、変更を加えると、意図的な作りものだとただちにわかってしまう。一方、過去は記憶のうちにしかなく、記憶というものは人物の性格や事件や行動をおのずと一般的な形にくるみこんでくれるので、特殊な外形や偶然の特徴がおもてにあらわれないで済む。」

 続いて彼が考察するのは、さまざまな「局面」について。

 芸術家は、それぞれの時代における、さまざまな「局面」を描き取る。

 しかし原始的な芸術には、この「局面」というものがないとヘーゲルはいう。

 エジプトや最古のギリシャの芸術などがそうだ。

「そこにあるのが局面なき局面であって、初期の芸術の古い神像などがその例です。そこに見られる深遠で不動のまじめさ、微動だにしない、いや硬直しているとさえいうべき、しかし堂々とした高貴の性格は、のちの時代にも同じような形をとって模倣されます。」

 これが古典時代のギリシャになると、一歩前進しはじめる。

「たとえば、エジプトの神々の彫像は両脚をぴったりと合わせ、頭をまっすぐに立て、両手を体の脇にくっつけた形で表現されるが、ギリシャの彫刻では、腕と脚が胴体から離れ、体が歩行その他、複雑な動きのある姿勢をとります。休む、坐る、静かに外を見る、といった姿勢が、ギリシャ人のとらえる神々の状態です。」

 ここには、人間精神の能動的な動きが現れ始めているとみることができる。

 さらに人間精神が発達すると、この「局面」に「対立」という要素が現れる。

 たとえば、運命にもてあそばれ、知らぬ間に父を殺し母と結ばれてしまっていた、ソフィクレス『オイディプス王』などが典型だ。

 こうして「対立」という局面が見出されると、人間精神はこれを調和へともたらそうとする。

 それゆえ次の段階において、芸術には「行動」表現が登場することになる。

「これまでたどってきた段階からいうと、行動は、一般的な時代状況にはじまり、特定の局面を経て、そのつぎに来る第三段階に当たります。」

 ここでは、個人の「パトス」(心の内奥)や「性格」などが、生き生きと描き出されることになる。


5.芸術家について

 続いてヘーゲルは芸術家について考察する。

 まずヘーゲルは次のようにいう。

「芸術家は現実の本質的な真理を幅広く、奥深く、全体として熟考しなければならない。十分な思考なしには人間は自分のうちにあるものを意識することがないからで、偉大な芸術作品なら例外なく、題材があらゆる方向にむかつて広く深く吟味され、考えぬかれています。軽薄な想像力からは堅実な作品はうまれません。」

 しかしそれは、哲学的な思考とは違ったものだ。

「芸術家にとって哲学は必要ではないので、芸術家が哲学的に思考するとしたら、かれは芸術的な知の形式と正反対の方向にむかっていることになる。想像力のなすべきことは、内面の合理性を一般的な命題や観念の形で表現するのではなく、もっぱら具体的な形態や個としての現実のうちに表現することにあるからです。」

 つまり、哲学者がつねに普遍的原理を思考するのに対して、芸術家は、具体的な現実を表現することをこそ思考しなければならないのだ。

 両者はどちらも普遍性をめがけるが、そのアプローチはいわば真逆だということだ。

 またヘーゲルは次のようにもいう。

「最高最上のものは言明不可能なものであり、詩人の内部には作品に示される以上の深みがある、などということはなく、作品こそが芸術家の最上の成果であり、芸術家の真相だからです。形にあらわれたものが芸術家の本当のすがたであり、内面のみにとどまるものは本当のすがたではありません。

 よく、大切なものは「言葉にできない」とか「表現できない」とかいうが、それはある意味では言い訳にすぎない。

 真の哲学者は、それを何とか言葉にしようとし、真の芸術家は、それを何とか作品にしようとする。「内面のみにとどまるものは本当のすがたではありません」というのは、そういうことだ。

 以上が、ヘーゲルによるいわば芸術原論だ。

 続いてヘーゲルは、さまざまな芸術作品について、独自の、しかしまたきわめて説得力のある分析を行っていく。








(苫野一徳)

Copyright(C) 2015 TOMANO Ittoku  All rights reserved.