ヘーゲル『精神現象学』(その3)



4.精神

ファイル:Hegel portrait by Schlesinger 1831.jpg 意識はこれまで、意識→自己意識→理性と展開し、ついに「事そのもの」の自覚という境地に達した。

 続く「精神」の章で、ヘーゲルはこの展開をいわば歴史的にたどり直す。ヘーゲルによれば、人間の歴史もまた、実はこのような展開のプロセスとして見ることができるのだ。

 「はじめに」でもいったように、この「精神」の章と次の「宗教」の章は、当初のヘーゲルの計画にはなく後でさし入れられたものだ。だからこの2つの章は若干前後の関連が明確でないのだが、しかしそれでも、「精神」章におけるヘーゲルの洞察には改めて目をみはらされるものがある。


(1)人間のおきてと神々のおきて(古代ギリシャ)

 まずヘーゲルが考察するのは、古代ギリシャについてだ。これまでに見てきた章でいえば、「意識」に相当するといっていいだろう。

 古代ギリシャのポリスでは、個人の精神と共同体の精神が美しく調和している。しかしそれは上辺だけのことであって、この2つが分裂してくるところ、人びとには「自己意識」が芽生え始める。

 分裂の契機(きっかけ)は、「人間のおきて」「神々のおきて」との対立だ。

 「人間のおきて」とは、要するに共同体のルールのことだ。

「普遍性の形式においては、この精神は熟知せられているおきて(法律)であり、現に行なわれている習俗であり、個別性の形式においては個人一般のうちにおける自分自身だという現実的な確信であり、さらに自分が一重の個体性であることを確信するときには、真実態は白日のもとに公明に妥当することであり、この精神は統治としてある。」

 一方の「神々のおきて」は、家族のルールのことである。個別的な共同体である家族は、自分たちの「神々」を祀り、自分たち独自のルールを持つ。そしてそれは、大きな共同体(ポリス)のルールと、時に対立することになる。

「要するに家族は内々の神々〔として国家の〕普遍的な精神に対立しているものである。」

 その典型が、「埋葬」をめぐってだ。

 ヘーゲルは、ソフォクレスの『アンティゴネー』を題材にこのことについて論じる。

 アンティゴネーは、ソフォクレスの不朽の名作『オイディプス』のいわば続編のようなもので、オイディプス王の4人の子どもを主役にした戯曲である。

 あらすじをざっといっておくとこんな感じだ。

 王位継承をめぐって、オイディプスの息子たちは互いに戦争をしかけ、そしてどちらも命を失ってしまう。悲しんだ妹のアンティゴネーは、戦場に朽ち果てた2人の亡骸を埋葬しようとするが、新たに王位についた叔父のクレオンによりそれを厳しく禁じられる。

 「国を混乱に陥れた2人を埋葬することは許さない」

 というわけだ。

 絶望したアンティゴネーは自殺するが、後を追って、婚約者のハイモンも自殺する。

 実はこのハイモン、新国王クレオンの息子だった。そして、ハイモンの死を知ったクレオンの妻(ハイモンの母)もまた、絶望に打ちひしがれて自殺する。

 以上が『アンティゴネー』のあらすじだが、ともあれ以上のように「人間のおきて」と「神々のおきて」が対立した時、意識(精神)は共同体と個人との素朴な合一から抜け出していく。


(2)法的状態(古代ローマ)

 続いてヘーゲルが描き出すのが、古代ローマの精神だ。

 ここでは、個々人が個々人として「権利」を持っている(ローマ法の支配)。その意味で、個人と共同体との素朴な合一の段階は終わっている。

 しかし実は、このローマ法において、本当に自由なのは皇帝ただ1人である。

「アトムが絶対的な現実であると思いこんではいても、しかし自体的には実在性を欠いた現実であるのとは反対に、この唯一の一点のほうは普遍的な威力であり、絶対的な現実である。そこでこの唯一の点が「世界主人」であるが、この主人はこのようにしてすべての「そこ」の存在を同時に自分の手中に掌握しているところの絶対的人格であると自任しており、この人格の意識にとっては自分より高次の精神が現にあるのではない。」

 こうして古代ローマの精神もまた、十分な精神たることができずに次の段階へと己を展開させていく。


(3)教養・信仰・啓蒙・絶対自由(近世〜近代)

 次に登場する精神のあり方が、「教養」「信仰」そして「啓蒙」「絶対自由」である。

 「教養」は、「自分から疎遠になった精神」といわれる。自分のことをある意味客観的に見られる精神のことだといっていい。

 ここには、「高貴な意識」「下賤な意識」というものが登場する。「高貴な意識」は公(権力)と結びつく意識のことで、「下賤な意識」はこれを憎悪しただ批判ばかりしている意識のことだ。

 しかしこの「高貴な意識」、自分では、国のためとかみんなのためとかいいながらも、実は自分の「特殊意志」を隠し持っている。だから実はこれも下賤な意識である。

 こうして、どれだけ高貴であろうとしても、自分のいわば「下心」のようなものを自分が実は持っていることに気づいてしまうのが、この「教養」の初期段階である。

 その典型を、ヘーゲルはディドロの小説『ラモーの甥』に見る。(ディドロ『ラモーの甥』のページ参照)

 大作曲家ラモーの甥は、とにかくひねくれもので、何でもかんでも批判する。そしてその批判が、自分がひとかどの者になりたいのになれないからやっているのだということ、また、自分は実は「下賤」な人間なのだということも、重々承知している。

 こうした精神に至った時、精神は次の「信仰」の段階へと展開することになる。


(4)信仰と啓蒙

 何もかもが空しくなったとき、人は「信仰」に救いを求める。しかしすでに「自己意識」に到達している精神は、それが実は自分の作りだしたものであることも知っている。

 ここに信仰の決定的な弱さがある。

 こうして登場するのが、「啓蒙」だ。それは、信仰などという非理性的なものに頼らず、徹頭徹尾理性的に考えよという。こうして「信仰」は転落することになる。

「信仰は自分の王国から追放せられたのであり、言いかえると、この王国は掠奪せられたのである。

 こうして、「啓蒙」は精神のチャンピオンに上り詰めることになる。そしていう。一切は「有用性」なのだ、と。信仰など必要ない。すべては「わたしにとって有用か」「どのように有用か」と考えるべきなのだ。


(5)絶対自由と恐怖

 一切を「有用性」で考えるようになった精神「啓蒙」は、やがて気づくようになる。神や王は、決して絶対的な存在ではないのだと。だからこれを、打ち倒す必要があるのだと。

 こうしてフランス革命が起こることになる。

 が、その行きつく先は、「絶対自由」の精神のほかにない。一切はわたしのためにあるのだから、その精神が主張するのは「絶対自由」なのだ。

「世界はこの自己意識にとっては端的に自分の意志であり、またこの意志が普遍意志である。」

 このような精神が実際に行動を起こせばどうなるか。

 恐怖のテロリズムである。

「普遍的自由」とはただ破壊の狂暴であるにすぎないわけである。

 これはロベスピエールによる恐怖政治のことをいっている。フランス革命後の恐怖政治は、まさにこの「絶対自由」の精神が生み出したものだったのだ。


(6)道徳性

 こうして「破壊の狂暴」を経験した精神は、ついに自らの「道徳性」に目覚めることになる。

 自らの考えは、ほんとうに他者にとっても普遍的といえるだろうか。「道徳性」の精神は、そのように内省するようになる。

 が、それも最初はきわめて素朴な内省にすぎない。

 というのも、「正しいことをしよう」と願っても、そこには2つの問題があるからだ。

 1つは、「正しいこと」をしても幸せになれるとは限らないという問題。

 もう1つは、「正しいこと」を、わたしの「欲望」や「衝動」のせいで行えないという問題だ。

 そこで「道徳性」の精神はこれをある仕方で克服しようとする。

 「神の要請」がそれだ。

 「正しいこと」と「幸福」とが一致するように、またそれが「欲望」や「衝動」とも一致するように、「神の存在が要請される」のだ。

「そこで今やこの〔他の〕意識が「世界の主人」として、また「世界の支配者」として道徳性と幸福との調和を創り出すと同時に、もろもろの義務を数多なるがままに聖なりとし是認するということになる。」

 ここには浅ましい「ずらかし」があるとヘーゲルはいう。自分の意志で「正しいこと」をしようと主張していた精神が、実は結局「幸福」にこだわっていたり、「欲望」「衝動」の前にくずおれたりと、実は真剣でなかったという「ごまかし」があるのだ。

 ヘーゲルによるカントの道徳哲学批判として有名な箇所だ。(カント『実践理性批判』のページ参照)


(7)良心(「行動する良心」と「批評する良心」)

 こうして精神は、ついに「良心」(Gewissen)の境地に到達することになる(金子訳では「全的に知ること」)。

 これは、具体的な行動を通して「事そのもの」をめがける精神の境位のことだ。

「なぜなら、「事そのもの」であるのは、「純粋義務」が純粋な思考することという空なる抽象において成立するものであること、純粋義務がその実在性と内容とをただひとつの限定せられた現実においてのみもっていること、しかも「ひとつの現実」というのが意識自身の現実であり、且つ「意識」というのが「思想の上での物」としてのものではなく、或る個別者としてのものであるということだからである。

 道徳性は、他者の承認という契機を欠いていた。それは、ただ自らが「正しいことをしよう」と決意するにとどまっていた。

 しかし「良心」は、「正しさ」「よさ」「ほんとう」は、他者からの承認を得てはじめて「正しさ」「よさ」「ほんとう」といえることを、徹底的に自覚している精神である。

「全的に知ること(=良心〔引用者〕)は事そのものをその充実した内容において獲得ており、しかもこの充実した内容は全的に知ることが事そのものに自分自身によって与えるものである。

 そして最後に、「行動する良心」「批評する良心」が登場する。

 「行動する良心」は、「事そのもの」をめがけて実際に行動する良心だ。

 ところがここに、「批評する良心」が冷水を浴びせることになる。

 お前のその行動は、単に名誉欲や名声欲があってのことだろう、といった具合に。つまり「行動する良心」の、その奥底にある「欺瞞的」「偽善的」な部分をつこうとネチネチいうわけだ。

 ところが「批評する良心」も、やがて気づくことになる。

 自分がそうやって批判しているそのこと自体が、実は自分にとってのほんとうの「事そのもの」をめがけての行為であるのだと。だから、「行動する良心」を批判してばかりいる自分は、単にさもしい奴であるだけなのだと。

 こうしてこの「頑なの心胸」(批評する良心)は、自らで自らを赦し、砕け散ることになる。

「赦し」というのは、普遍的な意識が自分のことに対して、即ち自分の非現実的な本質のことに対して行なう棄権のことである。」

「〔然りという〕和らぎの語〔中略〕は相互に承認しあうことであり、そうしてこの承認が絶対的な精神である。

 「良心」、これが精神の最高境位なのだ。それは「事そのもの」を自覚した精神のことである。そしてヘーゲルは、この境位を「絶対知」と呼ぶ。


2.絶対知

 「精神」章と「絶対知」章の間には、「宗教」の章がある。しかしここでは割愛したい。前にいったように、この章はそもそも「付け足し」の感を免れないし、より詳細な記述はヘーゲルの『宗教哲学講義』にあるからだ。(ヘーゲル『宗教哲学講義』のページ参照)

 そこで、以下最終章「絶対知」に進むことにしよう。

 といっても、この章も、最後のまとめといった程度で、ヘーゲルが自分の「学の体系」を論じた箇所を除いてあまり新しい点はない。

 そこで、ここでは割愛した「宗教」の章との関連から、ヘーゲルが「絶対知」をどのようなものとして描き出しているかを最後に見ておくことにしよう。

「宗教においては内容であったもの、言いかえると、或る他者を表象することという形式をとっていたものと同じものが此処の全的に知ることにおいて自己にとって自分自身の為すこである。このさい内容が〔同時に〕自己にとって自分自身の為すことでもあるというように、内容と為すこととの両者を結合するものこそは概念である。

 宗教は、ヘーゲルによれば「精神」の本質を理解した境位(つまりこれまで論じてきたプロセスを知っている境位)である。

 しかしそれは、この「本質」を「神」という表象で表現する。

 他方、これを「概念的に把握」するに至ったのが、「絶対知」である。

「この絶対的な知ることとは自分を精神の形態において知るところの精神であり、言いかえると、概念的に把握するところの知ることである。

 これまで論じてきた、「意識→自己意識→理性」の進み行きを、「概念」として、つまり徹底的に理性的に理解しつくした精神、それが「絶対知」なのだ。

 それはつまり、繰り返しいってきたように、「よい」「正しい」「ほんとう」は、他者に承認されてはじめて「よい」「正しい」「ほんとう」であるということを、徹頭徹尾自覚した精神のことだ。

 「事そのもの」を自覚し、「良心」に達した精神。それこそが「絶対知」にほかならない。







(苫野一徳)

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