ウェーバー『職業としての学問』


はじめに

 第1次世界大戦後の1919年に、ミュンヘンで行われた有名な講演。

 本書の主なテーマは次の3つだ。

 1つは、「職業としての学問」を行う者、つまり大学教員の実態

 2つは、その職業としての学者の資質

 そして3つは、学問はどうあるべきか(いわゆる「価値自由」について)。

「教授になれるかどうかは運である。自分も運で教授になれた。」

 社会学の巨人ウェーバーをして、そう言わしめる大学の世界。

 勇気づけられるような、絶望させられるような、ちょっと複雑な気分にさせられる……。

 ともあれ、「職業としての学問」をめざすすべての人にとって、本書は今もなお必読の書だ。


1.教授になれるかどうかは運である

 本書のはじめに、ウェーバーはまず、ドイツとアメリカにおける大学教員の実態を描き出す。

 ドイツでは、大学でのポストはまず「私講師」からはじまる。学生からの聴講料だけで生計を立てなければならない、きわめて不安定なポストだ。

 一方のアメリカは、有給の「研究助手」から始まる。ただし給料をもらっている分、日々雑務に追われ、また激しい競争にもさらされている。

 このような大学の現状、そして、近年ドイツがアメリカ化しているという話をした上で、ウェーバーは、若い研究者がいずれ大学教授になれるかどうかは、まったくもって運によるほかないと言う。

「私講師や研究所助手が他日正教授や研究所幹部となるためには、ただ僥倖を待つほかはない。」

「それがまったくの偶然の支配下にあるということは、実際想像のほかである。おそらく、これほど偶然によって左右される職歴はほかにないであろう。わたくしがあえてこの点を強調するのは、わたくしのようなものでも、こうしたまったくの偶然のおかげで、ほかにわたくしと同年輩で疑いもなくわたくし以上に適任の人がいたにもかかわらず、まだかなり若いころに一学科の正教授に任ぜられたからである。また、こうした経験があるからこそ、わたくしは多くの人々の不運なめぐりあわせを余計はっきりと察することができると自負しているのである。」


 今も昔も、そう変わらない大学の実態だ。


2.学者の資質

 続いて、ウェーバーは学者の資質について話を進める。 

「こんにちなにか実際に学向上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。」

 専門に閉じこもれない人間は、学者には向かない。そうウェーバーは言う。


「いわばみずからめかくしを着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」


 もっともこれは、タコツボや象牙の塔の中で生活する、単なる専門バカ(専門以外のことを何も知らない人)を称揚した主張ではないようにわたしには思われる。

 ウェーバー自身、きわめて広範な問題意識を持ち、膨大な知識を駆使して自らの問題を探究した人だった。

 だからウェーバーがここで言いたいのは、むしろ、己の学問的問題意識を、どこまでも真摯に探究せよということなのだろう。

 だから彼は、続けて次のように言う。

「学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。」

 有名な一文だ。

 学問における「個性」は、自らの問題意識に徹底的に向き合うことによってのみ育まれる。自分の優秀さをひけらかしたいというような自意識の持ち主は、この世界では決して「個性的」な人にはなれない。そうウェーバーは言うのだ。

「どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。」


3.価値自由

 最後に、ウェーバーは学問のあるべき姿を論じる。

 まず彼は言う。

「学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。」

 続いて述べられるのが、有名な学問における「価値自由」についてだ。

 学問は「べき論」であってはならない。これがウェーバーの言う「価値自由」だ。学問の本分は、事象の事実関係を明らかにすることのみである。したがって、そこから「べき論」を導くのは越権である。

 いわゆる「存在(事実)」から「当為(べき)」を導くことの禁止を、ウェーバーはこうして本書でも強く訴える(この点についてのより詳細な論述は、彼のいわゆる「客観性論文」のページを参照)。

「われわれはいったいなにをなすべきか、またいかにわれわれは生きるべきか」という問い――あるいは今夜ここで使われたことばでいうならば「あい争っている神々のいずれにわれわれは仕えるべきか、またもしそれがこれらの神とはまったく巡ったものであるとすれば、いったいそれはなにものであるか」という問い――に答えるものはだれかとたずねたならば、そのとき諸君は答えるべきである、それはただ予言者か救世主だけである、と。」

 では学問はいったい何をするべきなのか?ウェーバーは言う。

「さて、最後に諸君は問うであろう、では学問はいったい個々人の実際生活にたいしてどのような積極的寄与をもたらすであろうか、と。かくて、われわれはふたたび学問の「職分」に関する問題に立ち帰るのである。この点でまず当然考えられてよいのは、技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか、についての知識である。」

 学問にできること、それは予測を通した制御である。

 今日なお、あらゆる実証学問に言えることだろう。

 ただし「べき論」については、わたしたちは実証科学とはまた別の学問を持っている。

 「哲学」がそれだ。

 哲学の一つの本質的な仕事は、多くの人の間に共通了解可能な「価値」を、検証可能な仕方で論じることにある。

 それはいったい、どうすれば可能なのか?

 この点については、拙著『「自由」はいかに可能か—社会構想のための哲学』(NHKブックス)などで論じたことがある。興味のある方にお読みいただければ幸いだ。





(苫野一徳)

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