シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』


はじめに

理論経済学の本質と主要内容 (上) 名著『経済発展の理論』で知られるシュンペーター(『経済発展の理論』のページ参照)。

 「イノベーション」「企業者精神」といった、それまでの経済学ではあまり注目されてこなかった現象に着目し、資本主義経済の発展をダイナミックに分析したユニークな経済学者だ。

 本書『資本主義・社会主義・民主主義』(1942年)は、シュンペーター晩年の著作。

 その内容をひと言でいうと、今後資本主義は崩壊し、社会主義へと移行していく、というものだ。

 ただし、シュンペーター自身は決して社会主義者ではなかった。むしろ、資本主義の爆発的な生産力や、そこにおける企業者精神を、高く評価していた人だった。

 しかしそれでもなお、彼は、資本主義の崩壊と社会主義の到来を予測せずにはいられなかった。

 なぜか?

 資本主義の崩壊は、まさにその輝かしい成功のゆえにやってくる!

 シュンペーターはそう主張する。

 マルクスは、資本主義はその失敗のゆえに社会主義へと転換すると考えた。しかしシュンペーターは、本書でマルクスを高く評価しつつも、その理論のほとんどが誤りであると主張する。

 本書刊行から70年以上が経った今、わたしたちは、崩壊したのはむしろ社会主義のほうだったことを知っている。シュンペーターの予測は、大きくはずれたことになる。

 あと出しジャンケンのようで気が引けるが、実際、本書を読んでも、なぜ資本主義が崩壊し、それに代わるものが社会主義であるべきなのか、わたしにはいまいち納得できない。

 つねに「科学」的であることを心がけていたはずのシュンペーターだが、本書は、「科学」的な根拠に乏しい、かなりの憶測に基づいた記述になってしまっているように思われる。

 ただ、本書から学ぶべきものは、今なおおそらくかなりある。

 それがシュンペーターのいう「成功」のゆえであれ、マルクスのいう「失敗」のゆえであれ、今日の資本主義が大きな矛盾を抱えてしまっていることは間違いない。

 世界大の貧富の格差、絶えざる経済危機の不安、環境問題や、世界中の需要が食い尽くされつつあることによる、これ以上の拡大成長の困難……。

 これら資本主義の抱える問題を、どうすれば克服し、新しい資本主義経済(それはあるいは、もはや資本主義と呼べるものではないのかもしれないが)をデザインしていくことができるか。

 これは、21世紀の最大の課題の1つだ。

 この問題を考えるために、シュンペーターから学ぶべきものは今なお多い。


1.マルクス批判

(1)マルクス主義は宗教

 本書第1部で、シュンペーターはマルクス批判を繰り広げる。

 まず、マルクス「主義」について、シュンペーターはこれを宗教であると批判する。

 その信奉者たちにとって、マルクスの学説は、吟味検討されるべきものでなく信ずべき教義なのである。

「信奉者にとって、それは第一に、人生の意義を体現し、かつ事件や行動を判断する絶対的基準となる究極的目的の体系を与え、第二に、救済計画と人類ないしその特定部分が救い出さるべき罪悪の予示とを含むかような目的への指針を与える。」


(2)マルクスの2大理論

 ではマルクスの理論それ自体はどうか?

 シュンペーターは、マルクス理論の2大原理を次のように説明する。

(1)生産形態ないし生産条件は、社会構造の基本的決定要素であり、この社会構造はまた人間の心構えや行動やさらには文明を生み育てるものである。」

 いわゆる、下部構造(経済)が上部構造(文化・制度)を規定するという理論だ。

「(2)生産形態そのものはそれ自身の論理をもっているすなわち、生産形態は内的必然性によって変化し、自らの活動自体のなかにその後続形態を形成していく。」

 これは要するにこういうことだ。

 マルクスは、「ハンド・ミル」(手動粉ひき車)は封建社会をもたらし、「スチーム・ミル」(蒸気粉ひき車)は資本主義社会をもたらす、という有名な言葉を残した。そしてひとたび「スチーム・ミル」が主流になれば、もはや個人の力ではこの流れをどうすることもできないようになる、と。

 つまり経済は、この「生産形態」に従って営まれることになるわけだ。

 シュンペーターは、これら2つの命題を、ある程度の真理を含むものと考える。しかし彼は、これらを全面的には受け入れない。社会構造、様式、態度は、容易に溶けない硬貨のごときものである。それらは一度形づくられたらおそらくは数世紀間も存続する」からだ。

 シュンペーターにとっては、下部構造が一切を規定するとするのは、やや性急な主張といわざるを得ないのだ。


(3)階級理論

 次にシュンペーターは、マルクスの階級理論を批判する。

 マルクスによれば、社会には、生産手段の所有者たる資本家階級と、自己の労働を売らざるをえない労働階級(プロレタリアート)の2階級がある。

 これら2つの階級は、そもそもにおいて敵対関係にある。そうマルクスは主張する。

 しかしシュンペーターはいう。

「社会生活には敵対と協調とがあまねく存在している。しかもそれは、事実上きわめてまれな場合を除けば、不可分離的なものである。」

 2つの階級間の敵対関係は、現実にはそれほど誇張しうるようなものではないとシュンペーターはいうのだ。

 さらにシュンペーターは、マルクスがこの2階級がどうして現れたのかについて、はっきりと論じていないことを批判する。そしていう。

「ある人が資本家たりえたのは、彼が労働においても貯蓄においても他の人々よりはるかに聡明かつ精力的であったからであり、このことは今日でもそうである、というブルジョア発生の物語を、マルクスは軽蔑して否定する。こうして、彼は善良な少年たちのためのこの物語を故意に嘲笑したのである。なぜならば、笑いとばすことは、あらゆる政治家がその重要なことを知っているように、不愉快な真実をあっさり片づけるのにはもってこいの方法だからである。

 資本家が資本家たりえた、その能力や努力を、マルクスは笑い飛ばすだけである。それはあまりに不誠実ではないか。シュンペーターはそういうのだ。


(4)マルクス評価

 そのほかにも、シュンペーターは、マルクスがリカードから受け継いだ「労働価値説」(労働が商品価値を決定する)や、同じくリカードの「産業予備軍」の理論を継承した、マルクスの「窮乏化理論」(機械化が進むにつれて、労働者がますます窮乏する)を批判する。

 しかしシュンペーターは、ただ1点、マルクスを高く評価する。

循環運動が存在するということを単に認識したことだけでも、その当時では一つの偉大な業績であったことを忘れてはならない。〔中略〕このことは近代景気循環研究の先駆者たちのなかでマルクスに高き地位を保証するに足るものである。」

 シュンペーター以前の古典派経済学者たちは、基本的に経済を「静態的」なモデルにおいて分析していた。しかしシュンペーターは、資本主義経済は動態的」な分析を導入しなければ理解できないと、『経済発展の理論』において主張した(『経済発展の理論』のページ参照)。

 ところがマルクスだけは、彼の時代においては異例なことに、この動態的な視点を持っていた。シュンペーターはそのことを高く評価するのだ。

 さらにシュンペーターは、マルクスがこの動態的な観点から資本主義の崩壊を論じた、その結論だけは正しかったと主張する。

「たとえマルクスのあげた事実や理論づけが現在いわれているものよりいっそう多くの欠点をもつものであったとしても、マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わないであろう。


(5)帝国主義論批判

 しかしシュンペーターは、マルクスのいう資本主義崩壊の過程については、これを辛辣に批判する。

 まず、彼はマルクス主義における帝国主義論を批判する。

 マルクスにとって、帝国主義とは資本主義の最終形態にほかならない。


「マルクス主義者は、帝国主義を資本主義の一段階として、むしろ好んで資本主義の最終段階として規定している。〔中略〕未開発国が発展をとげた暁には、いままで考えてきたような資本輸出は減退せざるをえないであろう。〔中略〕本国資本の侵入に対して植民地のドアは閉ざされるであろう。かくて本国資本は、もはや国内での利潤消滅をのがれて海外のより豊かな牧草地帯に進出しえなくなる。はけ口の欠乏、過剰生産力、完全な停滞、最後には国民経済全般にわたる破産とその他の災禍との規則的反復――おそらくは資本家の真の絶望から生ずる世界戦争までも――が確信をもって予見されえよう。歴史はかくも単純である。」

 
 より以上の利潤を求めての帝国主義。それは戦争をもたらし、最終的には人びとを欠乏させることになる。

 しかしシュンペーターは、それは現実と合致しないと批判する。

「一見したところでは、その理論はある場合にはかなりよく適合するかにみえる。そのもっとも重要な実例は熱帯地方におけるイギリス人やオランダ人の征服である。しかるに他の場合にはそれは全然適合しない。ニュー・イングランドの植民地化の場合等はこの実例である。しかも前者の型の場合さえも、マルクスの帝国主義論では十分に説明されえない。」

 以上のように、シュンペーターは、マルクス理論のほとんどすべてを否定する。しかしそれでもなお、結論についてだけは、彼はマルクスに同意する。

 資本主義、それはやがて崩壊する運命にあるのだ!


2.資本主義の崩壊

(1)独占資本主義

 なぜ資本主義は崩壊するのか。その理由は、ほかでもない、資本主義の成功それ自身にある。

 まずシュンペーターは、資本主義がどれほど生産性においてすぐれているかについて明らかにする。

「それは、いっそう平等にして、いっそう「公正」な分配よりもはるかに効果的に大多数の実業家の行動を刺激することになる。」

 ところで、古典派経済学者たちは、政府の介入のない「完全競争」においてこそ、資本主義はその生産力を最大化しうると考えていた。

 ところがシュンペーターは、そのような完全競争状態など原理的にありえないという。そして競争は、不可避的に「独占的競争」へと展開するのだと。

「農産物の大量生産を除いては、完全競争の例がけっして多くはありえないことがただちに了解されよう。〔中略〕商工業のいっさいの完成品やサービスについていえば、あらゆる雑貨商、あらゆる給油所、手袋やひげそりクリームや手のこぎりのあらゆる製造業者が自分だけの小さく不安定な市場をもっていることは明らかである。彼らは、その市場を価格戦術、品質戦術――「生産品銘柄」――、広告などによってきずき上げ、かつ維持せんとつとめる。否、つとめねばならぬ。ここにいたってわれわれはまったく異なった類型を得る。そこには完全競争の結果がもたらされると期待すべき理由はまったく存在せず、したがってそれは独占的図式のほうにはるかによく適合するものである。かような場合は「独占的競争と呼ばれている。

 ここで、シュンペーター経済学の代名詞ともいうべき、「創造的破壊」についてが述べられる。

 それはつまり、ある創造的な企業者が、イノベーションを起こし他の企業を駆逐していく過程である。

 この過程を通して、資本主義は「独占的資本主義」(トラスト化された資本主義)へと発展していく。

 古典派経済学からしてみれば、これはきわめてまずいことだ。独占は健全な競争を妨げ、結果として生産性を引き下げてしまうことになるからだ。

 しかしシュンペーターは、それは事実とは符号しないと主張する。

 実は大衆の生活水準は、独占的「大企業」の時代においてこそ、これまで上昇の傾向を示してきたのだ。

(第一に、)完全競争が、現在においても過去のいかなる時代においてもけっして現実的でなかったことはきわめて明白である。第二に、生産量増加率は、少なくとも製造工業においては、巨大規模企業が優勢になりはじめたと考えられる九〇年代以後少しも減少していないこと、〔中略〕とりわけもっとも重要なのは、大衆の現代の生活水準は比較的拘束なき「大企業」の時代に上昇したこと、を指摘せねばならぬ。」

 こうしてシュンペーターは、次のように結論する。

「実際には、〔中略〕独占的水準においてのみ確保されるような利益が存在するのである。それは、たとえば独占化がよりよき知能の影響力の範囲を拡大し、より劣った知能の影響力の範囲を縮小せしめるからであり、あるいはまた独占によって他では得られないような金融的地位が享受できるからである。〔中略〕争をもって独占よりもいっそう有利であるとなす要素はまったくなりたたない。〔中略〕独占価格は必ずしも高いものでなく独占的生産量もまた必ずしも少ないものではないからである。

 資本主義は、独占資本主義においてその生産性を最大化する。通説に反して、シュンペーターはそう主張する。

 しかしこのことが、皮肉にも、やがて資本主義を崩壊させる最大の原因となる。

 シュンペーターは、続いてそのことを明らかにする。


(2)ケインズ批判

 しかしその前に、シュンペーターは、ケインズ「投資機会消滅理論」を検討しこれを批判する。

 周知のように、ケインズはそれまでの経済学を一新した20世紀最大の経済学者とされている。

 ケインズの登場によって、シュンペーターの影はかなり薄くなってしまった。それゆえ、シュンペーターはケインズにかなり嫉妬していたという話もあるが、ともあれシュンペーターのケインズ批判は以下のようである。

 ケインズの「投資機会消滅理論」は、次のようにまとめることができる。

(1)欲望飽和と人口減少
(2)新しい土地の欠乏
(3)技術的改良の枯渇
(4)資本財の需要減退
(5)投資機会が公共的投資に適するようになること

 シュンペーターはこれら1つ1つを批判していくが、その主眼は、「創造的破壊」のプロセスこそが、資本主義の本質的特徴であるという点にある。

 投資機会はなくならない。なぜなら資本主義は、たえず新しい創造をなしとげるべくドライブされているからだ。

 人口が減っても、土地が減っても、技術改良がピークを迎えたように見えようとも、資本主義においてはそれに対応する創造が必ず起こる。シュンペーターはそういうのだ。

「資本主義のエンジンはまさにこの目的を果たすべく方向づけられているのであるから、たえず新しい機会を見いだすか、あるいは創造する能力をもっているという点に若干の信頼をおくことができよう。


(3)資本主義的文明

 続いてシュンペーターは、資本主義社会における人間のあり方について考察する。

 資本主義以前の身分社会において、個々人の創意工夫はなかなか活かされるチャンスがなかった。

「前資本主義的経済生活には、階級の境界を越えるほどの手腕、換言すれば、当時の支配階級を構成する人々の地位にも匹敵しうべき社会的地位をつくり出すほどの手腕を、発揮すべき余地が全然残されていなかった。

 しかし資本主義は、個々人に、経済合理的に生きる道を、そしてそのことによって、自身の栄達をめざすべきであるという価値観をもたらした。

 ところがこの資本主義的人間は、実のところきわめて「非英雄的」なタイプである。

「産業的活動や商業的活動は、騎士の意味においては本質的に非英雄的である、――それははでに剣を振り回すこともなげれば、肉体的剛勇の誇るべきものもなく、武装せる馬をおどらせて敵陣に突入する機会も全然なく、むしろ異端者的ないし異教徒的でさえある。」

 古代や中世の勇猛果敢な闘士たちに比べて、資本主義社会における経済人は、金勘定にいそしむへなちょこ人間である。

 そしてそれゆえにこそ、彼らは平和を求める。

 シュンペーターはこのことから、ふたたび、マルクスの帝国主義理論を批判する。

「事実上、一国の構造や態度が完全に資本主義的であればあるほど、ますます平和的たるべき――そしてますます戦争の費用を勘定しがちとなる――ことはわれわれの認めるところである。〔中略〕したがって、帝国主義は資本主義発展の最終段階だというマルクス主義理論は、純経済学的異論のいかんとはまったくかかわりなしに、失敗せざるをえない。


(4)なぜ資本主義は崩壊するのか

 ここへ来て、シュンペーターはようやく資本主義崩壊の理由を述べる。

 繰り返すが、シュンペーターにとって、資本主義の本質的特徴は「イノベーション」「創造的破壊」にある

 ところが、その過程を通して資本主義が独占資本主義に発展すると、この「イノベーション」の動機それ自体が失われてしまうとシュンペーターはいう。

「その理由はこうである。一方において、現在では慣れた日常的業務のらち外にある仕事をなすことも、昔よりはるかにたやすくなっている、――革新そのものが日常的業務になってきている。〔中略〕他方において、経済変化に慣れてしまって〔中略〕人物や意志力が重きをなさなくなるのは当然である。」

「資本主義的企業は、ほかならぬ自らの業績によって進歩を自動化せしめる傾きをもつから、それは自分自身を余計なものたらしめる――自らの成功の圧迫に耐えかねて粉砕される――傾向をもつとわれわれは結論する。」

 イノベーションが日常のことになってしまうと、人はイノベーションの動機それ自体を失ってしまう。シュンペーターはそういうわけだ。

 さらにシュンペーターは、資本主義崩壊の2つめの理由として、擁護階層の壊滅を挙げる。

 先述したように、資本主義的人間は、シュンペーターにいわせれば非英雄的なへなちょこ人間である。

 だから、資本主義の勃興において、彼らは国家による庇護を必要とした。16、7、8世紀における資本主義発展の歴史は、これを守る国家あっての発展だったのだ。

 ところが独占資本主義は、この擁護階層を壊滅させてしまった。そうシュンペーターはいう。擁護階層とは、端的にいえば、英雄的政治家、国民の指導者のことである。資本主義社会において、もはやそのような指導者はほとんど登場し得ない。

 シュンペーターはいう。


帰結は明白である。すなわち、ブルジョア階級は、なんらかの重要性をもった国ならば普通に直面せざるをえない内外の問題に当たって、これをうまく処理する資質を備えていない。
非ブルジョア的ななんらかの集団による擁議がなければブルジョアジーは政治的に無力であり、その国民を指導しえないばかりか自分自身の階級利益を守ることさえおぼつかない。それはブルジョアジーが主人を必要とするというに等しい。

 主人を必要とするはずのブルジョアジーは、にもかかわらず、その主人を壊滅させてしまった。

 ここに、資本主義が崩壊する第2の理由がある。

 第3の理由として、シュンペーターは資本主義に批判的な知識人階層の存在を挙げる。

 資本主義が発展すると、安い書籍の流通などを通して、多くの知識人が登場することになる。

 ところが知識人とは、そもそもが批判的な存在だ。だから彼らは、資本主義を批判してかかることになる。

「知識階級は、批判を生命とし、肺肝を突くような批判にそのあらゆる地位がかかっているのであるから、本米その切りくずしを促進せざるをえない。

 しかも、高等教育がこれだけ充実すると、知識人の超過供給となり、やがてはその失業が問題になるかもしれない。

「高等教育は、かくして費用=収益考量によって定められる点を越えて、専門的、準専門的な系統の、はてはいっさいの「ホワイト・カラー」系統のサービスの供給を増大せしめるので、知識人の失業というとくに重要な問題をつくり出すかもしれない。」

 現代における「高学歴ワーキングプア」の出現を予言するような一文だが、ともあれこのようにして、社会の現状に不満をためた知識人がやがては大勢現れることになるだろう。そして彼らは、資本主義を一斉に批判するようになるだろう。そうシュンペーターはいうわけだ。

 さらにシュンペーターは、資本主義崩壊の4つめの理由として、「ブルジョア家庭の崩壊」を挙げる。

 資本主義は、妻と子どものために働き貯蓄する経済人を前提としている。

 ところが、資本主義の発展にともなって生き方が多様化すると、このモデルが成り立たなくなる。


われわれの目前には、別の事柄に注意を集め、別の仕方で行動する別種の経済人が登場する。〔中略〕いまや彼は、自ら収穫物を取り入れるか否かを問わず、ただ将来のために働くことを命ずる資本主義的倫理をも喪失するにいたる。」


 資本主義の成功は、まさにその成功のゆえに、将来のために金を稼ごうという人びとの動機を失わしめる。

 こうして、資本主義は崩壊する。シュンペーターはそう結論づける。

 わたし自身は、以上4つの資本主義崩壊の理由に、深く納得することはできない。これらは、資本主義の本質というより、側面であるにすぎないようにわたしには思われる。

 しかしそれはともかく、続いてシュンペーターによる社会主義論を見ていくことにしよう。


3.社会主義の到来

 シュンペーターは、まず社会主義を次のように定義する。

「われわれのいう社会主義社会とは、生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局にゆだねられている――あるいはこうもいえると思うが、社会の経済的な事柄が原理上私的領域にではなく公共的領域に属している――ような制度的類型にほかならない。

 しかしそんなことは本当に可能なのか?シュンペーターは次のようにいう。

「(第一に、)われわれが先行の経験から出発することを認めるとすれば、当面の仕事はもちろん大いに単純化されるであろう。ことにその経験が大企業型のものであれば、なおさらのことである。

 これまでの資本主義社会における大企業(独占企業)の経験を参考にすれば、何をどれだけ作ればいいかが分かるので、計画経済は十分可能だ。そうシュンペーターはいうわけだ。

「(第二に、)社会化された産業や工場の管理者は、他の仲間がしようとしていることを正確に知ることができるであろうし、協定した行動をとるための相談をするのを妨げられることもまったくないであろう。」

 だれもがお互いに、何をどれだけ作ろうとしているのかが分かるのだから、生産は資本主義社会より合理的になされるはずだ。そうシュンペーターは主張する。

「道程を短縮し、円滑にし、あるいは安全にするものは、必ずや人間の精力と物的資源とを節約し、一定の結果をもたらすのに要する費用を節減せずにはおかないであろう。このようにして節約された資源がまったく浪費されてしまわないかぎり、われわれの意味での能率は必然的に増大するに相違ない。

 しかし、資本主義社会に特有の、金銭欲名声欲はどうするのか?

 シュンペーターはいう。

「たとえば大きな業績をなし遂げた人は、自分のズボンに三文にもならない印をつけうる特権――もしそれが賢明な節度をもって授与されるかぎり――を得ることによって一年間に百万の大金を受け取ることによって得るのとほとんど同じくらいの満足を味わうものと考えてきしっかえなかろう。

 金銭欲も名誉欲も、ほかのものに取り替えることができるとシュンペーターはいう。

 こうして、社会主義は独占資本主義よりも効率的な経済体制となる。シュンペーターはそういうのだが、この主張も、わたしにはほとんど説得力がないように思われる。事実、社会主義経済は崩壊し、今のところ残っているのは資本主義のほうである。

 もちろん、だからといって、資本主義がこのままであっていいというわけではない。資本主義には、先述した深刻な問題がある。これをどう克服しうるかは、21世紀の経済学や哲学最大の課題である。


4.社会主義と民主主義

 さて、シュンペーターによれば、社会主義と民主主義は、必ずしも共存しうるものではない。それゆえ、どうすればこれらが共存しうるかを考える必要がある。

 ちなみにシュンペーターは、民主主義を次のように定義している。

「民主主義とは人民が実際に支配することを意味するものでもなければ、また意味しうるものでもない。〔中略〕民主主義という言葉の意味しうるところは、わずかに人民が彼らの支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を与えられているということのみである。〔中略〕すなわち、指導者たらんとする人々が選挙民の投票をかき集めるために自由な競争をなしうるということ、これである。」

 かなりむちゃくちゃな民主主義理解であるようにわたしには思われる。

 民主主義とは、その指導者を人民が選ぶ機会が与えられている社会である。こういってしまったら、民主主義は単に選挙の問題だということになってしまう。

 このブログのさまざまなページでも書いているように、わたしの考えでは、民主主義の根本原理は「自由の相互承認」である。一人ひとりが、対等に自由な存在であることを承認し合う社会。これが民主主義の根本原理だ。

 選挙は、この原理を実現するためのあくまで1つの方法にすぎない。民主主義社会は、「自由の相互承認」を実質化するために、ほかにも多くの方法を持ちうるし、またそうでなければならないものなのだ。

 シュンペーターには、多分にエリート主義のきらいがある。だから民主主義も、指導者を選ぶという観点からしか考えない。

 個人的な趣味としては、エリート主義には何の問題もないだろう。しかしその趣味から社会理論を打ち出すのは、あまり賢明なこととはいえない。学問は、自らの趣味(価値観)を、むしろたえず検証し続けるものでなければならないのだから。

 ともあれ、シュンペーターは、社会主義社会における民主主義成功の条件を次のように述べる。

第一の条件は、政治の人的素材――政党組織に属する人、議会で働くべく選ばれた人、閣僚の椅子につく人など――が十分に高い資質をもっていなければならぬということである。

 ここにもやはり、エリート主義的な趣味がうかがわれる。

「第二の条件は、有効な政治的決定の範囲があまりに広すぎではならないということである。

 これはルソー以来長らくいわれ続けていることだ(ルソー『社会契約論』のページ参照)。

第三の条件として、現代の産業社会における民主主義的政府は、公共的活動の領域に含まれてしかるべきあらゆる目的のために――これの多少は問題ではない――しっかりした身分と伝統、強烈な義務観念とこれに劣らず強烈な団体精神esprit de corpsをもち、しかもよく訓練された官僚のサービスを把握しえなければならぬ。」

第四の条件は、「民主主義的自制」という言葉にこれを要約することができよう。およそ国民の数にはいるほどのあらゆる集団が成文法となっているかぎりの法令と法的に資格をもつ機関の発するあらゆる行政的命令とを喜んで受けいれることをしなければ、民主主義的方法が円滑に機能しえないことは万人の異議なく認めるところであろう。

最後に、主導力獲得のための競争が有効に行なわれるがためには、異なった意見に対するきわめて広い寛容が必要である。

 民主主義理論としては、平凡な考えといっていい。しかし経済学者としてのシュンペーターが、きわめて該博な知識を駆使して、これからの経済社会のあり方を考え抜いた、その仕事には感服せざるを得ない。

 個別領域に閉じこもってしまいがちな学者だが、学問が「何かを明らかにしようとし続ける」営みであるかぎり、シュンペーターのように、さまざまな学問領域や社会現象に広く目を配りつつ研究を深めていくことは、きわめて重要なことだとわたしは思う。

 彼の学問姿勢から、学ぶべきものは今なお多い。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2014 TOMANO Ittoku  All rights reserved.