ハイエク『自由の条件』


はじめに

ファイル:Friedrich Hayek portrait.jpg ノーベル経済学賞も受賞した経済学者・ハイエクは、経済学だけでなく、政治・法哲学にも大きな業績を残した。

 しかしわたしの考えでは、「哲学者」としての彼の思考は、「哲学的」にはあまりにナイーヴにすぎて、残念ながら唸るものがほとんどない。

 このブログでもしばしばいっているように、ヘーゲル『法の哲学』を超える哲学的「自由」論をわたしは知らない。

 ヘーゲルの天才的洞察から見れば、現代における何人かの哲学的経済学者たちの「自由」論も、あるいは現代政治哲学における「自由」論も、ほとんどがきわめてナイーヴな議論といわざるを得ないようにわたしは思う。これもまた、このブログの色んなページでいってきた。

 ハイエクの「自由」論は、ある意味では現代「自由」論の1つの典型だ。以下これを批判的に紹介しながら、こうした典型的「自由」論が、残念ながら哲学的には無効であることも明らかにしたい。


1.自由=強制がないこと

 本書の最初に、ハイエクはいう。

この書物でとりあつかうことは、社会において、一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎりない人間の状態のことである。この状態を、われわれは本書を通じて自由(libertyあるいはfreedom)の状態として説いてゆく。」

 ハイエクだけでなくあらゆる思想家が、このように、「自由」とは「強制のないこと」と考えてきた。いわゆる「消極的自由」である。

 しかしヘーゲル的にいうならば、それは「自由」の浅薄な「表象」(上っ面のイメージ)に過ぎない。

 詳細は『法の哲学』のページに譲るが、ヘーゲルの徹底的に考え抜かれた「自由」論を一度ものにしてしまえば、ハイエクの「自由」論が、その思考の始発点からして間違ってしまっていることに気づかずにはいられない。

 このブログで何度もいってきたことだが、哲学の命は、まず「思考の始発点をどこに置くか」にある。この始発点が徹底的に考え抜かれていなければ、導き出された結論もまた、深い共通了解可能な思想にはなり得ない。

 ハイエクはいう。いわゆる「積極的自由」はきわめて危険な「自由」観である、と。なぜならそれは、他者の「自由」に介入する「権力」を、野放しにする「自由」観であるからだ。

「ひとたび、自由を権力と同一視することが許されると、「自由」という言葉の魅力を利用して個人の自由を破壊する手段を支持する詭弁を押えるものがなく、人びとに勧めて、自由の名のもとにかれらの自由を放棄させる策略にも果てしがなくなるのである。」

 これもまた、バーリンほか多くの思想家たちが訴えてきたことだ。しかしこれもまた、やはり「自由」の浅薄なイメージというほかないとわたしは思う。(バーリン『自由論』のページ参照)

 むしろ、自由を「解放」「強制されていないこと」と解する方が危険なことなのだ。

 たとえば、ヘーゲルやアーレントは、「自由」を「解放」「強制されないこと」と解したロベスピエール「恐怖政治」について克明に描き出している(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』アーレント『革命について』のページ等参照)

 自由をこのように捉えると、「強制」に対する「破壊の狂暴」(ヘーゲル)を、わたしたちはどうしても避けられなくなってしまうのだ。

 だからむしろ、わたしたちにとって必要なのは「自由の創設」(アーレント)である。

 それはわたしの言葉でいえば、「自由の相互承認」を実質化するための正当性を持った「権力」を、相互承認可能な形で創設していくことにほかならない。

 わたしたちは、「自由」になるためにこそ、「自由の相互承認」を可能にするための「権力」を必要とする。単なる「解放」や「強制されないこと」を第一義とする「自由」論は、結局、何らかの「強制」に対する「破壊の狂暴」を、論理的にせき止め得ないのだ。そしてそれは、結局のところ、わたしたちの「自由」を奪う社会へと至らざるを得ない。

 もちろん、ハイエクはあらゆる組織や権力を破壊せよなどといっているわけではない。彼は次のようにいっている。

自由擁護諭は、組織に反対する議論ではない。組織は、人間の理性が利用しうるもっとも強力な手段の一つである。しかし、それはすべての排他的、特権的、独占的組織に反対する議論である。」

 しかしそれでもなお、「自由」が「解放」の“イメージ”で語られる限りにおいて、それは「排他的」「特権的」「独占的」組織・権力に対する「破壊の狂暴」を、論理的には避け得ない理論とならざるを得ない。

 ともあれ、本書の内容をもう少し見ていくことにしよう。


2.自由の擁護

 なぜ「強制されないこと」としての「自由」が重要なのか。ハイエクはいう。

「個人的自由を擁護するのは、われわれの目的と福祉の成就を支配する非常に多数の要素に関し、われわれがいずれもみな無知をまぬがれがたいことを認める点にあるということである。」

 ハイエクにおける「個人的自由」擁護の根拠として、有名な一節だ。

 人類の進歩のためには、個人的自由が必要だ。そうハイエクはいう。「こう考えよ」「こう行動せよ」と強制することは、人びとの創造性を奪うことにほかならないからだ。

 しかしこれもまた、次のくだりにおいて、ひどくナイーヴな議論へと展開していく。

 ハイエクにとっては、「人類の進歩」が、ある意味では「平等」よりも重視される価値である。

これに関連して、記憶に値することであるが、この世界的規模の発展において、一国をして指導力を発揮させるものは、その国の経済的に非常に進んだ階級であること、またそのような差を故意に平準化する国は、その先導的地位をも放棄するということである。」

 社会主義を打ち壊したかったハイエクにとって、これは当然の考えだったといえるだろう。

 ハイエクは、過度の平等を嫌い、個人の「強制」されないこととしての「自由」とそれによる「人類の進歩」を最重要視した。しかしそのことを第一義とすることで、彼は結局、(強制されないこととしての)「自由」を奪われる人びとの存在に、十分思いを致さなかった。

「法と行為に関する一般的規則の平等こそは、自由のために役立つ唯一の平等であり、また自由を破壊せずに確保することのできる唯一の平等である。自由は、他の種類の平等とはなんの関係もないばかりでなく、多くの点で不平等をつくり出さざるをえないものでさえある。これは、個人的自由の必然的結果であり、またそれを正当化する一つの意味をもっている。」

 平等は、「法の下の平等」だけで十分だ。むしろそうでなければならない。ハイエクはそういうのだ。


3.平等批判

 しかし、では障害を持って生まれたばかりに、あるいは貧困家庭に生まれたばかりに、収入の低い仕事へと「システムから強制」されざるを得ない人はどうなるのか。

 おそらくハイエクは、それを「強制」とはいわないだろう。しかしここで問題になるのは、まさに何をもって「強制」というかということだ。

 それは人によって無数の解釈を生む。「強制からの自由」は、その内実をあいまいさと恣意性に委ねる、まさに上っ面の“イメージ”であるというほかないものなのだ。

 たとえばハイエクは次のようにいう。

「他人の命令どおりに行動することが、被雇用者にとっては、自分の目的を達成する条件である。それにもかかわらず、かれは強制されているという意味での不自由ではない。」

 労働を強制されている労働者は、しかし「強制」されているのではない。ハイエクはそう主張するが、しかしこれを「強制」されていると捉えるか「強制」されていないと捉えるかは、人によってまったく異なるだろう。「強制からの自由」は、こうして哲学的にはまったく空虚な概念というほかないものなのだ。

 「自由」の本質は、「強制」からの自由などという浅薄な“イメージ”の中にはない。それは、「自由」であるためにこそ、いかに「自由の相互承認」を実質化するかという問いの中にこそある。そしてこの問いを置いてはじめて、わたしたちは、どのような「平等」をどの程度担保すれば「自由の相互承認」の実質化に寄与しうるかという議論へと、思考を展開していくことができるのだ。

 しかしハイエクは、“自分が思うところの「強制」されていない「自由」”(これをヘーゲルは「私念」という)を擁護するため、分配的正義は自由を侵害するとか、相続権の否定は強制であるとか、教育の過度の機会均等は暴力であるとか論じていく。しかし繰り返すが、何をもって「強制されていない」と捉えるかは人それぞれであって、それゆえこの議論は、終着点に決してたどり着くことがない。

 邦訳第2巻、第3巻では、以上見てきたハイエクの「自由」論の原理が、実践的・具体的に、法や制度のあり方として展開されている。一つ一つのテーマはそれなりに興味深いが、以上に述べたように、そもそもの「原理」が不徹底なので、展開された実践理論もまたやはり不徹底といわざるを得ないようにわたしは思う。


(苫野一徳)

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