コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』


はじめに

File:Kojeve.jpg 現代思想に絶大な影響を与えた、パリ高等研究院における講義録(1933〜39年)。

 受講者の中には、ラカンバタイユカイヨワメルロー=ポンティブルトンアーレントサルトル岡本太郎など、錚々たるメンツがそろっている。

 ラカンの有名な、「人間の欲望は他者の欲望である」というテーゼや、サルトルの「無」(否定性)の概念などは、おそらくこのコジェーヴの講義から受け取られたものだ(サルトル『存在と無』のページ参照)。あるいはフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という概念もまた、この本から取られたものだ(フクヤマ『歴史の終わり』のページ参照)。

 ヨーロッパにおけるヘーゲル・リヴァイヴァルを生み出したと同時に、以後、現代思想がこぞってヘーゲルを最大の敵とみなすことになる、そのきっかけを与えた書でもある。


1.欲望存在としての人間

 コジェーヴは、それまで有神論的形而上学の哲学とされてきたヘーゲル哲学を、徹底した「人間」洞察の哲学として解釈し直した。

 その際のキーワードが、「欲望」だ。コジェーヴが現代思想に与えた最大の功績は、人間を「欲望」存在として規定した点にあるといっていい。

 コジェーヴ(=ヘーゲル)はいう。わたしたちは、ただ対象に単純に向かっているだけの存在ではない、と。

 わたしたちは、まず何よりも自分自身を意識している「自己意識」である。そしてこの自己意識は、一切をわたしの「欲望」から対象化する。

「自己意識、つまり真に人間的な現存在したがって――結局は――哲学的な現存在の基礎にあるものは、純粋に認識的かつ受動的な観想ではなく、欲望である。

 この欲望は、それが人間的なものである限り「他者」へと向かう。

「欲望は他者の欲望に、そして他者の欲望に向かわなければ人間的ではない。」

 それはつまり、他者からの承認を欲望するということだ。

「それは――結局は――他者に対する自己の優位をその他者に承認させるためである。これはそのような承認Anerkennungを求める欲望にほかならない。」

 これが、人間同士の間に「生死を賭けた闘い」を生むことになる。

「普遍的承認を求める欲望の数多性が存在するならば、これらの欲望から生まれる行動が――少なくとも当初は――生死を賭けた闘争Kampf auf Leben und Tod以外の何物でもありえない、ということも明白である。」

 つまり、主と奴との出現に帰着した最初の闘争とともに、人間が生まれ、歴史が始まった」のだ。コジェーヴはそう主張する。


2.歴史の停止

 とすれば、この主と奴の闘いが終わる時、歴史は停止することになる。コジェーヴは続けてそのように主張する。

「世界史、人間の相互交渉や人間と自然との相互交渉の歴史は、戦闘すると労働するとの相互交渉の歴史である。そうである以上、歴史との相違、対立が消失するとき、もはやをもたぬために、であることをやめるとき、そしてもはやをもたぬためにであることをやめ――さらには――もはやがいない以上新たににもならぬとき、歴史は停止する、と。

 フクヤマの有名な「歴史の終わり」というテーゼの元になった、コジェーヴの「歴史の停止」説である(フクヤマ『歴史の終わり』のページ参照)。


 国家において万人の承認が完成した時、主と奴の闘いは終わり、そうして人間の歴史も停止する。コジェーヴはそう考えた。そして、ヘーゲルはその象徴をナポレオンに見たのだと(ヘーゲルがナポレオンを「馬上の世界精神」と呼んだのは有名なエピソードだ)。



 ただし、これはあくまでコジェーヴの考えであって、ヘーゲル自身は、「歴史の終わり」といったようなことは主張していないから注意が必要だ。


 ちなみに、フクヤマが『歴史の終わり』で引用し、また日本でも東浩紀氏が用いたことで有名になった、「動物化」「動物的生」という言葉は、本書の脚註において登場するものだ。

 人間的な主と奴の闘いが終わり歴史が停止するならば、人類はその後、その時々の動物的な欲求を、ただただ満足させるだけの生を生きていくほかなくなるだろう。コジェーヴは一時期そう考えた。

 が、その後日本を訪問したのを機に、彼は日本的「スノビズム」の可能性を感じるようになる。

 それは、茶道や華道など、高度に形式化された文化を楽しむ人びとの生き方だ。人間的な歴史が停止しても、人は単純な動物化に陥ることなく、人間的文化を味わう生を送ることができるのではないか。短い日本滞在を経て、コジェーヴはそう直感したのだった。


3.無神論的解釈

 先述したように、コジェーヴは、従来有神論的形而上学と考えられてきたヘーゲル哲学を無神論的に解釈し直した。

有神論的解釈は絶対的に不可能である。『精神現象学』が或る意味をもつならば、そこで問題となっている精神は人間精神以外の何物でもありえない。」

 その傍証として、コジェーヴはヘーゲルの宗教や神学についての解釈を挙げる。

より広い意味では、宗教神学もまた自己認識である。なぜならば、神について語っていると思いながら――実は――人間は自己自身について語っているだけだからである。したがって、宗教において呈示される精神神学において問題となっている精神、これは自己自身を知る精神でもあり、神学精神自己意識Selbstbewußtseinであると言うことができる。

 ヘーゲルを無神論者と呼ぶのは、さすがに無理があるだろう。しかしコジェーヴの解釈を、ヘーゲル哲学の真骨頂は、その有神論的な「体系」にはないのだという主張と受け取るなら、それはきわめて建設的な解釈だとわたしは思う。

 この点については、ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』などのページに詳論した。参照していただければ幸いだ。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.