オルテガ『大衆の反逆』


はじめに


 端から端まで、凡庸な「大衆」への憎悪が散りばめられた本書。


 個人的な感受性としては、大衆への罵倒にあふれた本書は読んでいてあまり気持ちのいいものではない。

 そしてまた、本書で行われている大衆分析もまた、わたしにはとりたててすぐれた洞察であるようには思えない。「指導されるべき」大衆が指導者の地位に就いたことを、ただただ罵倒し続けているだけだとさえいえるようにも思う。

 本書が刊行されたのは1920年。まさに「大衆」が勃興し始めた時代だが、そうした時代に、貴族趣味と選民意識をもった人たちが、教養のない、世論にふわふわと流される大衆をバカにし、しかもその大衆たちが支配する社会に対する憎悪を高めていったのは当然のことだった。だからこそ、本書は多くのエリートたちに熱狂的に受け入れられた。

 しかしその大衆批判は、以下で見るように、深い洞察を欠いた通り一遍の批判であるようにしかわたしには思えない。

 オルテガの前世紀の哲学者ニーチェもまた、凡庸な大衆(「畜群」とニーチェは呼ぶ)を批判し続けた。しかしその批判には、オルテガのようなただの罵倒には収まり切らない、すぐれた洞察がある(ニーチェ『道徳の系譜』のページ等参照)。

 また、大衆分析としては、同時代のリップマンやデューイの方が、格段にすぐれた洞察を展開している(リップマン『世論』デューイ『公衆とその諸問題』のページ参照)。

 罵倒の羅列は、かえって無様な様相を呈しさえする。どうせやるなら、ニーチェのように、人びとの世界観を180度変えてしまえるくらいの鋭さがほしい。個人的にはそう思う。

 本書で大衆をバカにしまくった後、オルテガは一種の「ヨーロッパ合衆国」の建設を主張する。しかしこれも、別にオルテガの独創というわけではなく、すでに19世紀から多くの人たちが主張してきたことでもある。

 本書の価値は、その大衆分析にではなく、当時のエリートたちの、大衆への反感や憎悪を示す歴史的資料としてあるといえるのではないか。


1.大衆の充満

 今日、至るところに「大衆」がいる。

「わたしは、この様相を蝟集の事実、「充満」の事実と呼んでいる。」

 大衆とはいったい何か。オルテガはいう。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」

 オルテガは、このような「凡俗」な人間たちが、己が凡俗であることを知りながら、むしろそのことを貫徹しようとする現代社会に激しく憤る。そしてそのような状況をみれば、シュペングラーがいう「西洋の没落」が、いかに現実味の薄い話であるかがよくわかると主張する。

 ためしに、町に出て人びとに、いつの時代に生まれたかったかと聞いてみればいい。彼らはきっと、今に、と答えることだろう。現代は、没落どころか大衆が我が世の春を謳歌している時代なのである。


2.大衆の分析

 ではこれら大衆は、いったいいかなる思考・行動原理のもとに生きているのだろうか。

「われわれは、今日の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。」

 わがまま忘恩。これが大衆の特徴だ。オルテガはそう主張する。

 義務意識のない、ただ権利だけを主張するわがままな大衆に対して、選ばれた高貴な人間は、その逆に自らを超えたものへの畏敬の念を持つ。

「これに反し、選ばれた人間、つまり優れた人間は、自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自らすすんでそれに奉仕するというやむにやまれぬ必然性を内にもっているのである。」

 こうしてオルテガはいう。現代社会とは、愚かな大衆に、かつては高貴な人間しか抱けなかったような欲望を抱かせ、その上それを可能にするあらゆる手段まで与えてしまった社会なのである、と。

 そして彼ら大衆は、そのような自分自身を、どのような形であれ反省しようなどと思うこともない。オルテガはいう。


「愚者は、自分を疑うということをしない。〔中略〕ばかは死ななければなおらないのであって、ばかには抜げ道はないのだ。」



3.ボルシェヴィズムとファシズム

 このような愚かな大衆を象徴するのが、ボルシェヴィズムファシズムだ。

「サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断乎として強制しようとする人間のタイプが現われた。実はこれが新奇さなのである。」

 サンディカリストは、「直接行動」などという。まさに、思考なき愚かな大衆の行為である。

 それに対して、本来デモクラシーとは、理性的な説得、すなわち「間接行動」を通した政治制度のことである。

「自由主義的デモクラシーは、隣人を尊重する決意を極端にまで発揮したものであり、「間接行動」の典型である。」

 しかし大衆は、今やこうした「間接行動」を尊重しない。

「ほとんどすべての国において、同質的大衆が社会的権力の上にのしかかり、反対派をことごとく圧迫し、抹殺している。大衆は――その密度とおびただしい数とを見れば誰にも明らかなことであろうが――大衆でないものとの共存を望まない。いや大衆でないものに対して、死んでも死にきれないほどの憎しみを抱いているのである。」

 こうしたわがままで凡庸な大衆のことを、オルテガは「慢心しきったお坊ちゃん」と呼ぶ。


4.大衆の典型としての科学者

 今日、このような大衆の典型を、われわれは本来社会を教え導くはずの「科学者」にみることができる。オルテガはそう主張する。

 なぜか。

 科学が進歩するためには、専門・細分化が行われなければならなかったからである。その結果、科学者は自らの狭い領域にのみ閉じこもることになった。

「彼は自分が専門に研究している狭い領域に属さないいっさいのことを知らないことを美徳と公言し、総合的知識に対する興味をディレッタンテイズムと呼ぶまでになったのである。」

 まさに凡庸さの極み。オルテガはそう科学者たちを批判する。


5.最大の危険物=国家

 大衆は、指導されるために存在する。そうオルテガは主張する。にもかかわらず、今日大衆が支配者の座についている。まさにこれこそ、「大衆の反逆」である。

「大衆は、指導され、影響され、代表され、組織され、さらには大衆であることを止めるためというか、少なくとも止めることにあこがれるべくこの世に生まれ出てきたのである。」

「したがって、大衆が自ら行動しようと試みることは、自らの運命に逆らうことであり、彼らが今日行なっていることはまさにこのことに他ならないので、わたしは大衆の反逆をここで問題としているのである。なぜならば、つまるところ、真に反逆と呼びうるものは、人間が自己の運命を拒否すること、自己自身に対して反逆すること以外にはないからである。」

 このような凡庸な大衆たちによって支配される国家。それこそ、今日における最大の危機である。


6.ヨーロッパの自己超克へ

 偉大な支配者なき社会は、やがて野蛮状態に陥るだろうとオルテガはいう。

「支配者の不在は必然的に能力と才能の消滅につながるのである。もしヨーロッパ人が命令を下さない習慣をつけてしまえば、一世代半もすればまちがいなく、旧大陸は、そしてそれに続いて全世界は、道徳的無気力、知的不毛、全般的な野蛮の状態に陥るであろう。」

 それゆえヨーロッパは、ふたたび自らを支配するため自己超克しなければならない。そのために、ヨーロッパを1つの国民国家にする必要がある。

今日、「ヨーロッパ人」にとってヨーロッパが一つの国民国家的概念たりうる時期が到来している。」

 それは十分可能である。なぜなら国民国家とは、そもそも民族や言語によって分割されたものではなく、むしろ国民国家こそが、民族や言語を平均化したものであるからだ。

 われわれは「ヨーロッパ合衆国」をつくるべきである。そのことで、大衆が忘れ去った、「歴史意識」をよみがえらせるべきなのである。


(苫野一徳)


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