ブローデル『地中海』(3)


はじめに



 『地中海』第3部でブローデルが扱うのは、伝統的な歴史学が扱ってきた、事件史・戦争史である。

 扱われているのは、1547年のミュールベルクの戦いから、1571年のレパントの海戦、そして1598年のフランス・スペイン戦争(ヴェルヴァン条約)を経て、フェリーペ二世が死去するまでの間。


 膨大な量の記述を通して、ブローデルは当時の地中海世界の全貌を浮かびあがらせる。


 以下、この程度のかいつまみではほとんど意味がないようにも思われるのだが、本最終部を紹介していくことにしたい。



1.ミュールベルクの戦いとヨーロッパ世界


 1547年、ミュールベルクの戦いによって、スペインのカール五世はついに悲願のドイツを手中に収める。


「ミュールベルクの戦いは、一挙に、ドイツとヨーロッパの運命を決め(流動的な運命が定められる範囲内で)、その結果、地中海の運命を決めた。〔中略〕過去において、カール五世に不足していたものは、ほとんどつねに、ドイツ世界の正式な支援であったのに、ドイツが彼のものになったのである。」


 しかしその後1552年、ザクセン選帝候モーリッツの裏切りにあい、カール五世は一五四七年にドイツを手に入れたと同じくらい早くたちまちドイツを失う。」


 この1552年からの数年、国際政治の中心は地中海にはなくヨーロッパ世界にある。


 ドイツと並んで重要なエピソードは、イギリスの王位継承である。


 1554年、イギリス女王メアリは、カール五世の息子フェリーペと結婚する。


 その翌年、カール五世は退位を表明し、フェリーペ二世がスペイン国王となる。


 同じ1555年、ドイツではアウグスブルクの和議が成立する。その世話と責任を、カール五世は弟のフェルディナントに委ね、自らドイツの舵を取るのをやめる。


 こうして、息子のフェリーペ二世もまた、ドイツへの執着を失い、スペインに引きこもっていくことになる。


 一方、スペインとフランスとの間に続いていたイタリア戦争は、1559年のカトー・カンブレジ条約によって終結、スペインがイタリアの権利を手に入れることになる。


 この条約について、ブローデルは次のように言っている。


「カトー・カンブレジの和約は、フランスの歴史家によって、また何人かの同時代人によっても〔中略〕、大敗と見なされてきた。しかし、やや反対の方向で弁護するのがたぶん公正だろう。フランスが和平条約から得た利点の主要なものは、二つの結婚であった。つまりエマヌエレ・フィリベルトとマルグリット〔フランソワ一世の娘〕の結婚と、まだ子供で、スペインで「平和の王妃」になるはずの〔アンリ二世の娘〕エリザベート・ド・フランスとフェリーペ二世の結婚〔一五五九年〕である。今日、我々はこのような利点を過小評価する傾向がある。〔中略〕スペインの結婚は、この政略結婚が他の結婚の可能性を遠ざけるという理由からだけでも、フランスの輝かしい成功である。」


 フェリーペ二世の妻でイングランド女王のメアリ一世は、前年の1558年に亡くなっていた。フェリーペ二世の再婚によって、スペインとフランスは密接なつながりを得ることになったのだ。


 しかしこのころには、すでにスペインの財政は破綻していた。


一五五九年に、国庫の窮乏は深刻であった。フェリーペ二世はフランスと和平を結んだが、和平の締結までは軍隊を動員したままにしなければならなかった。それから軍隊の動員を解除することが必要だったが、それは俸給の未払金を払うことでしかおこなうことはできない。金が不足しているので、動員解除ができず、借金は増え続けるばかりである。悪循環である……。」



2.対トルコ戦争


 この1559年以降、大きな戦争はふたたび地中海を中心に起こるようになる。


 スペイン対トルコの戦争だ。


一五五九年四月のカトー・カンブレジの和約締結から、一五六五年五月—九月のマルタ島攻囲までの、地中海の歴史は、それだけをとっても、まとまりのある、ひとつの全体をなしている。この六年間というもの、地中海の歴史は、西ヨーロッパおよび北ヨーロッパで起こった、もろもろの大事件にもはや翻弄されることはない。地中海をそれぞれ半分ずつ制覇しているふたりの巨人――トルコとスペイン――は、ほかになすべきこともなくなり、今や一対一の対決を再開する。」


 ヨーロッパには平和が訪れた。そこで「西欧の圧力から解放されたフェリーペ二世は、自分の顔をつぶさないためにも、トルコとの和約への努力を断ち切る。」


 しかしスペインは、1560年、ジェルバでトルコに対して敗北を喫することになる。


 ところがどういうわけか、トルコは深追いしてこない。スペインは力を立て直す時間的余裕を得ることになる。


 そうして1564年、スペインはマルタ島でトルコに勝利する。



3.グラナダ戦争


 1569年、グラナダ戦争が勃発する。


 これは、グラナダ王国内のイスラム教徒である、モーロ人による反乱だ。


 スペインはこれを何とか平定。この時指揮をとったのが、後のレパントの海戦の英雄、ドン・フアン・デ・アウストリア(フェリーペ二世の異母弟)だ。


「ドン・ファン・デ・アウストリアはほんの二十三歳という若さにもかかわらず、きびきびした振る舞いと勇猛果敢によって、疑いもなくすでに真の頭領となっていた。」


 グラナダ戦争の後、この地の5万人以上のモーロ人たちは追放されることになる。



4.レパントの海戦


 1571年、サン・ピエトロ大聖堂において、カトリックの対トルコ同盟が結ばれる。連合艦隊の総指揮は、ドン・フアン・デ・アウストリア。


 同年、レパントの海戦が勃発する。


二つの艦隊は互いに相手を探し合い、十月七日の未明、レパント湾の入り口で出し抜けに出会った。そして、キリスト教国艦隊は間もなくして敵艦隊を湾のなかに首尾よく封じ込めた(これは戦術上の大成功であった)


 カトリック側の勝利はなぜもたらされたのか。ブローデルは言う。


「この衝突にまつわる話には事欠かないが、いずれの話も〔中略〕歴史学的に完全な客観性を持っているわけではない。あの華々しい勝利の功績を誰に帰すべきか、それをこれらの話のなかから取り出すのは難しい。最高責任者、ドン・ファンにか。きっとそうだ。あるいは、衝突の前日、ガレー船の衝角を叩きつぶすというアイディアを思いついたジャン・アンドレア・ドリアにか。衝角を叩かれたガレー船が舶先を水中に突っ込み、前のめりになったとき、船内の通路側の砲門からの砲撃は砲弾があまり曲がらずに、トルコの船の横腹、木材でできた部分の真ん中に命中したのである。それとも、ヴェネツィアの強力なガレアス船の功績か。ヴェネツィアのガレアス船は、キリスト教国側の最前線に陣取り、その驚くべき力のある大砲で敵艦隊の波を分断し、艦隊の船列を四散させたのである。じっとしたままである、というか、少なくとも機動力はほとんどないのであるが、ヴェネツィアのガレアス船はいわば主力戦闘艦、海に浮かぶ要塞であった。その他、過小評価しないでおきたいものがある。ほぼ陸上戦と言ってよいこの戦いで大役を果たしたスペインの優秀な連隊、あらゆる〈西洋人〉ponentinasのうちでも、最もトルコ人に恐れられたスペインのガレー船団の一糸も乱れぬ見事な動き、ヴェネツィアのガレー船からおこなわれたとりわけ激しい砲撃などである。さらに、トルコ海軍の疲弊も勘定に入れておこう。」





5.仮想平和へ

 しかしその後、戦況は変わっていく。歴史に名高いレパントの海戦の勝利は、実はそれほど大きな意味をもたなかったのだ。


 まず、「ヴェネツィアの裏切り」があった。


「秋の時点ではとても予想などつかなかったこと、ヴェネツィアのつまり、「裏切り」が起こったのは、一五七三年三月七日のことである。この事実はイタリアでは四月に知られ、そしてスペインでは翌月に知られるようになった。「裏切り」というよりもむしろ放棄と呼ぶべきである。実際、ヴェネツィア共和国の実情を考えてみも、産業も、財政も解体し、戦争のなかでもとりわけ高くつく海戦によって疲弊し、食糧不足と、それに伴う食糧の値上がりで日常生活すらままならなくなっているのである。」


 スペインもまた、そろそろ対トルコ戦争を終えたいと思うようになっていた。神聖同盟を主導した教皇ピウス五世の死をきっかけに、フェリーペ二世はさらにその思いを強くする。


 しかしトルコがやって来る。艦隊を率いるウルージ・アリによって、スペインはチュニスを失うことになる。


 しかしこのトルコの勝利もまた、決定的なものではなかった。



奇妙なことがひとつある。レパントの海戦が何の役にも立たなかった一方、チュニスにおけるトルコの勝利もやはり決定的に重要なものではなかった。

一五七四年以降とは言わないまでも、少なくとも一五八年以降、海上における(まさに、海上に限られるのだ)トルコの力の衰退が進んで行くのは事実である。しかも、この海軍の衰退は急激である。

 こうして、疲弊したスペインとトルコは、16世紀末にいたって、お互いにあまり向き合わなくなり、地中海には仮想平和が訪れることになる。


「敵同士が互いに相手を構わなくなったからこそ、平和が、この世紀末における仮想平和が成立したのだ。

 

6.休戦協定


 休戦交渉が始まる。水面下ではかなり以前からドン・フアンらもその交渉を進めてはいたが、1577年、ドン・マルティンという男が歴史に登場する。


 口が軽く、浪費家で遊び人の男である。


 しかし、なぜかこの男が休戦条約に成功した。ブローデルによれば、「ドン・マルティンの軽率さそのものが、またうさんくさい連中との付き合いが、そして慎重さのなさが、交渉の進展に役に立ったようなのである。」


 続いて、かつてトルコの捕虜を経験したジョヴァンニ・マルリアニが交渉を引き継ぐ。


「マルリアニが選ばれたのは、有能であるからなのか。実際、この人は有能である(器用で、正直で、柔軟で、粘り強く、しかも、根気よく報告を書いてよこす)。あるいは、交渉をドン・マルティンと同類の人で、もっとまじめで威厳のある水準にまで引き上げたいという要望があったからにすぎないのか。どちらと断言するのはむずかしい。」


「トルコの方は、逆に、華々しい外交使節団がやってくることを願っていた。ところが、送り込まれてきたのは、かつての捕虜で、片目のうさんくさい人物であったため、たちまち冷やかしの種になった。」


 しかし、トルコとしてももはや休戦せざるを得ない状況にある。


 1581年、休戦協定が結ばれた。マルリアニは大成功をおさめたのである。


「マルリアニの外交使節活動の後、事実上の平和が確立される。一五八一年の休戦条約は一五八四年どころか、一五八五年にも更新されたようである。」



7.スペインによるポルトガル占領


 同じころ、スペインはポルトガルを占領している。


 1578年、ポルトガルは、アルカセル・キビールの戦いでイスラムに大敗を喫していた。最後の十字軍となったこの戦いは、その後のポルトガルの運命を決めることになる。


現金で支払うことができなかったほど巨額の身代金を払うために、この国はやがて通貨を使い果たし、モロッコやアルジェへ宝石と貴金属を送ることになる。さらに、多くの人が捕虜にとられたため、狭いポルトガル王国では行政を司る役人層も足りなければ、軍事面の骨組みをなす人々もいなくなってしまった。こうして、ざまな理由が重なり、今まで経験したことがなかったほど、ポルトガルは弱体化を持ち堪えるだけの力もなくしてしまう。


 この無謀な戦いをひき起こした国王セバスティアンに代わって、叔父のエンリケ枢機卿が国王となる。ところがこの老枢機卿は、残念ながら、痛風病みで、結核に冒され、そして優柔不断な王だった。




このような愚鈍な振る舞いのおかげで、スペインはますます裏工作がやりやすくなる。母親の系譜から、フェリーペ二世はポルトガルの王位に対して異論の余地のない権利を有している。

 こうして1580年、スペインはポルトガルを占領する。


 これによって、フェリーペ二世はリスボンに居を構えることになった。


 地中海は、もはや舞台の中心ではなくなった。


「フェリーペ二世がリスボンに居を定めた日から、雑居帝国の中心は、広大な大西洋の岸辺へと決定的に移動したのだった。」


 こうして、トルコとスペインは互いから離れていくことになる。


スペイン陣営とトルコ陣営、地中海で長らく腕み合ってきたこの二つの勢力が、互いに相手から離れていき、それと軌を一にして、かつて一五五年から一五八年にかけて、この内海の名物であった大国同士の戦争が、いっさい見られなくなっていくのだ。



8.ヴェルヴァン条約


 1595年、王位継承権をめぐってスペイン・フランス戦争が勃発する。


 長引く戦争は、お互いをただ消耗させただけでヴェルヴァン条約へといたる。


 しかし全体としては、これはフランスに有利な条約だったようである。


「この和約によって、アンリ四世は、一五五九年のカト・カンブレジの和約によって境界を画定された王国を回復する。言い換えれば、スペイン側はただちに一連の占領地を放棄したということだ。」


 この戦争ででだれが得をしたかと言えば、新興のプロテスタント諸国である。


この長引く戦争は、誰にとって、利益になるのか。もっぱら、また、間違いなく、プロテスタント列強諸国と、その海軍にとってである……。


「フランス人とスペイン人が都市、要塞、土くれを奪い合っている間に、世界はオランダ人とイギリス人の手に握られようとしている……。」


 フェリーペ二世は、1598年に死去する。


 この後1650年以降、地中海は衰退し、経済の覇権はオランダが、そしてやがてはイギリスが握っていくことになる。






(苫野一徳)

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