ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』(1)


はじめに

 イタリア・ルネサンスの文化を網羅的に描き出した、ブルクハルトの代表作の1つ。

 14〜16世紀におけるイタリア人たちの生活が、多方面から生き生きと描かれている。


 本書は、ルネサンスがなぜイタリアに起こり、どのような経過をたどり、そして終焉を迎えたのか、その要因を解明するような類いの歴史書ではない。

 当時の人びとの生活や文化が、さまざまな観点から淡々と語られているだけだ。

 その意味では、のちの、たとえば「全体史」を志したブローデルや、「近代世界システム」の全容を明らかにしようとしたウォーラーステインといった歴史家の著書に比べれば、“ダイナミックさ”にはやや欠けるかもしれない(ブローデル『地中海』ウォーラーステイン『近代世界システム』のページ等参照)。

 しかし本書の魅力は、そうしたダイナミックさとはまた別のところにある。

 微に入り細を穿って描き出される、当時の人びとの生活様式。そのありありと目に浮かぶような叙述に、読者は思わず引きこまれる。

 そしてまた、当時のイタリアの人びと(の精神)に対するブルクハルトの深い敬愛の念が、私たちのルネサンスへの興味をさらにかき立ててくれる。

 じっくり味わいながら読みたい名著だと思う。


0.前史

 13世紀、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世は、イタリア統一を志し、徹底した中央集権化をはかった。

 しかしそれは、教皇庁との争いや、北イタリアの都市国家の抵抗などよって妨げられる。

 他のヨーロッパ諸国とは違って、イタリアは統一されることがなかったのだ。

「歴代の教皇とホーエンシュタウフェン家との戦いは、ついにイタリアを、他の西欧諸国とはもっとも重要な諸点において異なるような、一つの政治状態の中に取り残した。フランス、スペイン、イギリスにおいては、封建制度は、その寿命が切れたのち、必然的に君主制の統一国の中に倒れるような性質のものであり、ドイツにおいては、それはすくなくとも帝国の統一を外面的に保持する助けになったが、イタリアはその制度からほとんど完全にぬけだしていた。」

 この時代、フリードリヒ二世と並んで、おそろしい簒奪者が現れている。

 フリードリヒの女婿、エッツェリーノだ。

「エッツェリノにいたってはじめて、王位の創設が大量殺戮と無際限の凶行によって、すなわち目的だけを考えて手段を選ばずにこころみられる。後代の何びとも、その犯罪の規模の大きさにおいて、エッツェリノにはどう見ても及ばなかった。あのチェザレ・ボルジャすらも。

フリドリヒとエッツェリーノはイタリアにとって、いぜんとして、十三世紀最大の政治的事象であった。

 フリードリヒとエッツェリーノの失脚と同時に、主として教皇党皇帝党との党派争いの中から、個々の専制君主が数多く浮かびあがってくる。

 こうして14世紀、大が小を併呑していく、専制君主の時代が始まるのだ。


1.芸術作品としての国家

(1)15世紀の専制君主たち

 その最も典型的な例が、ミラノヴィスコンティ家だ。特に、強大な権力を有したジャンガレアッツォは、さまざまな凶行を通して王国をまとめた。

 15世紀、ジャンガレアッツォの死後王国はバラバラとなり、やがてミラノ公の称号は、その傭兵隊長だったフランチェスコ・スフォルツァが、いくつかの裏切りの末受け継ぐことになる。

 しかしスフォルツァの名声は、当時きわめて高いものだった。

「敵でも、フランチェスコ・スフォルツァの姿を見ると、だれからも共通に「軍人精神の父」と考えられている人なので、武器を置き冠り物を取って、うやうやしくあいさつすることがあった。

 やがて、スフォルツァの四男ロドヴィーコ・イル・モーが、ミラノの権力を簒奪する。

 ブルクハルトはこの男について次のようにいっている。

の人は自分の政治的手腕にたいするイタリア人の半神話的尊敬を、当然の貢ぎとして受けとった。一四九六年になってもまだ、教皇アレクサンデルを自分のお抱え牧師、皇帝マックスを自分の傭兵隊長、ヴェネツィアを自分の会計係、フランスの王を自分が思うままに行き来させている飛脚だと、自慢していた。

 所変わって、15世紀当時のナポリを支配していたのは、大アルフォンソとその後継者フェランテだ。

 このフェランテは、当時の君侯たちの中でも最も恐ろしい人間だったとブルクハルトはいう。

フェランテは、狩猟には目がなかったが、そのほか二種の楽しみに身をゆだねた。自分の敵を、よく手入れのしてある牢獄に生かしておくか、死体に香油をぬり、それに生前着ていた着物を着せるかして、手もとにおくのである。腹心の者と、そうした捕われ人のことを話す時には、くすくす笑った。

 しかしこうした専制君主たちは、つねに命の危険にもさらされていた。荘厳なミサの時などに、暗殺者たちは彼らを襲い、そして殺した。

支配者たち自身が、その国家理念ならびに態度において、明確に古代ロマ帝国を手本にして範を示した。そこで同じくかれらの敵も、理論的な思慮をもって仕事にかかるとなると、古代の僭主殺害者に従った。


(2)ヴェネツィア

 共和国ヴェネツィアは、ブルクハルトによれば近代的統計発祥の地だ。

 他の中世封建国家が、固定的な生産物をただ管理していただけであったのに対し、ヴェネツィアの使命は、もっとも利益の多い産業を集めて、つねに新たな販路をきりひらくこと」にあった。

 しかしこの商売根性が、かえって文学的才能を生み出さない理由となったとブルクハルトはいう。

ヴェネツィアは、このような計算とその実際的な応用によって、近代をもっとも早く完全に明示したが、そのかわり、当時イタリアにていたような文化の点では、いくらか立ちおくれていた。ここでは一般的に、文学的傾向が、とくに古代の古典時代を尊重するあの熱中が欠けている。


(3)フィレンツェ

 それに比べてフィレンツェは、まさにルネサンスを代表する精神の国だったとブルクハルトはいう。

「あの驚くべきフィレンツェ精神、するどい理性と同時に芸術的創造力をもった精神は、政治的および社会的状態をたえず変形し、そして同じく、たえずそれを記述し調整する。」


(4)教皇権

 このような生き馬の目を抜くようなイタリア社会においては、教皇もまた、専制君主たちの生き方を取り入れざるを得なかった。

 この課題に挑んだのが、恐るべき教皇シクストゥス四世だった。

 彼は聖職売買を通して、大量に金をかき集めた。

 その後を継いだインノケンティウス八世とその息子は、さらに「世俗的な恩恵の一種の銀行を創設した。そこは高い料金を払いこめば、殺人もゆるしてもらえるところである。〔中略〕とくにこの教皇の最後のころは、ローマは後楯のある殺人者、あるいはない殺人者でうようよしていた。」

 きわめつけは、アレクサンデル六世とその息子、チェーザレ・ボルジアである。

 アレクサンデルも権勢をほしいままにしたが、チェーザレはそれに輪をかけて凶悪だった。

「兄弟でも義兄弟でも、その他の親類でも廷臣でも、教皇の寵愛を受けるとか、その他の地位のため、自分にとって不都合になると、さっそくこれを殺してしまった。」

 もしも彼が長生きしたならば、この人こそが教会の世俗化をなしとげていただろうとブルクハルトは述べている。

「もしだれかが教会国家を世俗化するとすれば、この人こそそれをしたであろうし、またそこで支配をつづけるためには、それをせざるをえなかったであろう。もしわれわれの思いちがいでないならば、これこそ、マキアヴェリがこの大悪人を、ひそかな共感をもってあつかっている本質的な理由である。「刃を傷口から引き抜くこと」、すなわちあらゆる干渉とあらゆるイタリアの分裂の根源を絶滅することを、マキアヴェリが期待しうる者は、チェーザレのほかにはだれもいなかった。」

 その後ユリウス二世が聖職売買を禁止するが、つづくレオ十世(ジョヴァンニ・メディチ)になって、教皇権にはふたたび危機が訪れる。

 自分の身内の者たちに、レオはイタリア各地を分け与えようと企んだのだ。

 結局その身内の死によって、幸運にもそれは果たされなかった。

 ローマ劫掠(1527年)が起こったのは、クレメンス七世の時代である。

 当時、ヴァロワ家のフランスと神聖ローマ帝国との間で、イタリアを巡る戦争(イタリア戦争)が行われていた。

 クレメンスはフランスについた。そしてそのことが、神聖ローマ皇帝カール五世の軍による、ローマ侵略のきっかけになったのだ。

 クレメンス七世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。

 同じカトリック国による、カトリック教会の頂点に位置するローマの劫掠!

 もっとも、神聖ローマ帝国軍には、カトリックを憎むプロテスタントの兵士たちが大勢いた。

 それゆえブルクハルトはいう。

「宗教改革だけが、かのローマへの出征〔一五二七年〕を可能にし、かつ成功させもしたが、これはまた教皇権をして、いやおうなしに、ふたたび精神的世界権力の表現たらしめた。」

 つまり、宗教改革がもたらしたローマ劫掠こそが、かえって教皇に現実を知らしめ、反宗教改革のうねりを起こしていくきっかけになったのだ。

 それゆえブルクハルトは次のようにいう。

「もし宗教改革がなかったならば――その仮定がおよそ許されるものとして――、全教会国家はとうの昔に、世俗の手中に移っていたことであろう。

 それほどに、教会国家の腐敗は進んでいたのだ。


2.個人の発展

(1)万能の天才

 中世において、人間は自分のことを、国家や種族、家族などの、何らかの団体に所属するものと見ていた。

「イタリアではじめて、このヴェールが風の中に吹き払われる。」


十三世紀の末になると、イタリアには個性的人物がうようよしはじめる。個人主義の上に置かれていた呪縛が、ここでは完全に断ち切られた。

十四世紀のイタリアは、〔中世〕人目にたつこと、他人と違っていること、そして違って見えることを、恐れる人間は一人もいない。

 15世紀のはじめに登場したレオン・バッティスタ・アルベルティは、その典型的な人物の一人だ。

 アルベルティは数々の伝説を残している。

 たとえば、両足をしばったままで人の肩を跳び越えたとか、大聖堂で貨幣を、はるか高い円天井にあたって響くのが聞こえるほど高くほうりあげたとか、どんな荒馬でもこの人が乗るとおののきふるえたとか。

「音楽は先生なしに学んだ。それでいてその作曲は、専門の人々から感嘆された。」

「それに、芸術そのものに関する文筆上の活動が加わる。」

 さらに、物理学と数学にも長け、あらゆる職人の腕を自分のものとした。アルベルティは、レオナルド・ダ・ヴィンチに先駆ける、万能の天才だったのだ。


(2)嘲笑と機知

 個人が大いに発展した時代は、嘲笑と機知にあふれた時代でもあった。各国には、人をバカにする文筆家や道化師たちがたくさん現れる。

 中でも名高いのは、近代最大の毒舌家、アレティーノである。ブルクハルトは、この男をジャーナリズムの元祖の一人と呼んでいる。

 彼は、神聖ローマ皇帝カール五世とフランスのフランソワ一世が、同時に年金を与えるほどの男だった。

 どちらも相手の悪口を書いてほしかったのだ。

 その嘲笑のやり口は、たとえば次のようなものだった。


劫略されたロマの悲嘆の叫びが、教皇クレメンス七世が捕えられていた聖アンジェロ城まで聞こえてきた時、アレティーノが教皇に、嘆きをやめて敵をゆるせと勧告するやり口は、まったく悪魔か猿の嘲笑である。

一五四五年十一月にミケランジェロにあてた書簡のごときは、おそらくこの世に二度と存在しないものである。〔『最後の審判』について〕いろいろ感嘆の辞を述べるそのあいだに、ミケランジェロを不信仰、猥褻、窃盗〔ユリウス二世の遺産について〕をもって恐喝する。」


3.古代の復活

 ルネサンスといえば、いうまでもなく古典古代の復興運動である。

 その最初の功労者として、ブルクハルトはダンテペトラルカボッカッチョをあげる。

 こうして人文主義が花開くことになるが、15世紀には、メディチ家のコージモロレンツォなど、これを促進する有力者たちが現れる。

 ナポリ王、アラゴン家の大アルフォンソもそうだ。また、このアルフォンソよりも比較にならないほど学識があったのは、ウルビーノのフェデリーゴである。

 これら諸侯やまた教皇は、次の2つの目的のために、人文主義者たちを重宝した。

「書簡の作成と、公開の儀式ばった演説のためである。」
 
 当時、人文主義者たちはキケロなどの書簡を徹底的に研究した。

ペトラルカ以来、まず書簡文学がほとんどもっぱらキケロを手本として形成され、物語類をのぞいた他のジャンルも、これに従った。

 ところがこれら人文主義者たちは、16世紀になると没落していくことになる。

 なぜか。

そもそもその非難を言い出したのは、人文主義者自身である。かつて一つの階級を形づくった人々の中で、かれらほど団結心の少なかった者はない。それがせっかくもりあがろうとしても、かれらほどそれを尊重しなかった者はない。そしてかれらは、たがいにぬきんでようとするとなると、手段を選ばなかった。電光石火、かれらは学問上の根拠を捨てて、人身攻撃や極端な誹謗中傷に飛び移る。かれらは敵を反駁するのではなくて、あらゆる点で抹殺しようとするのである。

 出世を競う人文主義者たちは、お互いを蹴落とし合ったのだ。






(苫野一徳)

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