ヘロドトス『歴史』


はじめに

 神話から歴史へ。そしてまた、単なるエピソード記述から、年代構成的な歴史叙述へ。


 ヘロドトスが「歴史の父」と呼ばれるゆえんだが、しかしそれ以前に、本書を読んで衝撃を受けるのは、その圧倒的なおもしろさだ。

 2500年も前の本とは思えないほど、ヘロドトスの筆は生き生きとしていて、当時の情景が目に浮かぶようだ。

 本書で描き出されているのは、紀元前5世紀のペルシア戦争を中心とした、そしてそこにいたるまでの、ペルシアやオリエント世界各地の歴史や風俗などについて。

 このページで断片的に紹介しただけでは、本書の魅力は残念ながら十分伝わらないだろう。

 できればぜひ原著を手にとって、本書の「おもしろさ」を味わっていただければと思う。


1.ギュゲスの物語

 まずは教科書的なおさらいから。

 前7世紀にオリエントを統一したアッシリア帝国は、しかしその強力な専制支配のゆえに多くの反乱を招き、前612年に崩壊、帝国領には、エジプトリディア新バビロニアメディアの4王国が分立することになる。

 これを再び統一するのが、アケメネス朝ペルシアだ。

 本書は、このペルシアに支配される前の、リディアの物語から始まる。

 リディアは、最初ヘラクレス家の掌中にあった。ところがその主権は、次の事件をきっかけに、メルムナス家へと移ることになる。

 有名な、「 ギュゲスの物語」である。

 ヘラクレス家の、カンダウレスという王がいた。彼は自分の妻の美しさがたいそうな自慢で、ある時部下のギュゲスに、その裸を見せてやろうと言い出した。

 ギュゲスは大声をあげていうに、
「殿さま、私にとっては主君にあらせられるお妃さまの素肌を見よとは、なんと分別のないお言葉でございましょう。」

 しかし王は、ギュゲスの言葉を聞き入れず次のように言う。

「妃がおまえに見られても、絶対に気づかぬように、わしが手配しておこう。おまえをわしらの寝室に入れ、開け立てた扉の後ろに潜ませてやろう。わしが入った後から、妃も寝室に来る。入口のそばに椅子があるが、妃は身につけたものを一つ一つ脱いで、その上に置く。それでおまえは十分にゆっくりと眺めることができるわけだ。妃が椅子を離れて寝台にむかって歩み、おまえに背をむけたならば、そのとき妃の目にとまらぬように気をつけて、扉の外に出るのだぞ」   

 こうして王妃の裸を見たギュゲスだったが、そのことが王妃にバレてしまう。

 王妃は、ギュゲスにではなく、むしろこのようなことをたくらんだ王を憎悪する。そしてギュゲスに言う。

「ギュゲスよ、そなたには今、進むべき道が二つあるが、そのいずれを採るかの選択は、そなたにまかせましょう。すなわちカンダウレスを殺して、私とリュディアの王国をわがものとするか、さもなくばそなたは、この場でただちに死なねばならぬ」   

 ギュゲスは、 意を決してカンダウレス王を殺し、王妃を自分のものにした。

 こうして、王権はギュゲスのメルムナス家へと移ったのである。

 ちなみに、このギュゲスの物語については、プラトン『国家』でまたちがった形で紹介さていてこれがまたとてもおもしろい。ご興味のある方にはご一読いただけると幸いだ(プラトン『国家』のページ参照)。


2.クロイソスとソロン

 このギュゲスの後裔が、リディアの最盛期を築いたクロイソスだ。

 本書でヘロドトスは、このクロイソスのもとを訪問した、アテナイの賢人ソロンの話を紹介している。

 ソロンに会ったクロイソスは、「世界で一番のしあわせ者はだれか」と彼に訊ねる。

 クロイソスの意に反して、ソロンは決して王の名前を言おうとはしない。

 ソロンは言う。

「腐るほど金があっても不幸な者もたくさんおれば、富はなくとも良き運に恵まれる者もまたたくさんおります。〔中略〕人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差し控えねばなりません。」

 これを聞いたクロイソスは、ソロンはバカ者かと思って彼を立ち去らせた。


3.クロイソスとキュロス

 その後、リディアはペルシアのキュロス王によって滅ぼされることになる。

 捕虜になったクロイソスは、火あぶりの刑に処せられることになる。

「薪の上に立ったクロイソスは、これほどの悲運に面しながら、このときふとソロンのいった「人間は生きているかぎり、なんびとも幸福であるとはいえない」という言葉が、いかに霊感にみちた言葉であるかということに思い至ったという。そう思いつくと、今まで一言もいわず沈黙を守っていたクロイソスが深い溜め息をもらし、悲しみの声をあげ、三度までソロンの名を呼んだ。」    

 これを聞いて、ペルシア王キュロスの気持ちが変わった。

「キュロスは通訳からクロイソスの語った話を聞くと気持が変わり、自分も同じ人間でありながら、かつては自分に劣らず富み栄えたもう一人の人間を、生きながら火あぶりにしていることを思い、さらにはその応報を恐れ、人の世の無常をつくづくと感じたので、燃えている火をできるだけ早く消し、クロイソスと彼の道連れの子供たちを降ろすように命じたという。 」   


4.ペルシアの風俗

 ともあれこうして、ペルシアはアジアを征服した。以下ヘロドトスは、ペルシアの風俗について述べていく。

 興味深いところを、いくつか引用しておこう。

 まずはペルシア人の酒好きについて。

「ペルシア人の酒好きは大変なものであるが、 ペルシアでは人前で吐いたり、放尿したりすることは許されない。右のことは厳重に守られているが、ペルシア人には、きわめて重要な事柄を、酒を飲みながら相談する習慣がある。 その相談でみなが賛成したことを、相談会の会場になった家の主人が、翌日しらふでいる一同に提議し、しらふの時にも賛成ということになれば採用し、そうでなければ廃案にする。 またしらふで予備相談をしたことは、酒の席で改めて決定するのである。」    

 次に、「武勇」と「子だくさん」こそが美徳であるということについて。

「またペルシアでは、戦場において勇敢であることに次いでは、多くの子供を持つことが男子の美徳とされる。最大の子福者には毎年国王から贈物を賜る。ペルシア人は数の大はすなわち力の大であると考えているからである。子供には五歳から二十歳までの間、ただ三つのことだけを教える。乗馬、弓術及び正直がこれである。子供は五歳になるまでは父親には合わず、女たちのもとで生活する。このようにするのは、子供が養育中に死亡した場合、父親を悲しませないためである。」    


5.バビロンの風俗

 ヘロドトスは、ペルシアに征服される前の、バビロンの独特な風俗についても述べている。いくつか引用しておこう。

 まずは、結婚が娘の売買であったということについて。

「嫁入りの年頃になった娘を全部集めて一ヵ所へ連れてゆき、そのまわりを男たちが多勢とり囲む。呼出し人が娘を一人ずつ立たせて売りに出すのである。まず中で一番器量のよい娘からはじめるが、この娘がよい値で売れると、次に二番目に器量のよい娘を呼びあげる。ただし娘たちは結婚のために売られるのである。嫁をもらう適齢期になったバビロンの青年たちの中でも裕福な者は、たがいに値をせりあげて一番器量よしの娘を買おうとする。しかし庶民階級の適齢者は、器量のよいことなどは求めず、金をもらってむしろ醜い娘を手に入れるのが例であった。」    

 さらに、この国には、娘たちは見知らぬ男と交わらなければならないというルールがあったという。

「バビロン人の風習の中で最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女はだれでも一生に一度はアフロディテの社内に坐って、見知らぬ男と交わらねばならぬことになっている。〔中略〕女はいったんここに坐った以上は、だれか見知らぬ男が金を女の膝に投げてきて、社の外でその男と交わらぬかぎり、家に帰らないのである。〔中略〕男と交われば女は女神に対する奉仕を果たしたことになり家へ帰れるが、それからはどれほど大金を積んでも、その女を自由にすることはできない。
 容姿に恵まれた女はすぐに帰ることができるが、器量の悪い女は長い間務めを果たせずに待ちつづけなければならない。三年も四年も居残る女も幾人かいるのである。」


6.エジプトの風俗

 続いて、エジプトの風俗について。

 ここに、「エジプトはナイルの賜物」という有名な言葉が登場する(もっとも、これはヘロドトスの先輩であるヘカタイオスが、その『エジプト史』に使用した句であるという)。

 ヘロドトスによれば、エジプト人は、吐剤と灌腸を使って、定期的に体内を綺麗にしていたという。

 また、医術は高度に専門分化されており、眼の医者、頭の医者、歯の医者、腹部の医者、患部不明病気の医者、等々がある。」

 ミイラ作りについても詳細に書かれているが、中にはこんな話も紹介されている。

名士の夫人が死亡したときは、すぐにはミイラ調製には出さない。特に美観の女性や著名な婦人の場合も同様である。死後三日目または四日目にようやくミイラ職人の手に渡すのである。このようなことをするのは、ミイラ職人がこれらの女性を犯すのを防ぐためで、現にある職人が死亡したばかりの女性の遺体を犯している現場を、同業者の密告によっておさえられたという話がある。」    

 ピラミッドで有名なクフ王(ケオプス)とその子カフラ(ケプレン)については、こんな記述がある。

「エジプト人はこの百六年という年数を数えて、この期間エジプトの国民は言語に絶した苦難に沈み、神殿もこのような長期にわたって閉鎖されて開かれなかったといっているのである。エジプト人は憎しみの念からこれらの王の名を口にしたがらない。」 


7.ペルシア王カンビュセス

 さて、ペルシアでは、キュロス大王の後をカンビュセスが継いだ。

 精神病の傾向があったカンビュセスは、スメルディスが自分の王位をうかがっていると邪推して、彼を暗殺させる。

 ところがこれが、カンビュセスの命取りとなる。

 カンビュセスがエジプト遠征に行っている間に、マゴス僧の兄弟が謀反を起こす。

 このマゴス僧の弟の方は、カンビュセスの弟スメルディスにそっくりだったのだが、そのスメルディスが暗殺されたことを、当時はまだほとんどだれも知らなかった。

 そこでマゴス僧の弟は、スメルディスになりすまし、ペルシアの国を乗っ取ろうと企てたのだ。

 謀反を知ったカンビュセスは、エジプトからペルシアに引き返そうとする。

「ところが馬にとび乗った瞬間、刀の鞘の尖の被せがはずれ落ち、抜身になった万が彼の太股に突き刺った。以前自分がエジプトの神アピスに切りつけたと同じ箇所に手傷を負い、知命の傷と観念したカンビュセスは、この町の名はなんというのかと訊ねた。問われた者たちはアグバタナであると答えたが、実はこれよりさきカンビュセスは、アグバタナで生涯を閉じるというブトの町からの神託を授かった。」

「やがて骨が腐りだし、腿には急速に壊疽が進んで、キュロスの子カンビュセスはついにこのわずらいのため在位通算七年五ヵ月でこの世を去った。男女いずれの子供もなかった。」


8.ダレイオス大王登場

 カンビュセスの仇を討ったのは、ダレイオスら7人の同志たちだった。

 ダレイオスらがマゴス僧を仕留めると、それを見ていた人びとも、当然自分たちも同じ行為をしてよいはずと、短剣を抜いて見つけ次第マゴス僧を殺戮して廻った。かりにもし夜の訪れが、その殺戮を止めなかったならば、彼らは一人のマゴスさえ殺し残すことはなかったであろう。」

 以来、このマゴス僧殺害の日には、「マゴス殺しの怒り(マゴポニア)」という祭りが開かれるようになったという。

 ダレイオスは、カンビュセス亡き後も、ペルシアにおいては独裁制こそが最もよい統治方法であると説き、自らがその王となる。


9.インドの風俗

 ヘロドトスは、遠いインドの風俗についても記述している。

 しかしその多くは、かなりあやしい。

 たとえば彼は次のように言っている。

「インド人たちはみな、男女の交わりを畜生同様に公然と行ない、皮膚の色もみな同じく、エチオピア人によく似ている。彼らが女子の体内に射出する精液の色は、他の人種のごとく白色ではなく、肌の色と同様黒色である。エチオピア人もこれと同様な精液を出す。」

 さすがにあり得ない話だ。


10.スキュタイ人の風俗

 スキュタイ人については、次のようなことが語られる。

「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王のもとへ持参する。」

 また、敵の頭蓋骨を杯にするなどの話も述べられている。


11.ペルシア戦争勃発〜マラトンの戦い〜
 
 さて、いよいよ本書のクライマックス、ペルシア戦争だ。

 前499年から449年にわたって、ペルシアとギリシアとの間に戦われた戦争だ。

 発端は、イオニア地方の、ペルシア帝国への反乱だった。

 ここにアテナイが加勢する。

 アテナイが加勢するにいたった経緯について、ヘロドトスは興味深いことを書いている。

 イオニアのミレトスの僭主アリスタゴラスは、当初スパルタに援軍を求めた。
 
 ところがペルシアまでのあまりに遠い距離を聞き、スパルタのクレオメネス王は援軍派遣を断った。

 そこでアリスタゴラスは、次にアテナイへ行く。

「民会に出席したアリスタゴラスは、スパルタで述べたと同じように、アジアの資源の豊富なことや、ペルシア軍は盾や槍を用いぬから制圧するのは易々たるものであるという対ペルシア戦術などを説いたのである。アリスタゴラスは右のことに加えてさらに、ミレトスはアテナイの植民地であること、したがって強大な国力を持つアテナイが自分たちを保護するのは当然であることを説き、必要に迫られた切実な彼の立場から、どのようなことにも応ずると約束もし、とうとうアテナイ人を説得することに成功した。」

 このことについて、ヘロドトスは次のように言っている。

「アリスタゴラスがラケダイモンのクレオメネス一人をだますことができなかったのに、三万のアテナイ人を相手にしてそれに成功したことを思えば、一人を欺くよりも多数の人間をだますほうが容易であるとみえる。」

 こうして、ペルシア戦争が始まった。

 そして前490年、有名なマラトンの戦いにおいて、アテナイとプラタイアの連合軍は、ダレイオス率いるペルシア軍を打ち破る。ヘロドトスは言う。

「ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て迎え勝つ態勢を整えていたが、数も少なくそれに騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるアテナイ兵を眺めて、狂気の沙汰じゃ、まったく自殺的な狂気の沙汰じゃとののしった。」

「実際われわれの知るかぎり、駆け足で敵に攻撃を試みたのはアテナイ人をもって嚆矢とし、またペルシア風の服装やその服装をつけた人間を見てたじろがなかったのもアテナイ人が最初であった。これまでギリシア人にとっては、ペルシア人という名を聞くだけでも恐怖の種となっていたのである。」


12.テルモピュライの戦い

 マラトンの戦いの雪辱を、ペルシアのダレイオス大王は果たせないまま死んだ。

 後を継いだ息子のクセルクセスは、当初ギリシア征服にあまり乗り気ではなかった。

 ところがそんなクセルクセス王の夢枕に、ある時男が立ってこう言った。


ダレイオスのお子よ、〔中略〕もしただちに遠征を行なわぬならば、その結果はかならずこうなる。すなわちそなたが威勢の地位に上ったのも早かったが、こんどはたちまちに顚落の憂き目にあうであろうぞ

 これに怯えたクセルクセスは、ギリシア遠征を決意する。ヘロドトスによれば、それは「有史以来桁はずれに大規模なもの」だった。

「アジアに住む民族で、クセルクセスがギリシア遠征に従えなかった民族が一つでもあったであろうか。

 この数十万の大軍勢に最初に立ち向かったのが、映画『300(スリーハンドレッド)』でも有名になった、わずか300人のスパルタの兵士たちだった。

 世に名高い、「テルモピュライの戦い」だ。

 もっとも、当初はこの300人のスパルタの兵士に、他のポリスの兵も加わり、総勢は5000人くらいだった。

 スパルタ王レオニダスに率いられ、彼らは圧倒的な数の差のあるペルシア軍を、峡谷テルモピュライにて迎え撃つ手はずを整えた。

クセルクセスは四日間の猶予を置き、その間たえず今にもギリシア部隊が逃走するものと期待していた。しかし五日になってもいっこうに撤退せず――彼の目には厚顔不敵とも無謀浅慮の行為とも映ったのであったが――この地に踏み留まることが明らかになったとき、クセルクセスは怒ってメディア人およびキッシア人部隊をその攻撃にむけ、ギリシア部隊を生け捕りにして自分の前に連れて来いと命じた。メディア軍はギリシア部隊に襲いかかるや、多数の戦死者を出したが、次から次へと新手を繰り出し、甚大な損害をこうむりつつも後へ退こうとはしなかった。しかしその戦いぶりからはだれの目にも――わけてもペルシア王その人の目には、その人民の数は多くとも、真の兵士の数の乏しいことが明白であった。」

 スパルタ兵の強さを、ヘロドトスは次のように書いている。

「ラケダイモ人(スパルタ人)の奮戦はめざましく後世に伝えるに足るものがあった。戦術を究めつくした者と戦う術をわきまえぬ者との戦いであることを、まざまざと示した戦いぶりであったが、なかでも特筆すベき戦法は、敵に背をむけると一見敗走するかのごとく集団となって後退するのである。ペルシア軍は敵の逃げるのを見ると喊声を挙げすさまじい音響を立てつつ追い迫る。スパルタ軍は敵の追いつくころを見はからい、むき直って敵に立ちむかうのである。この後退戦術によって彼らは無数のペルシア兵を倒したのであった。

「この攻撃の最中、観戦していたペルシア王は、自軍を気づかうあまり坐っていた椅子から三たびもとび上がったと伝えられる。    

 こうして優位に立っていたギリシア軍だったが、ここで不幸な裏切りが起こることになる。

 ペルシア王からの莫大な褒美をあてにしたエピアルテスという男が、テルモピュライに通じる山道の存在をペルシアに教えたのだ。

 背後や側面から攻撃されては、この数の差はもはやどうしようもない。

 全滅を覚悟したレオニダスは、しかし自分たちスパルタ兵だけは残って戦うことを決意する。

「レオニダスは同盟軍に戦意なく、あくまで自分たちと危険をともにする意志のないのを見てとると彼らには撤退を命じたが、自分が引きあげることは不面目と考えたのであろう。彼がこの地に踏み留まれば、その栄誉は万世に伝わるであろうし、スパルタの繁栄も抹殺を免れるあろうと考えたに相違ない。」

 こうして、レオニダスらスパルタの兵士たちは壮絶な死を遂げた。

 ちなみに、このスパルタ兵の 中に、重い眼病をわずらったエウリュトスとアリストデモスの2人がいたが、このうちエウリュトスは、それでもなお戦いをともにし、他方のアリストデモスはスパルタへ帰ることにした。

 スパルタに帰ったアリストデモスは、「腰抜けアリストデモス」と呼ばれて村八分をくらうことになる。しかしその後の戦争では、勇ましく戦い死んでいき、汚名は挽回されることになったという。


13.サラミスの海戦

 決戦はサラミスの海戦だった。

 これにギリシア側は勝利し、そしてまた、これがペルシア戦争の決定的な勝利となった。

この激戦でダレイオスの子でクセルクセスの弟に当たる司令官アリアビグネスをはじめ、ペルシア、メディアおよびその他の同盟諸同の名ある人士が多数戦死した。ギリシア側にも若干の死者があったがその数は少数であった。ギリシア人は泳ぎの心得があったので、船は破壊されても敵と刃を交えて戦死せぬかぎり、サラミス島へ泳ぎ着いたのである。しかしペルシア兵の多くは泳ぎのできぬために海中で落命した。


(苫野一徳)

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