エリアーデ『世界宗教史』(4)


はじめに

 本巻では、仏陀の入滅からキリスト教の興隆までが描かれる。


1.仏陀入滅後の歴史

(1)マハーカーシャパとアーナンダ

 仏陀は、僧たちの共同体「僧伽」(サンガ)を形成したが、その入滅後、それは次第に分裂していくことになる。

 仏陀の偉大な弟子であったサーリプッタモッガラーナも、すでに亡くなっていた。

 そこで、仏陀があらわした「法」(ダルマ)を編纂する必要が出た。

 500人の阿羅漢(聖者)をまとめてその会合を率先したのは、マハーカーシャパだった。


 一方、仏陀に25年間忠実に仕えた従者ナンダは、阿羅漢ではなかった。瞑想のテクニックを学ぶ機会に恵まれなかったからである。

 それゆえアーナンダは、会合に出ることができなかった。

 マハーカーシャパも、仏陀から高い評価は得ていたものの、人好きのするアーナンダと比べると、性格は厳格で、寛容さに欠けていた。

「仏典結集のための会合がラージャグリハ近くの大きな洞窟で開かれたという点で、すべての言いつたえが一致している。それは、仏陀が入滅した年の雨季に始まり、七カ月間続いた。多くの資料が、マハーカーシャパとアーナンダとのあいだには深刻な緊張関係が存在したと伝えている。」


 このラージャグリハの会合以降の歴史は、ほとんど分かっていない。

「しかし、見解の不一致は解消されるどころかいっそうひどくなり、紀元前四世紀の半ばには、いくつかの「分派」が存在していたのはたしかだと思われる。」


(2)アレキサンダー大王からアショーカ王にいたる時代


 前巻の最後で見たように、アレキサンダー大王の大遠征は、世界宗教史においても比類のない出来事だった。

「このできごとはインドにとって決定的に重要だった。それ以降、ヘレニズム文化の影響が及ぼされるようになったからである。」

 西洋との最初の実質的な出会いによって、インドの文化と政治に多くのものがもたらされた。

 ギリシア風の仏教彫刻であるガンダラ美術は、そのほんの一例だ。

 これは、仏陀を最初に人間として表現したものとなった。

 もう1つ、仏教の歴史にとって重要なのは、若い頃にアレキサンダー大王のことを知った、王子チャンドラグプタ(前320頃—296年)によるマウリア王朝の樹立である。

 彼はインド最初の「帝国」の基礎を築いたが、その孫のアショカ王(在位前274-236、または前268-234)は、それを拡大し強化することになる。

 このアショーカ王の仏教への回心こそが、仏教史における決定的な出来事となる。

「彼自身の告白によれば、アショーカ王はカリンガ国との戦いで勝利をおさめて以来、深刻に悩んでいた。この戦いで、敵は一〇万の戦死者と一五万の捕虜を出したためである。もっとも、アショーカ王はその一三年前に、さらにおぞましい罪を犯していた。父であるビンドゥサーラ王が死の床にあったとき、アショーカ王は兄を殺して権力を奪ったのである。」

 この罪の意識から、アショーカ王は仏教に回心することになる。

「王はいたるところに仏教を伝えようとして、バクトリア〔現在のパキスタン北部からアフガニスタンにいたる地域〕やソグディアナ〔現在のアフガニスタンから中央アジアにいたる地域〕、スリランカにまで使者を送ったのでる。〔中略〕この宣教は重大な結果をもたらし、スリランカは、今日にいたるまで仏教に帰依している。」

 仏教によって統一された帝国、というアショーカ王の夢は、その死とともに崩れさってしまった。彼が没するとすぐに、マウリア帝国は滅亡してしまったのである。

 しかし、アショーカ王の情熱によって、仏教は世界宗教となり、アジアにおいては唯一の普遍的な救済宗教として受容されたのである。


3.教理上の新たな対立と統合

(1)シンクレティズム

 前巻で見たとおり、仏陀は哲学理論を拒絶した。それゆえ、その教えをめぐる解釈はきわめて多様なものとなり、対立が繰り返され、そのため仏教思想は豊饒化されていく。

「弟子たちはつねに根源、すなわち仏陀の教えの根本原理にたち返らなければならなかった。教えを解釈しようというこの努力の結果、思想は非常に豊かになった。」

 仏教の1つの特徴は、他のインドの宗教運動と同じように、そのシンクレティズム(混合主義)にある。

その模範は仏陀自身が示しており、仏陀は多くのインド的遺産――業と輪廻に関する教理、ヨーガのテクニックとブラーフマナ的あるいはサーンキヤ的な分析だけではなく、汎インド的なイメージ、シンボル、神話上のテーマ――をとり入れて、それを独自の観点で解釈しなおしている。」

 仏教が他の宗教から取り入れたイメージやシンボルは、多岐にわたっている。

 たとえば、仏陀の頭の周りで光っている光背は、アケメネス朝時代に原型があり、とくにアフラ・マズダーの輝く光背に由来している。さらにさかのぼれば、この原型には古いメソポタミアの考え方がかかわっている。

 ちなみに、この光背は、1〜5世紀のキリスト教美術のキリストの周囲にもみられる。


(2)大乗仏教

 大乗仏教は、前1世紀の終わりに最初に記録された。

 彼らはそれを「菩薩道」とよんだ。

 この一派は、戒律について非常に寛容なことと、仏陀論が神秘的な構造をもつ点に特徴がある。

「大乗の理想は、涅槃を求める孤独な阿羅漢ではなく菩薩であり、菩薩とは、俗世にあって善行と慈悲の模範となって、他者を救うために、みずからの解脱を無期限に延期するような者である。〔中略〕大乗仏教においては、「他人のために」仏陀になると決心しさえすれば、充分とされることになった。」




①ナーガールジュナと「一切空」の教理

 この大乗仏教を支えた哲学理論が、「一切空」(シューンヤター)の理論である。


「一切空という教理は、「現実」の世界を空であるとすることによってこの世からの解脱を容易にし、自己を滅却することを容易にするのである。」

 ここにおいては、聖者も世俗の者も区別されないことになる。

 この教理を洗練したのは、偉大なるーガールジュナ(竜樹、紀元後2世紀)である。

 「一切空」の教理は、仏教に次のような帰結を生んだ。

「第一に、原始仏教のすべてとアビダルマ(仏教の解釈書―引用者)の論者によるその体系的な再定義とが、虚偽であるということになった。」

「第二の帰結はより根源的である。ナーガールジュナは「捕らわれている者」と「解脱した者」との区別を否定し、その結果、輪廻と涅槃の区別をも否定することになった。」

「最後に、空観の第三の帰結は、思想史のうえでもっとも独創的な存在論の基礎が用意されたことにある。〔中略〕空が存在と非存在を超越しているために、涅槃に達した者はそれを「知る」ことはできないのである。」




②阿弥陀仏と極楽

 大乗仏教のもう1つの特徴である、仏陀論の神秘性については、いわゆる「極楽」の理論が整えられていく。

 ここで重要になるのが、「阿弥陀仏」である。

「阿弥陀仏は、まだ修行者であったとき、正覚者となって「奇蹟の地」を獲得するという誓いをたてていたが、この浄土の住人は阿弥陀仏の徳のおかげで、涅槃に到達するまでのあいだ、無上の幸福を享受することができる。「極楽」(スカーヴァティー)(「幸福」の意)と称されるこの世界は、西のはるか彼方にあるとされている。そこは光に溢れ、宝石と花と鳥に満たされた楽園であるとされている。そこに住むものは不死で、阿弥陀仏から口頭で教えを受けるぜいたくにあずかるのである。」

 極楽の特徴は、信者がたやすくそこに入ることができるというところにある。阿弥陀仏の名号を聴聞し、心に念ずるだけで充分なのだ。

 ただし、この極楽の世界が想像的性格のものであることは、経典のなかで繰り返し強調されたことである。

「「仏国土」は、回心にいたろうとする人間の思想のなかで培われる精神的構成物である。」




4.マハーヴィーラ後のジャイナ教

 続いて、マハーヴィーラ後のジャイナ教について。


 重要人物は、チャンドラグプタ王の時代のバドラバーフである。

 ジャイナ教正典を確立したのは、このバドラバーフである。

 しかし前77年、教団は「白衣派」「裸行派」とに分裂してしまう。

 裸行派は、裸行を行なわない者は解脱を得られないと主張し、したがって女性の解脱は否定された。

 ジャイナ教は、宇宙を人体の形になぞらえる宇宙論を持っている。

 それは、腕を曲げ、腰に手をあてて立っている人間の姿で表現されている(右絵)。

 この巨人は、低次の世界(下肢)、中間の世界(腰)と高次の世界(胸と頭)からできているとされる。

「宇宙を人体の形をしたものと捉えて、その各部分を人体の各器官になぞらえ、そこに違った色をもつものが住んでいるとする考え方は、アルカイックなものである。」


5.ヒンドゥー教の総合:『マハーバーラタ』と『パガヴァッド・ギーター』


 続いて、ヒンドゥー教について。

 ヒンドゥー教の聖典の中で、最も重視されているのが『マハーバーラタ』だ。ヴィヤーサ(右絵)によって書かれたとされている。

   その主要テーマは、クル家の子孫とパーンドゥ王の子孫との争いである。

 第7巻以下では、18日間続いた戦いのさまざまなできごとが念入りに描かれている。

 その背景には、ヴィシュヌ(クリシュナ)とシヴァ神の対立と相補性を認めることができる。

 シヴァ神の「破壊的な」機能は、ヴィシュヌ神(クリシュナ)の「創造的な」役割によってつり合いが保たれているのだ。

 ここには、あらゆる対立物を越えるものという観念がある。

 したがって、『マハーバーラタ』では、前巻でみた、バラモン教におけるヴェーダンタ学派サーンキヤ学派、そしてヨーガ学派の対立も解消される。

 『マハーバーラタ』が説くのは、ただただヴィシュヌ神(クリシュナ)への帰依の優越性である。

 ヴィシュヌ神(クリシュナ)の教えの本質は、「私を信じ、私をまねよ!」という点にある。

 クリシュナは、世界の創造者であると同時に、自分が行なっている創造の傍観者である。

 それゆえ、クリシュナを信じまねるとは、世界に参加することなく世界を創造し、またそれを維持する神をまねるということになる。

 その意味は、『マハーバーラタ』の一部に収められている、『パガヴァッド・ギーター』から深く知ることができる。

「『パガヴァッド・ギーター』は人間のすべての行為を「救済」し、俗的な活動のすべてを「正当化」しようとするものだということができる。というのも、行為の「果実」をもはや享受しないという事実によって、人はその行為を、犠牲、すなわち宇宙の秩序の維持に貢献する超人間的なダイナミズムに変容させるとされるからである。クリシュナは、〔中略〕どのような性質の行為であれすべての行為によって、神の業の完成に協力できることをあきらかにしている。」

 この考え方によれば、だれもが救いを得る望みを抱くことができる。

 ヒンドゥー教がインドで大成功をおさめた最大の理由は、この点にあったのだ。


6.ユダヤ教の試練――黙示からトーラーの称讃へ


(1)終末論の出現

 続いて、ユダヤ教の展開について。

 第2巻では、ユダヤ人たちの「バビロン捕囚」時代についてみたが、前539年、ペルシアのキュロス大王がバビロンを滅ぼしたことで、ユダヤ人たちは解放されることになる。

 ここから現れた救済のヴィジョンは、ユダヤ教における最初の終末論を生む。

 そのシナリオには、次のようなモチーフがみられる。

 諸国の全滅、イスラエルの民の解放、捕囚の民のエルサレムへの帰還、国土の天国への変容、そして、メシアによる統治の確立などである。

「終末論的な預言によれば、新たなる世界は、ヤハウェまたは神によって指名された王が、神の名において統治するものとされる。一般に、「油注がれた者」(メシア)とよばれるこの王は、ダヴィデの末裔であるとされている。」


 その後、ユダヤ民族は、ペルシアの宗主権のもとで平和な2世紀を過ごすことになる。


(2)律法(トーラー)

 律法(トーラー)が整えられていくのは、この時期のことである。

「その目的は、ヤハウェによって約束された地を新たに獲得することに備えて、イスラエルの民の純粋性を保つことにある。」


 平和な時代にあって、ユダヤの人びとは、内面の回心によって結ばれるよりも、律法をもとにしてまとまるほかなくなったのだ。

 その宗教改革の中心になったのは、ネヘミヤエズラといった人たちだった。

 また、この時期には、「普遍主義者」「民族主義者」の間の緊張が高まっている。

「普遍主義者は、いつの日か「諸国民」がヤハウェを唯一の神と崇めるときがくるという、終末論の預言者たちの希望をもち続けていた。これに対して、「民族主義者」は啓示の排他性を主張して、イスラエルの民族的統一を守る努力に専念する。」


 (3)ヘレニズムの影響

 ペルシアがアレクサンダー大王に滅ぼされ、ヘレニズム文化が広まっていくと、前に見た仏教と同じく、ユダヤ教もまた、その絶大な影響を受けることになった。

「ギリシアの言語、文化、諸機関(学校やギムナシアなど)がいたるところに浸透し、ディアスポラのあいだにかぎらず、アレキサンダー大王の死後(前323年)、セレウコス朝やエジプトに統治されることになったパレスティナにも浸透した。」


 ギリシア哲学の影響は、中でも非常に大きなものだった。その影響のもと、ユダヤ教には「知恵の人格化」という観念が広まりはじめる。

「知恵の人格化は、この時期の宗教的創造物のなかでももっとも独創的なものの一つである。〔中略〕知恵を説く学者のなかには、知恵を啓示の仲保者として、至高の権威の地位にまで高めたものもあった。」

 しかしこの「知恵の人格化」は、一歩間違えば、ユダヤ教における唯一神の教えに反するものでもあった。

 そこで、この「知恵の人格化」に対する反動が起こることになる。

 たとえば「伝道の書」においては、神の行為が説明できないことが強調されている。

 あるいは、「集会の書」としても知られている「ベン・シラの知恵」においては、「知恵」は重視されているものの、これは神がイスラエルだけに与えた賜物であるとして、ギリシア哲学が拒絶されている。

 先述した「普遍主義」の否定である。

「ベン・シラはこの「普遍主義的」な解釈を拒否して、知恵を信心や祭儀と同一視する。律法は、「モーゼがわれわれに命じた律法……にほかならない」。言いかえれば、知恵は、神がイスラエルだけに与えた賜物なのである。」(85



(4)強力な民族主義へ

 普遍主義と民族主義の争いは、民族主義の勝利に終わる。

 アレクサンダー大王の死後、プトレマイオス朝、続いてセレウコス朝の支配下に入ったユダヤ民族だったが、前176年、このセレウコス朝に対して反乱が起こる。

 指導者の名をとって、マカバイ(マカベア)戦争と呼ばれている。

 これは、ユダヤ人による独立戦争であると同時に、あるいはそれ以上に、「普遍主義」と「民族主義」との内乱の性格を強くもつものだった。

 この戦争で、ユダヤ人王朝が築かれることになる。「普遍主義」を排した、過酷な「民族主義」王朝が登場したのだ。

「ユダヤ人は、もはや異教徒が無垢であるとは考えなくなり、それ以来、ユダヤ人とヘレニズム文化のあいだは深い溝で隔てられてしまったのである。」

 しかしこのことが、ユダヤ教が世界宗教へと展開できなかった大きな理由になったとエリアーデは言う。

「たしかに、律法は民族のアイデンティティを守ることに決定的な役割をはたしたが、世界への布教という意識は、強力な民族主義的傾向のもとでは自由に展開することができなかった。」



7.イランにおける新たな総合

(1)ズルワーン教神学

 イランの宗教もまた、ヘレニズム文化からの絶大な影響を受けた。

 前330年、アケメネス朝ペルシアは、アレクサンダー大王によって滅ぼされる。

 その後、前247年にアルサケス王朝が建てられるが、ヘレニズム時代の特徴であるシンクレティズム(混合主義)の影響はおさまらなかった。

 その最大の特徴は、二元論的なズルワーン教神学にみることができる。

 第2巻でもみたように、ゾロアスター教の最高神はアフラ・マズダーである。

 ズルワーン(「運命」や「栄光」を意味する)は、このアフラ・マズダー(オフルマズド)の父として登場する。

 ズルワーンは、息子をひとり得るために、1000年間犠牲を捧げ続けた。

 しかしその犠牲の効果を疑ったために、彼は2人の息子をはらむことになってしまう。

「「捧げられた犠牲の効力によって」オフルマズドを、そして、「上に述べられた懐疑の効力によって」アフリマンを得たのである。」

 ズルワーンは、まずはアフリマンが9000年間王位に就くことを認め、その後オフルマズドが治めることとした。

 オフルマズドとアフリマンは、生き物を創造しはじめた。

「オフルマズドが創造したものはすべて善で公正であり、アフリマンが創造したものは邪悪でひねくれていた。」

 いくつかの文献では、アフリマンはやがて永久に不能にされると述べられている。また別の文献によれば、アフリマンは、世界に入ってきたときにとおった穴に押しもどされて、そこで完全に滅ぼされる。


(2)ミトラ信仰とそのキリスト教への影響

 イランにおけるミトラ(ミスラ)密議も、きわめて重要なものだ。

 これはインドのミトラ(第2巻参照)と同じ起源をもつものだが、イランにおいては、これが王の崇拝と結びついていく。

 エリアーデは言う。

「新しい王は、再び受肉し、新生したミトラであった。このイラン的なテーマは、ベツレヘムの光に満ちた洞窟でのキリスト降誕というキリスト教の伝説のなかに、再び見いだすことができる。」


 このミトラ密議は、その後ローマ帝国全土に広まることになる。

 エリアーデは、エルネスト・ルナンの次の有名な一節を引用している。

「もしキリスト教が、なんらかの致命的な病によってその成長を止められていたならば、世界はミトラ信仰のものになっていたであろう。」

 それほどに、ミトラ信仰は当時強力なものだった。そして先に引用したように、このミトラ信仰の、王におけるミトラの「受肉」の観念が、キリスト教に融合されていくことになるのだ。

 しかし、ミトラ信仰が世界に広まることはなかった。その最大の理由として、エリアーデはミトラ信仰が女性の入会を禁止したことを挙げている。

「救済祭儀への女性の参加がそれまでにないほど増えた時代に、ミトラ信仰が女性の入会を禁止したことによって、世界全体がミトラ信仰に回心することはありえないとは言わないまでも、非常にむずかしいものになったのである。」

 ミトラ信仰は、ローマの支持を受けていた。しかしその後、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に回心したことで、ミトラの秘密の祭儀は禁止されることになる。

 ミトラ信仰は迫害されて、歴史的存在としては消滅した。しかし先述したように、イランのさまざまな宗教観念は、キリスト教とのちのイスラームへと受け継がれていくのだ。


8.キリスト教の誕生

(1)イエスのイニシエーションと教え

 本書の最後は、キリスト教の誕生と興隆について。

 イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたあと、荒野へと赴く。

「形態論的には、それは仏陀が受けた試練に類似した、一連のイニシエーション的試練である。」

 何度も述べてきたように、「イニシエーション的試練」はあらゆる宗教に見られるものである。

 イエスは、40日40夜、断食をし、その間サタンが彼を試みた。

 サタンはまず、イエスに石をパンにする奇蹟を行なうように命じた。

 また、サタンはイエスをエルサレムの宮の頂上に立たせて、「神の子なら飛び降りたらどうだ」と言った。

 最後にサタンは、「世のすべての国々とその繁栄」を得ることのできる絶大な力を与えると申し出た。

「言いかえるなら、サタンは、イエスが彼の足もとにひれ伏すなら、ローマ帝国をうち破る力を与えるという申し出をしたのである。」


 これらをすべて退けたイエスは、ガリラヤへと赴き、人びとに教えを説いて回る。

 その教えの本質は、次のようである。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

「このメッセージは、一世紀以上にわたってユダヤ人の宗教をほぼ例外なく支配してきた、終末論的希望を表現している。〔中略〕これこそがイエスの教えの精髄なのである。」


(2)イエスの死と復活

 イエスが十字架にかけられたのは、冒瀆の罪と擾乱の罪のためであるとされている。

 大祭司に、「お前はほむべき方の子、キリスト(つまり救世主)なのか」と問いただされて、イエスは「わたしがそれである」と答えたのである。

 また、イエスは擾乱のかどで告発され、自分がユダヤ人の王であると述べたことから、ユダヤの総督ポンテオ・ピラトによって十字架の刑を宣告されたのだ。


 逮捕に際しては、その後のキリスト教の精神を決定づける、2つの有名なエピソードが残されている。

 1つは、イエスが弟子のペテロに、「お前は鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと言うであろう」と言ったこと。

 ペテロはその時、「そんなはずがありません」と言うが、実際イエスが逮捕されたあと、彼はイエスを知らないと言ってしまうのだった。

「この辛いできごとの意味は明白である。救いについての天の配剤においては、人間的な美徳は人間的な罪と同様に、考慮されない。たいせつなのは悔い改めること、そして希望を捨てないことである。ペテロの前例がなかったならば、キリスト教史の大方の部分を正当化することは困難である。ペテロの否認と悔い改めは、ある意味ですべてのキリスト教徒の範型になったのである。」

 もう1つのエピソードは、イエスがペテロと他の2人の弟子をゲッセマネに連れて行き、「ここにいて、わたしと共に目をさましていなさい」と言った時のもの。

 しかし、イエスが祈りを捧げて戻ってくると、弟子たちは眠っていた。

 「めざめていること」は、ギルガメシュの冒険(第1巻参照)で見た通り、最も困難なイニシエーションの象徴である。

「というのは、これは俗なる状態の変容、つまりは「不死性」の獲得だからである。ゲッセマネでの「イニシエーションのための徹夜」――数時間にかぎられたものではあったが――が、人間の力を超えるものであったことがわかる。この敗北も、大多数のキリスト教徒の範型となっていく。」

 イエスの十字架での死には、アルカイックな宗教的モチーフが見られる。

「新しいイスラエルの樹立という「新しい契約〔新約〕」をたしかにとりつけるためには、自発的意志によるイエスの自己犠牲が必要であったということである。これは、新しい宗教的生は、犠牲的な死を経なげれば生まれないと信じられたことを示唆している。この観念はアルカイックなものとしてよく知られたもので、世界中に流布している。」


 これまで見てきたように、あらゆる宗教において、新しい世界創造には「犠牲的死」が伴うという観念が見られるのだ。


(3)キリスト教の迫害

 イエスの復活は、キリスト教の根本的な要素である。

 これ以降、信者は増え、教会が設立されることになる。

 しかしキリスト教は、ローマにおいて壮絶な迫害を受けることになる。

 その最大の理由は、ローマの人びとの、そもそもにおける「皇帝崇拝」への嫌悪にあったとエリアーデは述べる。

「皇帝崇拝を行なうことを拒否したことが、二世紀以降のキリスト教徒迫害のおもな理由であった。ネロによって命じられた大虐殺をのぞけば、反キリスト教的な措置は、最初はおもに世論の敵意によって助長された。」

 もちろん、そこには皇帝たちの思わくもあった。

「ディオクレティアヌスはまさに帝国いう観念を強化するために、この外来の反国家的な宗教を撲減しようと決意した。彼はローマの旧来の宗教的伝統を蘇生させ、とりわけ神に匹敵するものとしての皇帝というイメージを高めたいと考えたのである。」



(4)グノーシス主義

 キリスト教の危機は、この迫害だけでなく、「異端」の存在にもあった。

 中でも勢力をもったのが、グノーシス主義、つまり、キリスト教における一種の秘教主義である。

 秘教主義は、すべての大宗教に記録されているものだ。キリスト教の場合、それは洗礼、聖餐、十字架といったシンボルにまるわる教えや大天使に関する教え、黙示の解釈に関する教えであった。」


 まず、グノーシス派にとっては、真の神は創造神ではない。つまり、ヤハウェではないのである。創造は、より次元の低い、悪魔的な力のなせる業であるとされる。

「世界は偶発的なできごとや災難の結果生じたものであり、無知に支配され、邪悪な力によって統治されていると考えたため、グノーシス派はみずからの文化から完全に疎外されていると感じ、規範と制度のすべてを拒絶する。彼らは霊知(グノーシス―引用者)によって獲得された内面的な自由の力によって思うままにふるまい、望みどおりに行為することができるのである。グノーシス派は、霊によって決定された選択の結果、エリート層を形成する。」

 グノーシス派の最も重要な師は、ウァレンティヌスである。

 ウァレンティヌスによると、父、すなわち絶対的で超越的な第一原理は不可視であり、理解できないものである。

 父は、仲間である思考(エンノイア)と結合し、ともにプレーローマ(充満)を構成することになる15対のアイオーン(生ける神的原理)を生む。

 最後のアイオーンである知(ソフィア)は、父を知りたいという欲望のために目を曇らされ、その結果、悪と情欲があらわれた。

 ソフィアはプレーローマから突き落とされて、劣った知恵(サジエス)を生んだ。

 最後に、プレマはイエスともよばれる救世主を生む。

 イエスは、低次の領域に下って、造物主、すなわち「創世記」の神を造る。

 造物主は物質世界を創造したが、霊的な要素は、より高次の知から生まれて、造物主に知られずにその息のなかに入りこみ、「霊的存在」の階級を生む

 物質に捕われたこれらの霊的な分子を救うために、キリストはこの世に降下し、厳密な意味では受肉することなく解放をもたらす知識を示す。

 こうして、霊的な存在だけが、霊知(グノーシス)によって覚醒し、父のもとに昇っていく。

 以上が、ウァレンティヌスが述べるところの、グノーシス派の神話である。

 ここに見られるように、グノーシス派によれば、この世界における霊的な存在は、物質に捕われた状態にいる。

 これは「眠り」の比喩でしばしば表現されている。

 彼らを眠りから解き放つのは、キリストである。

これはアルカイックで、ひろく流布していた象徴である。眠りに対して勝利し、めざめ続けているということは、きわめて典型的なイニシエーションの試練を構成する。


(5)マニ教

 マニ教もまた、グノーシス派の1つである。

 教祖マニは、216年、バビロニアで生まれた。

 彼は、ユダヤ的キリスト教の中で育てられ、教育された。

「それゆえ、マニ教的な総合において、キリスト教的な要素が重要であることを過小評価すべきではない。しかし、マニの宗教的献身は、キリスト教の神学、終末論、儀礼とは対立する形で示されたのだった。」

 240年ごろ、彼はインドへと赴く。

「インド精神の体現者たちとの接触は、マニとインドの双方に影響をおよぼした。」

 しかしその後、ペルシア王バフラーム1世によって、マニは投獄されることになる。

「マニと王との会見は騒然としたものとなった。マニが自分の使命が聖なるものであると告げたとき、バフラームは即座に、「この啓示はなぜ、この地の主であるわれわれ王家の人間に示されずに汝に示されたのか」とたずねた。マニはただ、「それが神の意志なのである」としか答えられなかった。彼は有罪とみなされて鎖につながれ、投獄された。」


 マニは277年に、60歳で死んだ。

 彼の身体は切り裂かれ、首は町の城門に曝され、残りは犬の餌にされた。

 マニの死後すぐに、バフラームはマニ教を弾圧した。しかし、マニ教は数世紀にわたって発展し続け、西はイベリア半島、東は中国にいたるまで伝播した。

 マニは、すべての人間に到達可能な、普遍的な宗教を建てることを目ざしていた。

 彼は、既成の宗教の価値を認めてはいたが、それらを不完全であると考えていた。そして、すべての経典と知恵の精髄を、自分の教会のなかに統合したと主張した。

 繰り返し述べてきたように、シンクレティズムはこの時代の特徴である。

 マニは、インドから霊魂の転生の考え方を借用した。イランからは、光と闇の二元論と、終末論的神話を取り入れている。

「マニの場合には、それは駆け引きを行なううえで必要なことでもあった。彼は、自分の教会が帝国のすみずみまでひろがることを望んでいたので、その東端と西端の両方でよく知られていた宗教言語を用いなければならなかったのである。



 マニ教の創造神話は、次のようなものである。

 はじまりにおいては、光と闇という2つの実体が、境界線によって隔てられる形で共存していた。

 北は偉大な父によって支配され、南は闇の王子に支配されていた。

 この父は、キリスト教の神やイランのズルワーンと同一視しうるものである。また闇の王子は、キリスト教の悪魔やイランのアフリマンと同一視しうるものである。

 光の父は、自分自身のうちから生命の母をよびだした。

 彼女は原初的人間をよびだした。

 原初的人間は闇に挑戦したが、征服された。

 第2の創造において、父は生きた霊魂をよびだした。

 生きた霊魂は闇の世界に降り、原初的人間の手をとって、彼を「光の天国」である天界の故郷にひき上げた。

 生きた霊魂は、悪魔的なアルコーたちを圧倒し、その皮膚から天国を、骨から山を、肉と排出物から大地を作った。

 最後に、父は「第三の使者」をよびだした。

 第三の使者は、まだ悪魔に捕われていた光の分子を救うために、全裸の乙女の姿をとって、男性の悪魔の前に現われた。

 一方、女性の悪魔には、この使者の姿はハンサムな全裸の青年に見えた。

 欲情にかきたてられて、男性の悪魔たちは精子を放ち、それとともに、呑みこんでいた光を放つ。

 精子は地に落ちて、あらゆる植物が生じた。

 女性の悪魔のほうは、ハンサムな若者を見て奇形児を生んだ。

 男女二人の悪魔は、すべての奇形児をむさぼり食い、それから交わった。

 このようにして、アダムイヴが生まれたのである。

 以上がマニ教の宇宙創造神話だが、ここに見られるほどに悲劇的な人間創成物語は、ほかの宗教には見られない。

世界は悪魔的な実体、すなわちアルコーンたちの身体から創造された(宇宙創成の行為は、神聖なる存在によって遂行されたのではあるが)。そして人間は、もっとも醜悪な姿をとった悪魔的な力が作りだしたものである。これ以上に悲劇的で屈辱的な、人類創成神話が存在するとは考えられない


「真の宗教」は、悪魔的な力によって建てられた牢獄から逃げることと、世界と生命と人間の決定的な絶滅に貢献することにある。



(6)神学の開花

 さまざまな異端を経験しながら、キリスト教はその神学を開花させていく。

 4世紀のはじめに、アリウスは、より一貫した、より哲学的な三位一体説の解釈を提唱した。

 彼は三位一体を否定はしなかった。しかし、神は唯一のものであり、創造されなかったものであるのに対して、神の子と聖霊は、父によって創造されたものであり、したがって神に劣るものであると考えた。

 このアリウスの説は、325年のニケーア公会議で否定されることになる。

 しかしアリウス神学は、なお強力な擁護者を得て、論争はその後半世紀以上続いた。

 アリウス派を論駁し、父と子の同質性の教義を練りあげたのはアタナシウス(373年没)である。

 この教義は、聖アウグスティヌスによって、「ひとつの実体、三つのペルソナ」という言葉に要約されることになる。





(苫野一徳)

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