エリアーデ『世界宗教史』(5)


はじめに

 本書の副題は、「ムハンマドから宗教改革の時代まで(上)」。

 本書では、古代ユーラシア大陸の宗教、古代および中世キリスト教、そしてイスラームとユダヤ教の歴史が語られる。


1.古代ユーラシア大陸の宗教

(1)獲物を追う肉食獣

 ここでエリアーデは、トルコ・モンゴル人、フィン・ウゴール人、バルト・スラヴ人など、古代ユーラシア大陸の民族の宗教を取り上げる。

 彼ら原始狩猟民の神話は、草原に獲物を追う肉食獣をモチーフにしている。

 トルコ・モンゴル人は、世界史に電撃的に出現し、そして短期間に去っていく。

 フン人は、374年、東ゴート王国を粉砕し、他のゲルマン諸部族の大移動をもたらした。しかしその王アッティラが死ぬと、フン人は分裂し歴史から消えた。

 ジンギス・カンモンゴル帝国を出現させたが、1281年、日本征服に失敗して以後は衰微していった。

 彼らは皆、大草原(ステップ)の肉食獣をモデルに各地への侵入を行った。

「トルコ人のチムール(1306〜1404)は、みずからをジンギス・カンの後継者と任じ、肉食獣モデルに鼓吹された最後の大征服者あった。」


(2)天空神テングリ

 彼らアルタイ系諸民族の神の中で最も重要なのは、天空神テングリである。

 君主はこのテングリの代理者と考えられた。

「宇宙の秩序は、したがってまた世界や社会の成り立ちや人間の運命は、テングリに依存している。したがって、いかなる支配者も天から信任を受けねばならない。〔中略〕君主とは、天なる神の派遣者、ないし代理者なのである。」


 テングリはさまざまな自然現象の形をとった。

「テングリは神殿をもたなかった。神像の形で表象されたかどうかも疑わしい。」

「テングリは、不満をあらわすのにさまざまな天象を以てした。流星、飢鑑、洪水などである。人々は彼に祈りを捧げ(たとえばモンゴル人、ベルティル人など)馬、羊などを犠牲に献じた。」

 しかし諸民族が分裂していくにつれ、テングリは「ひまな神」になっていく。

「ひまな神」……これはエリアーデ宗教学における重要な用語の1つだ。

 世界中の宗教において、最高神は、その役割を終えると「ひまな神」になるという現象が見られるのだ。

「天上の至高神がひまな神へ変貌していくことは、世界的に確認される現象である。テングリの場合は、分裂して多数化したり、他の神格に座を譲ったりするのだが、これは帝国の分裂という事態に呼応したものと思われる。」


(3)テントのような天

 アジアでは、宇宙は「天上」「地上」「地獄」の三層構造をなしていると考えられていた。

 その中央には軸が貫かれていて、それぞれの世界は連結している。


「この軸は「開口部」、「穴」をとおって立ち、この穴から神々は地上に降りて来るし、死者は地下の国に下っていく。またシャーマンの魂が天界や地獄に旅する際にも、ここをとおって飛翔したり、降下したりする。この三つの世界――それぞれ、神々、人間、地獄の王と死者たちが住んでいる――は、したがって、三枚の重なった板のようにイメージされている。」

 多くのアルタイ系民族は、天空を一種のテントのようにイメージしている。

「天の河はその縫い目、星々は明かりとりの穴である。ときどき神々は、地上を眺めるために天幕を開く。これが流星である。天空はまた一種の蓋とも考えられている。時折その蓋が地面のへりにぴったり閉められていないことがあり、そうすると、その隙間から大風が吹き込んでくる。さらに、この狭い隙間をすり抜けて、英雄など特殊な人間は天界に登ることができる。天界の中央には北極星が輝いており、これが天の天幕の留め釘となっている。」



(4)世界創造神話

 古代ユーラシア大陸における世界創造神話も、これまで見てきた他の多くの神話と同じく、その舞台はまず原初の水(海)である。

 この原初の水の底に、神などが潜る。これが基本イメージだ。ヴァリエーションは大きく3つある。

「(1)神が何かの動物の姿となって、深淵の底まで潜って行き、そこから世界をつくるための泥をすこし取ってくるというもの。(2)神が、ある水陸両棲の動物(水鳥)を水底まで派遣するというもの。(3)神が、それまでその存在を知らず、やがて敵であることが分かるある生き物(鳥類であることが多い)を、水中に飛び込ませるというもの。」


(5)シャーマニズム

 シャーマニズムは、古くから世界中で見られるものだが、厳密な意味でのシャーマニズムは、もっぱら中央および北アジア、北極地域にみられるものを言う。


 誰かがシャーマンとして承認されるためには、(1)エクスタシーに関する面(夢、ヴィジョン、トランスなど)と、(2)伝承知識に関する面(シャーマン固有の技術、精霊の名称や働き、氏族の神話と系譜、秘密の言語など)」が必要とされた。

 シャーマンの起源についての神話には、二つの意義深いテーマが語られている。

「(1)「最初のシャーマン」は神(または天上の神々)によって創造されたことと、(2)彼の態度がよくなかったため、神々が彼の能力をきびしく制限してしまったことである。」

 シャーマンは、獲物が少なくなった時などに、天上へ昇ったり地獄へ下ったりして、新たな収穫とその時期などの情報を得る。

 しかしシャーマンのもっとも大切な役目は、病気治しである。

「一般に病気は、魂が道に迷ったり、「誘拐」されることが原因と考えられている。シャーマンはそうした魂を捜し出し、つかまえて、病人の身体に再び戻すのである。」

 こうしたシャーマンの存在意義を、エリアーデは次のように言う。

「それはまず第一に、人間はよるべなき世界に悪霊やもろもろの「悪の力」にとり囲まれて孤立してあるのではない、との確信を示している。〔中略〕すなわち、見えざる世界の存在によって引き起こされた危機的状況のなかでも、自分たちのなかのひとりがそれを救うことができる、と皆が確信することである。共同体のなかのひとりが、他のメンバーには見えないものを見ることができ、超自然界から直接に正確な情報をもたらしてくれることがわかれば、これは人々を安堵させ、力づけるものとなろう。」


2.聖像破壊運動(8—9世紀)までのキリスト教会


(1)オリゲネス

 続いて、前巻に続くキリスト教の歴史。

 4世紀後半、アウグスティヌスの時代に、キリスト教神学が黄金期を迎える。いわゆる「教父時代」である。

 アウグスティヌスの前の時代には、彼に匹敵する天才神学者オリゲネス(180〜254年頃)がいた。

 しかし実は、彼には教父としての権威が認められていない。

 彼はデキウス帝の迫害のとき(250年)に捕らえられ、拷問を受け、それがもとで、254年死去した。

 エリアーデは言う。

「オリゲネスの神学体系は天才の産物というべきであり、後代に大きな影響をおよぼした。しかし続いて見るように、その思弁のあまりに大胆ないくつかの部分は、不幸な解釈を被る可能性をはらんでいた。」

 要するにオリゲネスは、異端思想の批判をまぬがれなかったのだ。

 オリゲネスによれば、父なる神はみずからの似姿たる子なる神を永遠に生む。

 ところがイエスひとりを除いて、この純粋な霊的存在者はみな神から離反していく。

 転落した魂たちは、自由な意志決定によって、また同時に神の摂理に導かれて、神のもとに戻りつくまでの巡礼の途に出で立つ。

 こうしてオリゲネスは次のように考えた。

救済とは原初の完全な状態への還帰、アポカタスタシス(「いっさいの回復」)にほかならない。」


 しかしこれは、前巻で見たグノーシス主義との批判を浴びることになった。

「アポカタスタシスの説は宇宙全体の救済を説き、したがって悪魔もまた救われると説くものである。そればかりか、この説はキリストの御業を宇宙的性格の過程のひとつに繰り込んでしまうというのである。」



(2)アウグスティヌスと神学論争

 古代キリスト教における最大の神学者、アウグスティヌス。

 彼は、異教徒たちとの神学論争を繰り広げ、そのことで正統キリスト教神学の基礎を築いた。

 彼は若いころ、前巻で詳論したマニ教にひかれていたが、その後キリスト教に改宗する(アウグスティヌス『告白』のページ参照)。

 マニ教は、悪の起源を解き明かしていた(前巻参照)。

 しかしアウグスティヌスは、その後悪とは「善の欠如」であると考えるようになる。

「神が創造したすべては実在であり、存在に参与している。したがって善である。」

 この教理は、今日にいたるまでキリスト教神学者たちを支配しつづけている。


 アウグスティヌスが行ったもっとも困難な論争は、ペラギウスとその弟子たちとのものである。

 ペラギウスの神学では、人間はある意味で自分自身の救いの創出者であるとされる。
 
 彼の神学は、その後異端と決定されるが、それは直接的にはアウグスティヌスの論駁を根拠にするものだった。

「アウグスティヌスは恩寵に、したがってまた神の全能に決定的重要性を認めた。」

 神の決定だけがすべてであり、それは人間には理解不能なものなのである。

「ある人々は永遠の生を享け、他の人々は永遠の滅びにいたる――後者のなかには、洗礼を受けずに死んだ嬰児も含まれる。この――天国と地獄への――二重の予定は、アウグスティヌスも認めて似るように、人間には理解不可能なものである。」


(3)聖人崇拝

 6世紀には、聖人崇拝聖遺物崇拝が、かなりのひろまりをみせるようになっていた。

 聖人の遺物が、崇拝の対象となったのである。

 アウグスティヌスはこれを当初は批判していたが、そのうち考えを改めた。

 聖人崇拝について、エリアーデは次のように言っている。

「肉体に高い宗教的価値を認めるこうした態度は、受肉の教義となんらかの関係をもっている。神がイエス・キリストに受肉したのであるから、主キリストのために苦しみを受け、殺された殉教者は各々の肉身において聖化されたのである。」
 
 聖人崇拝は、性的および社会的な差別の解消をもたらすことになったともエリアーデは言う。

数多くの儀式が墓の前で行われた。行進や巡礼の最適の目的地ともなった。こうした行進や巡礼は、地中海地域の宗教史上にひとつの際だった革新をもたらした。すなわち、キリスト教はこうした公共の儀式において、女性や貧者たちに参加の場を提供したのである。〔中略〕そこでは男も女も、貴族も奴隷も、富める者も貧しき者も、地元の人も外国人も、みな一緒に行進する。


 さらにエリアーデは、この聖人崇拝が、キリスト教におけるさまざまな矛盾的神学に人びとを慣れさせる土壌を生み出したとも言う。

この種の崇敬に含まれるもろもろの矛盾(たとえば、殉教者が天上と墓所、ないし遺骸の断片に同時に現存すること)は、信者を逆説的な思考に慣れさせることにもなる。事実、この聖遺物への崇敬は、受肉や三位一体の教義、また秘蹟に関する神学などにとっての「平易な(すなわち平信徒にも理解可能な)平行例」とみなすことができるのである。


(4)東方教会とビザンチン神学の展開

 395年、ローマは東西に分裂するが、すでに4世紀、ローマ(西)とコンスタンチノープル(東)との緊張関係は、しばしば危機的な状況にまでなっていた。

 東方教会は、独自のビザンチン神学を展開していった。その革新は、西ローマからすれば「瀆神」とほとんど同義のものだった。

 東方神学の中心教理、それは人間の神化(テオーシス)にあったのだ。


しかしそれを実際に実現するのは、つねに神の恩寵である。こうした理由で、東方教会では内なる祈り(これはのちに「不断の祈り」にまでなっていく)、観想の行、修道生活などが重視されることになる。

 東ローマでは、その後聖像破壊運動(イコノクラスム)が行われることになる。

 モーセの十戒にしたがって、2世紀までのキリスト教徒はいかなる聖像も作らなかった。

 しかし東ローマ帝国では、この禁止は3世紀頃から無視されるようになり、宗教的図像が墓所や信徒の集まる会堂などにあらわれはじめた。


聖像崇敬は七二六年、皇帝コンスタンティヌス五世によって公式に禁止され、七五四年、コンスタンチノプルの聖像破壊主教会議によって異端を宣告された。」

 しかし聖像破壊運動は、大した影響力を持たなかった。

「というのも、ひとつには、聖像破壊論は聖像のもつ象徴的機能を無視ないし拒否していたからである。いまひとつには、多くの聖像擁護者たちがイコン崇拝を自分たちに役だつ方向で、つまりある種の教会制度の威信や意義や豊かさを補強する目的で利用したためである。


3.ムハンマドとイスラームの展開

(1)ムハンマドの生涯

 続いて、イスラームについて。

 創始者ムハンマドは、世界宗教の創唱者のなかで、その伝記が知られている唯一の人物だ。

 25歳のとき、彼はハディージャという富裕な寡婦の使用人となり、595年ころ、歳の違いをおしてこの女主人と結婚した(ハディジャは当時40歳だった)。

「預言者(ムハンマド)の生涯でハディジャが占めた位置は、無視しがたいものがある。宗教的召命に伴う試練の時期に、彼を励ましつづけたのも彼女である。

 啓示が最初に下ったのは、610年ごろのこと。

 ムハンマドが洞窟の中で眠っていると、天使ジブリルが現われ、手に書物を持って、「誦め!」と命じた。

 ムハンマドが誦むのを拒むと、天使は「その書物を彼の鼻と口に」押しつけて迫った。

 とても強く押しつけたので、ほとんど窒息しそうになった。

 そして、四度目に天使が「誦め!」とくり返したとき、ムハンマドはたずねた。

「何を誦めというのですか?」

 すると、天使は答えた。「汝の創造の主の御名において誦め(すなわち、宣教せよ)!

 これをきっかけに、ムハンマドは宣教活動を始めることになる。

 宣教の初期には、神の力能と慈悲が強調された。そして次に、最後の審判と死者の復活が切迫していることが強調された。

 しかしクライシュ族の富裕な支配者たちにとって、ムハンマドを神の使徒と承認することは、彼を政治的な最高権者としても認めることを意味していた。

 さらに、ムハンマドによれば、多神教を信仰していた彼らの父祖たちは、永遠の地獄へと断罪されているという。

 これは、伝統を重んじる社会では受け容れがたい考えだった。

 他方、多くの一般民衆にとっては、ムハンマドの「凡俗な日常生活」が許しがたいものだった。つまり彼らは、ムハンマドが「奇蹟」を行わないことを断罪したのだ。

 ムハンマドは奇蹟を見せる。

ある文献によれば、預言者(ムハンマド)は翼の生えた馬に乗って、地獄と天国をつぶさに眺め、そしてアッラの玉座のそば近くまでいたった。しかもこの旅は一瞬のあいだのことで、ムハンマドが旅立ち際にひっくり返してしまった水瓶は、部屋に戻り着いたときにもまだ水をこぼしきっていなかったという。」

「別の伝承では、天使ガブリエル〔ジブリール〕が立てかける梯子が登場する。ムハンマドはこれを、天の門までよじ登って行く。そしてアッラー の御前に進み出て、自分がほかのどの預言者より先に選ばれていたこと、彼、ムハンマドがアッラーの「友」であることを、アッラみずからの口から教えられる。そして神は、彼にコーランとある秘密の知識を授けられるのだが、これは信者にさえ伝えてはならないものとされる。

 クライシュ族との抗争の末、ムハンマドは、メッカからメディナへの遷行(ヒジュラ)を決行する。
 

 そして630年1月、(伝承によれば)1万人の軍勢を率いたムハンマドは、休戦協定を一時中断してメッカの町を無血占領した。

 翌631年、ムハンマドは、多神教徒に対する全面戦争を宣言した。

 その翌632年6月8日に、ムハンマドは愛妻アーイシャの腕のなかで息をひきとった。

 彼の遺体は、アーイシャの住居の一室に葬られた。

 今日ではそこに墓碑が建立され、ムスリムにとってはほとんどカァバ神殿に匹敵する聖地となっている。


(2)コーランの教え

 イスラームの宗教生活には5つの「信仰の柱」がある。

 もっとも重要な「柱」はサラ、すなわち宗規上の礼拝ないし祈りで、毎日5度の、体を地に伏して行う祈りを含む。

 第2はザカ、法で定められた喜捨である。

 第3はサウムで、ラマダーン月のあいだ、夜明けから日没までの断食を意味する。

 第4は〔メッカへの〕巡礼(ハッジ)。

 第5は「信仰告白」(シャハ)、すなわち「神(アッラー)の他に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」との定型句をくり返し唱えることである。


(3)スンニー派とシーア派


 ムハンマドは死に臨んで、自分の後継者を指名した。

 愛妻アイシャの父であるアブー・バクルは、預言者の埋葬直前にカリフに選ばれたにすぎない。

 一方、娘ファティマの夫アリを、ムハンマドはいたく愛していた。

「したがって、ムハンマドがアリを後継者に選んでいたということも、充分に蓋然性があるように思える。しかし、ウンマの統一を守るために、アリーとその支持者たちはアブー・バクルの選出を受け入れた。アブー・バクルはすでに高齢であり、アリーはほどなく自分があとを継ぐであろうことを疑わなかったのである。」

 2年後、634年にアブー・バクルは世を去る。しかし彼は、すでに後継者として、麾下の将軍のひとり、ウマルを指名していた。

 このウマルがカリフを務めた時代(634〜644年)に、ムスリム軍は目も眩むばかりの勢いで勝利を重ねていった。

 ビザンチンは、636年シリアを放棄した。

 637年にはアンティオキアが陥落。同年ササン朝ペルシア帝国が瓦解した。

 エジプト征服は642年

 7世紀の末までにイスラムは、北アフリカ、シリア、パレスティナ、小アジア、メソポタミア、イラクを手中にしていた。

 ビザンチン帝国だけはまだ抵抗を続けていたが、その版図はおおいに縮小されていた。


 しかし、ウマルはあるペルシア人奴隷に暗殺される。

 彼は死ぬ前に、自分の後継者の選定役を6人指名していた。

 この6人は、アリーとその信奉者たち(アト・アリー、すなわちシーア派」を無視して、ムハンマドのもう1人の女婿、ウスマーンを選出した。

 そのウスマーンが殺害されると、メディナの人びとはアリーをカリフとして宣言した。

 しかしムハンマドの妻アーイシャらは、アリーをウスマーン暗殺に関与したとして告発した。

 こうして両派は、ついに衝突した。

 アリーは661年に暗殺され、ムハンマドの義父であったシリアの総督ムアウィヤがカリフとなった。そして、最初のカリフ王朝であるウマイヤ朝を打ちたてたのである(661〜750年)。

 こうして、ムハンマドの死後30年にして、ウンマは3つの分派へと分裂した。

 信徒中の多数派はスンニ、すなわちスンナ(「慣行」、「伝統」)の信奉者の意で、これは時のカリフの指導下にある。

 ア派は、最初の「真の」カリフ、アリーの血筋に忠誠を誓う者たち。

 ーリジー(「離脱派」)は、スンニー派とシーア派のたたかいの折りにシーア派から離脱した者たちの一派で、信徒共同体のみがカリフを選出する権限をもち、またもしカリフが罪を犯せば、その者を廃位する義務を負うと主張する一派である。

 750年、ウマイヤ朝は転覆し、アッバース家がとって代わった。

 その第2代カリフ、マンスールは、シーア派の反乱を血の海の中に鎮圧した。

 スンニー派とシーア派の血で血を洗う争いは、以来今日にいたるまで続いている。


4.十字軍

 第1次十字軍は、イスラームとの戦争おいて、エルサレムを奪還することに成功した。

 ところが、すぐにエルサレムは再び失われ、1145年、フランスとドイツの国王に率いられた第2回十字軍の大軍勢がコンスタンチノープルに到着したが、ほどなく壊滅してしまう。

 第3回十字軍も失敗。

 そして第4回十字軍にいたっては、部隊は聖地へと向かう代わりにコンスタンチノープルを占領し、同胞のキリスト教徒たちを虐殺して、都市の財産を略奪するという挙に出たのである。

 十字軍はこうして失敗に終わったが、この時代には偉大な精神的文化が花開いている。

「それはロマネスク芸術が絶頂を極め、ゴシック芸術が新たに起こりはじめた時代、そして恋愛詩や宗教詩、アー王伝説やトリスタンとイズにまつわる物語が生みだされた時代である。」



 ロマネスク芸術は、人びとを宗教的宇宙に親しませたとエリアーデは言う。

「ロマネスク芸術の天才は、まさにその微に入り細にわたる想像力にこそ、そして聖なる世界、俗なる世界、想像力の世界におけるあらゆるタイプの存在を、同一の舞台の上にまとめあげようとする意志にこそあったと言える。」

「われわれの論述にとって興味深いのは、〔中略〕それが人々の想像力の、さらには象徴的思考の目覚めと発展のためにはたした役割である。この種の寓話的な図像を眺めることで、キリスト教徒はさまざまな宗教的、準宗教的象徴の宇宙に親しむようになっていった。」


5.イスラームの神学

(1)スンニー派

 話をイスラームに戻そう。


 多数派であるスンニー派は、コーランハディース(伝承)シャリーア(聖法)の重視に特徴がある。



「イスラームにおいてシャリーアがもつ領域は、西欧型の法体系のそれよりも大きい。まず、シャリーアは信徒が共同体や国家に対してもつ関係だけではなく、信徒と神、また自分の良心との関係まで規定している、また一方で、シャリーアはそれ自体が、ムハンマドに啓示された神の意思の表現ともされている。」



(2)シーア派

 一方のシーア派は、秘教的である。

「「理念」すなわちハキーカが一般信者に接近可能なものとなるには、イニシエーションの導師が必要である。シーア派では、このイニシエーションの導師、すぐれた意味での霊的者をイマームとよぶ。」

 一部のシーア派は、このイマームをムハンマドに並び称する。

 これは、スンニー派にとっては許しがたいことである。


(3)スーフィズム

 イスラームの秘教主義の象徴が、「スーフィズム」である。

「スーフィーというアラビア語は、「羊毛」を意味するスーフに由来するとされている。これは、スーフィーたちがまとう羊毛の外套を暗示するものである。」

 シーア派は、自分たちの教理がスーフィズムの源泉であると考えている。

 スーフィズムを、正統神学にとって受容可能なものにするのに成功したのは、11世紀の有名な神学者ガザリーである。

 以来、スーフィズムは広く行われるようになった。

 エリアーデによれば、彼らは異文化を取り入れたことで、イスラームが世界中に普遍化していくことに寄与したという。


6.ユダヤ教

(1)ミシュナの編纂

 続いて、132年の、ローマに対するバル・コホバの反乱以降のユダヤ教について。
 
 135年、ユダヤ教徒たちは玉砕する。

 ハドリアヌス帝は、トの学習と宗教儀礼を死罪をもって禁止した。何人ものユダヤ人指導者が、拷問で生命を落とした。

 しかし、次の皇帝アントニヌス・ピウスは、ユダヤ教徒たちにとっての最高権威であり法廷でもある、サンヘドリンの権威を復活させた。むしろ、その権威は増したと言える。

 以来、サンヘドリンの決定はユダヤ人の隅々にまで知れわたるようになった。

 こうして、ミシュナが編纂されることになる。 


儀礼の執行や聖書解釈や律法上の諸問題作品関する無数の口承伝承〔口伝律法〕の範囲を確定し、その内容をあきらかにして統一を与えるため、「プリンス〔首長、ナスィ〕」とよばれたラビ、ユダ(一七五年頃—二〇年頃までサンヘドリンの首長)は、それらの伝承を収集し、唯一の法規範集成にまとめあげる事業を行った。この厖大な集成はミシュナ(「反復」)とよばれ、前一世紀から紀元二世紀にかけて成立した諸資料が集められている。これは農業、祝祭、家族生活、市民法、供犠および食事に関する規定、儀礼的清浄規定の六「部門」に分かれている。」


「ミシュナはラビ・ユダヤ教の統一と強化を目ざすものであった。最終的には、その目的はユダヤ教の存続、すなわち離散したすべての地域においてユダヤの民の統一を保証することにあった。」


 ミシュナとその注釈をあわせたものが、タルムードである。

「ミシュナの欽定編纂は、アモライーム(注解者ないし解釈者時代)と呼ばれる時代を開いた。ミシュナとその注釈(ゲマラ)を併せたものが、タルムード(字義的には「教示」)である。」



(苫野一徳)

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