トゥキュディデス『戦史』



はじめに

 ヘロドトス『歴史』にならぶ、古代ギリシアの名高い歴史書。

 ヘロドトスが主に描き出したのは、紀元前5世紀のペルシア戦争。対してトゥキュディデスが記録したのは、この戦争のあとに起こった、ギリシア全土を巻き込んだ大戦争、ペロポネソス戦争だ。

 ペルシア戦争では、一致団結してペルシアに挑み、その侵略を阻んだギリシア勢。

 しかしその後、アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間に、戦いの火蓋が切って落とされることになる。

 トゥキュディデスは、自身も参加したこの戦争を、透徹した観察眼をもって描き出す。

 その「実証的」「客観的」な叙述は、ヘロドトスよりも一枚上手だ。

 もっとも、別の観点から見れば、ヘロドトスのほうがより自由に創造的な叙述を繰り広げたとも言え、その展開の「おもしろさ」においては、ヘロドトスに軍配が上がるとも言える。

 時の政治家たちの名演説の記録でも名高い、古代ギリシア最高の名著の1つだ。


1.トゥキュディデスの「実証的態度」

 本書のはじめのほうで、トゥキュディデスは次のように言う。

われわれの論旨をもってすれば、古事を歌った詩人らの修飾と誇張にみた言葉にたいした信憑性をみとめることはできない。また伝承作者のように、あまりに古きにさかのぼるために論証もできない事件や、おうおうにして信ずべきよすがもない、たんなる神話的主題をつづった、真実探究というよりも聴衆の興味本位の作文に甘んじることも許されない。しかしそのいずれをも排し、もっとも明白な事実のみを手掛りとして、おぼろな古事とはいえ充分史実に近い輪郭を究明した結果は、当然みとめられてよい。

 断固たる「実証的態度」の表明だ。

 このあたり、興味深い記述がいくつもあるので、引用しておきたい。

「おうおうにして人間は、自分がその渦中にあっていま戦いつつある戦争こそ前代未聞の大事件であると誤信する。そして戦争が終わり、直接の印象が遠のくと、古い事績にたいする驚嘆をふたたびあらたにするものである。しかし印象ではなく結果的な事実のみを考察する人々には、今次大戦の規模がまさに史上に前例のない大きいものであったことがおのずと判明するだろう。

 ペロポネソス戦争には、トゥキュディデス自身将軍として加わった。しかし彼は、そのことで、自分の観察眼に曇りがあってはならないと自戒する。

 それがどれだけ壮絶な戦いであったとしても、その規模や経緯については、客観的に判断される必要がある。そうトゥキュディデスは言うのだ。

 しかしそれでもなお、トゥキュディデスは、このペロポネソス戦争が史上最大の戦いであったことを強調する。

 たとえば、トゥキュディデスの時代より1000年ほども前のトロイア戦争は、これを描いたホメロスの天才は疑いようもないけれど、ほとんど神話のレベルの話で、それがどれだけ大規模だったと言われようとも、ペロポネソス戦争とは比較にならなかったとトゥキュディデスは言う。

 その理由は、当時の物資不足にあった。

「その原因は人口不足ではなく、物資欠乏が主たるものであった。なぜならば、糧食輸送の道がないため、現地で戦闘をつづけながら食糧補給ができる程度の、比較的少数の軍勢を率いていったからである。そして到着ののち戦いに勝って陣地を確保してからも〔中略〕、その後も全兵力を戦闘にあてることはなく、糧食の道をひらくために、ケルソネソス地方の耕作や掠奪行為に兵力をもちいていたようである。兵力が分散されていたので、トロイア側の反軍はますます容易になり、その折々に戦闘にまわされたギリシア勢と同程度の兵力によって十年間の長きにわたって、対抗できたのである。」

 トゥキュディデスはまた、本書で当時の政治家たちの演説を記録したことについても、次のように言っている。

「戦闘状態にすでにある人やまさにその状態に陥ろうとする人が、おのおのの立場をふまえておこなった発言について、筆者自身がその場で聞いた演説でさえ、その一字一句を正確に思い出すことは不可能であったし、またよそでなされた演説の内容を私に伝えた人々にも正確な記憶を期待することはできなかった。したがって政見の記録は、事実表明された政見の全体としての主旨を、できうるかぎり忠実に、筆者の目でたどりながら、おのおのの発言者がその場で直摘した事態について、もっとも適切と判断して述べたにちがいない、と思われる論旨をもってこれをつづった。」

 どこまでも事実に忠実であろうとする、トゥキュディデスの姿勢がうかがえる。

 そして言う。
 
「この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべくつづられた。


2.開戦

 開戦の理由について、トゥキュディデスは、強大化したアテナイに対して、スパルタ(ラケダイモン)が脅威を感じたことにあったと述べる。

「この大戦は、アテナイ人とペロポネソス人が、エウボイア島攻略ののち両者のあいだに発効した和約を破棄したとき、はじまった。〔中略〕あえて筆者の考えを述べると、アテナイ人の勢力が拡大し、ラケダイモン人に恐怖をあたえたので、やむなくラケダイモン人は開戦にふみきったのである。」

 開戦の直接的なきっかけは、前431年のプラタイア事件だった。

 アテナイの同盟国プラタイア市が、スパルタの同盟国テバイ勢の夜襲をうけたのだ

 この作戦自体は挫折した。しかしその結果、ペロポネソス同盟対アテナイの均衡関係は、ついに打ち破られることになる。


3.ペリクレスの演説

 ここで、戦没者の追悼式における、アテナイの将軍ペリクレスの演説が描かれる。

 開戦を前に、ペリクレスはアテナイの市民たちに言う。

われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範に習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。」

 続いて、軍事力についても次のように言う。


「戦いの訓練に目を移せば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。まず、われらはなんびとにたいしても都を開放し、けっして異国の人々を逐い払ったことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれらはもっていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦いの仕掛けや虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである。
 子弟の教育においても、彼我のへだたりは大きい。かれらは幼くして厳格な訓諌をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。


4.アテナイの疫病

 ところがその翌年(前430年)、アテナイに恐ろしい疫病が発生する。

 トゥキュディデスはこれを次のように描写する。


この疫病の全貌はとうてい筆舌につくしがたく、ことにこれに襲われた個人の難渋は人間として耐えうる限界を越えるほどであった。

この疫病から生じうるもっとも恐るべき現象は、罹病したとわかった人がたちまち絶望につき洛とされたことであり(人はすぐに絶望し、体力よりも気力の衰弱のためやすやすと諦めて、もはや抵抗しようとさえしなくなったまた、患者から看病人へと病が燃え移り、家畜の倒れるように人々が死んでいったことである。」

 この疫病は、人びとの倫理観を大きく覆した。

 どうせ死ぬと分かっているなら、今のうちに享楽の限りを尽そうじゃないか。

 人びとはそう考えるようになったのだ。


5.ペリクレスの死

 途方にくれた人びとは、指導者ペリクレスに非難を浴びせ始めた。

 これを受けて、ペリクレスはふたたびアテナイ市民たちに演説をする。

なぜこの私に、諸君は憤懣をよせているのか。なすべき判断を下しその実効を説く力において、だれも私の上に立つ者はあるまい。国を愛し、金銭の誘惑に負けぬことでもなんびとにも引けを取らぬ。〔中略〕もし諸君がこの理に立って、他のものより私が多少なりとすぐれた資格をもっと判断し、私の開戦論を支持したのであれば、今となって私に不正、越権のそしりを浴びせることはまちがいだ。私もだまってこれに甘んじることはできぬ。

諸君は支配者の座から降りることはもうできないと覚悟せねばならぬ。今になってその因果を恐れて、静かな善人に態度を改めたところでもう遅い。なぜなら、諸君は同盟独裁者の地位についてはや久しい、この位を手に入れたことがよし正義に反するとも、これを手放すことは身の破滅に等しいからだ。

 こののち、ペリクレスは死去する。本書には書かれていないが、自身が疫病にかかったためと言われている。

 ペリクレスの偉大さについて、トゥキュディデスは次のように述べている。

その名は民主主義と呼ばれたにせよ、実質は秀逸無二の一市民による支配がおこなわれていた。これに比べて、かれ以後のものたちは、能力においてたがいにほとんど優劣の差がなかったので、みなおのれこそ第一人者たらんとして民衆に媚び、政策の指導権を民衆の恣意にゆだねることとなった。


6.レスボス派兵

 そんな折り、レスボス島の各都市が、アテナイにたいして謀反をくわだてているという噂が伝わる。

 疫病に苦しむアテナイ市民たちは、しかし力を振り絞ってこれを鎮圧しにかかる。

 謀反は鎮圧されたが、怒りのおさまらないアテナイ人たちは、民会において、反乱を起こしたミュティレネ市民たちを皆殺しにするという決議を発する。

 しかし翌日になって、それはあまりに過酷ではないかという意見が出始める。

 これに対して、死刑賛成論者のクレオンが次のような演説をする。


「はやいくたびとなく事あるたびに私は、民主主義は他人を支配することができないと断じてきたが、今回ミュティレネ人処分に関する諸君の再考三考ほど、民主主義の無能ぶりを露呈しているものはない。」

「われらを脅かす最大の危険は、何事であれ諸君がいったん決議した態度をぐらつかせることだ。」

「諸君はいったん決議した刑量を絶対に変えるべきではない。憐憫、詭弁、寛容こそは、支配闘の利益をはばむ三敵と心得て、これらに惑わされ処置を誤ることが絶対にあってはならない。」


 しかしこれに、ディオトドスが次のように反論する。

「この議論の問題はミュティレネ人は有罪か否か、ではなくして、われらの政策が適切か否かを決めることだ。〔中略〕つまり処刑がわれらの得だということが明白にならぬかぎり、死罪を科すべきではない。」

 論戦の結果、民会はディオトドス案を採用し、全員死刑は避けられることになった。


7.プラタイアの降伏

 しかし今度は、アテナイの同盟都市が敗れる番だった。

 ボイオティアの小都市、プラタイアが、スパルタ(ラケダイモン)に占領されたのだ。

「(スパルタの裁判官たちは、)プラタイア人を一人ずつ尋問に呼びいれては、今次戦争が勃発していらいラケゲイモンとその同盟諸国にたいしてなんらかの恩恵をほどこしたことがありや否や、というただそれだけの問いに答えさせようとした。

 これに対して、プラタイア人たちは言う。


さかのぼって平和の期間、さらにペルシア戦争においては、われらはつねに勇者の誉れを全うした。

またとりわけ、ラケダイモの諸君、君たち自身の国で大地震ののち国有奴隷がイトメに叛旗をひるがえし、スパルタがかつてなき存亡の危機に襲われたとき、われらは市民三分の一をさき、救援の兵をさしむけたではないか。」

 かつてギリシアは、一体となってペルシアと戦った。そうプラタイア人は言う。

 しかしひるがえって、今回の戦いで、スパルタとともに自分たちを攻めてきたテーバイ人は、それとは真逆の者たちだ。彼らは当時、ペルシアに与していたのだ。プラタイア人は、そう言ってテーバイ人を責め立てる。

「テーバイ人がわれらになしたる侵略の数々は多岐にわたり、なかんずく、事を今日にいたらしめた最近の事変については、諸君もすでによく承知であろう。かれらは平和時においてわれらの町を奪わんと、こともあろうに月はじめの祭りの日をえらんで攻撃してきた。」

 これに対して、テーバイ人たちは次のように反論する。

「ペルシアになびいたわれらと、アッティカ(アテナイ)になびくかれらとのあいだには、本質的なちがいがあるのだ。というのは、当時われらの国は、平等の法に立つ寡頭支配でもなく、また民主政治の政体を有するものでもなかった。」

 かつてテーバイは僭主に支配されており、それゆえ自分たちは、その僭主の意志によってペルシアになびくほかなかった。そうテーバイ人たちは主張したのだ。

 しかし今はちがう。今やアテナイは全ギリシアの敵である。それゆえ彼らについたお前たちプラタイア人は、罰せられなければならないのだ。

「諸君は、恩人を裏切るのは恥辱だとかいっている。だが、ただアテナイ人を裏切るのが恥ならば、諸君がかつて契りをかわした全部のギリシア人を捨て裏切ることは、さらに唾棄すべき恥、さらに重い背徳ではないのか。あまつさえかれらはギリシアを隷属させるものであり、われらは自由を与えんとするものだ。

 このテーバイ人たちの弁が聞き入れられ、スパルタはプラタイア人たちを殲滅した。


「ふたたび、プラタイア人を一人ずつ法廷に呼び入れ、さきと同じく、開戦いらいラケグイモンとその同盟諸国にたいしてなんらかの恩恵を与えたか否か、という問いをくりかえし、否と答えるたびに外へ引きだして処刑し、ただ一人の例外をも許さなかった。」

 トゥキュディデスは、スパルタがテーバイ人たちの意見を受け入れた背景には、これから続くであろうアテナイとの大戦のために、テーバイ人たちの助力が不可欠であったという事情があったと述べている。



8.ピュロス・スパクテリアの戦い

 しかしその後、ふたたび戦況はアテナイに有利に動く。

 前425年夏、ピュロス・スパクテリアの戦いにおいて、アテナイ軍が勝利したのだ。

 この戦いで、スパルタ人たちはきわめて惨めな敗北を喫した。これについて、トゥキュディデスは次のように言っている。

戦時のいかたる事件もこの事件くらい根本的に、ギリシア人の通念をくつがえしたものはほかになかった。なぜなら、ラケダイモン人は飢餓はおろか、いかなる苦痛に直面しても武器をすてないもの、力のつづくかぎり戦って武器をいだいて死んでいくもの、と一般に信じられていたからである。」

 そこで、アテナイの同盟都市の1人は、投降してきた兵士に意地悪く次のように言ったという。

「戦死したものたちは、中でも選良といわれるものであったのか」と。

 捕虜は答えた、「それなら矢の軸こそ万金に値しよう」。

 つまり、射られた矢が、最も勇敢な兵士だけを見きわめて飛んできたはずがない、戦死した者たちも投降した者たちも、皆同じスパルタの兵士だ。そう捕虜は言ったのだ。


9.シケリア大遠征

 しかし戦争は、結局アテナイの大敗北に終わることになる。

 それを決定づけたのは、アテナイによるシケリア大遠征だった。

 アテナイの若き才人アルキビアデスが、この大遠征を主唱した。

 これに対して、富豪ニキアスは反対を唱える。

 しかし結局、アルキビアデスの案が採用され、この2人に加えて軍人ラマコスが全権将軍に選ばれた。

 不幸の1つは、この人事にあった。と言うのも、アルキビアデスとニキアスは、長らくの政敵同士であったからだ。

 凄惨な戦いは、シケリア島の都市シュラクサイにて行われた。

 当時最強の海軍を誇ったアテナイは、しかしその海戦において、大敗を喫することになる。

(シュラクサイ側は)とくに船の舳先を短く締めて以前よりも強度を大にし、さらに舳先にはがんじょうな錨をつるす支柱を付加し、そしてこれを舷側から支える六ペキュスばかりの支柱を、船体の内部から外部へとさしわたすなどの工夫を加えた。」

 シュラクサイは、アテナイの船に突撃し、これを打ち壊す作戦に出たのだ。

 その結果、「シュラクサイ勢はアテナイ船七艘を墜沈、多数の軍船に破損を与え、沈没船の乗組員のほとんどを捕虜にし、残りを殺害してから、撤退した。」

 続く地上戦でも、アテナイ軍は大敗を喫した。

アテナイ側に致命的な打撃となった最大のものは、戦闘歌の唱和であった。敵見方ともまぎらわしくよく似た歌であったため、聞くものを戸惑わせたのである。というのはアルゴス勢やケルキュラ勢などの、アテナイ側に加わっていたドーリス系の諸部隊が戦闘歌を和唱するたびに、アテナイ人は敵かと恐れ、敵が和唱すればまたこれも敵かと恐怖に陥ったからである。

 将軍デモステネスは、時ここにいたっては撤退するほかないと提案する。

 しかしこれにニキアスが反対する。

 彼は、アテナイに帰国した時、自分たちが責められ辱めを受けることを恐れたのだ。

 ニキアスは言う。

「少なくとも自分は、かくのごときアテナイ人の性情を知悉している人間として、えらぶべき道を知っている。汚辱にまみれた弾劾をうげ、なんの言い分もみとめられずにアテナイの裁きで公に葬りさられるよりも、やむをえざればこの身をひとり死地に投じようとも敵の手で倒されるほうを潔しとする。

 こうして決戦が行われることになったが、その惨状は筆舌に尽しがたいものだったとトゥキュディデスは言う。

戦死者の遺体は土をかけられることもたく横たわり、人はおのれの縁者友人が倒れ伏しているのを見るたびに、恐れと痛恨の交錯した気持に突きおとされた。」

 この戦いにおけるアテナイの大敗北について、トゥキュディデスは次のように言っている。

このたびの逆転こそは、ギリシアの軍勢が喫した敗北としてはまさに空前の規模というべく、他国に隷属の軛をうたんとして攻め寄せたものらが、形勢逆転おのれの身を奴隷にされる恐れにかられて退却する仕儀となり、祈祷や出陣歌もにぎにぎしく遠征の途についたものが、帰りはまさしくその逆の凶兆のもとに出発、来るときは船乗りであったのに帰りは兵隊、海軍に望みを絶って重装兵にすがる、という事態にいたったのである。


10.アテナイ、民主制を廃し「400人」支配へ

 その後、アテナイの同盟都市は、次々にアテナイに叛旗を翻した。

 ペロポネソス同盟側は、この反乱都市を支援した。

 その際、あろうことか、かつての大敵ペルシアからの資金援助も受けた。

 ペルシアは、ギリシアの内乱に乗じて、漁父の利を得ようと考えていたのだ。

 前412年から翌年にかけて、アテナイでは、少数者政権の樹立をねらう一派によって「400人支配」体制が成立する。

 この400人支配は、100日間続いたのち崩壊し、続いてテラメネスらの主導する新政治体制が導入された。

 こうしてアテナイの内乱はおさまったが、その過去の栄華は、すでに見る影もなくなっていた。

 ペロポネソス戦争は、ギリシア全土の内乱に端を発し、そしてまた、アテナイ内部の内乱によって幕を閉じたのだ。

 ペロポネソス戦争は前395年まで続くが、本書はこの前411年の記述で未完に終わっている。



(苫野一徳)

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