ヘーゲル『精神現象学』(その1)


はじめに


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 哲学史上、最も難解な書といっていい。


 独自の「ヘーゲル語」ともいうべき文法に精通しなければ、数行読むことさえできないような代物だ。哲学好きの人にとっては、人生で一度はチャレンジしてみたいある意味永遠の憧れであり、また眼前にそびえ立つ憎き(?)ヘーゲル哲学の牙城ともいえるだろう。

 さて、しかしわたしの考えでは、本書はまた、哲学史上最高に豊富な内容と洞察に溢れたものでもある。

 ヘーゲルは本書で、人間の精神(意識)はどのように成長するか、そのプロセスを、素朴な感覚の段階から「絶対知」に至るまで、克明に描き出した。

 「絶対知」というと、全知全能の神の知というイメージを抱くかもしれない。

 実際、ヘーゲルにはそのような構えがないわけではない。

 人間の精神は「絶対精神」(=神)の精神を分有したものであり、これを歴史を通して実現していく、というのがヘーゲル哲学体系における物語(フィクション)だ。

 わたしの考えでは、今日わたしたちは、それが検証不可能なまさにフィクションであるがゆえに、ヘーゲルのこの思想にとらわれる必要はない。しかしこのヘーゲル哲学の体系的前提のせいで、「絶対知」もまた、神の境位の知であると捉えられてきた。

 しかし本書をよく読めば分かるように、実は「絶対知」は、そのような全知全能の知を意味していない。

 それはむしろ、絶対に正しいことがあるのではなく、わたしにとって「よい」「正しい」「ほんとう」のことは、他者からもまたそのように承認されてはじめて「よい」「正しい」「ほんとう」といいうる、ということを、徹底的に自覚的に知っている精神の境位のことなのだ。

 このことを自覚するまでに、人間精神(意識)はきわめてさまざまなプロセスを経る。ヘーゲルはそれを、人間個人の成長と、また人類の歴史的成長という、2つの観点から描き出す。いわば個体発生的叙述と、系統発生的叙述である。

 この描き出されたさまざまな類型が、とにかく圧倒的に面白い。自分をふりかえって、「ああ、これは自分のことを言われてしまった」とか、「周りにもこういう人いるなあ」とか、思い当たることしばしばだ。

 本書の構成は、大まかに次のようになっている。

1.意識
2.自己意識
3.理性
4.精神
5.宗教
6.絶対知

 1から3は、個体発生的な人間意識の成長を描き出したもの。4と5は、系統発生的、つまり歴史的な人間意識の成長を描き出したもの。そして6は、総括。そういっていいのではないかと思う。

 やや専門的(?)な話になるが、実は当初、本書の計画に「4.精神」と「5.宗教」の存在はなかった。

 それがなぜ組み入れられたかというと、出版社とのいろいろな問題があったかららしい。

 そもそもヘーゲルは、当初この本を、『精神現象学』ではなく『学の体系』というタイトルで出版する予定だった。その第1部が、「意識経験の学」、第2部が「論理学」だった。

 ところが本書執筆中に、出版社との契約日までに第2部を完成させられそうにないことが分かってしまった。しかし第1部だけでは、契約のページ数に足りない。

 そこで彼は苦肉の策として、「精神」と「宗教」の章を付けたした。そして第1部だけを、増幅させた形で出版したのだ。

 そういうわけで、実は「精神」と「宗教」の章はある意味蛇足で、そのために本書の内容をいっそう分かりにくくしている原因にもなっている。

 しかしここでは一応、本書を完成された書物と見なして、以下紹介・解説していくことにしたい。

 ちなみに、上に貼り付けたのは長谷川宏訳の『精神現象学』だが、以下引用は金子武蔵訳から行う。

 長谷川訳は、この超難解な本をできるだけ砕いて訳したすばらしい偉業だ。しかし長谷川氏自身書いているように、この新訳には意訳の部分も多いので、直訳気味で、そのためさらに難解さが増してはいるが、今なお世界的にすぐれた翻訳といっていい、金子訳で読み解いていくことにしたいと思う。


0.序文

 まず、本書執筆におけるヘーゲルの構えを確認しておこう。ヘーゲルはいう。

「私の見解はただ体系そのものの叙述によってのみ正当化せられざるをえないものであるが、この見解によると、一切を左右する要点は真なるものをただ単に実体として把握し且つ表現するだけではなく、全く同様に主体としても把握し表現するということである。」

 「真なるもの」とは、実体でありまた主体である。

 これはつまり、先述したように、「真なるもの」は「絶対精神」(神)だが、実は人間もこれをまた分有しているのだということだ。絶対精神という「実体」は、わたしたち自身(主体)でもある、というくらいに考えておけばいい。

 そしてこの「わたしたち自身」の精神が、どのように「絶対精神」の本性を歴史を通して(個体発生的/系統発生的に)実現していくか、そのプロセスを描き出すのが本書『精神現象学』というわけだ。ヘーゲルはいう。

真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。

 このプロセスを克明に描き出すことこそが、「学」的な知だ。ヘーゲルはそう主張する。

「学一般の或は知のこのような生成こそは、この精神の現象学が叙述するところのものである。

 つまり、個人からすれば、自分の精神のあり方(成長)を自覚的に知ること、他方精神(絶対精神)からすれば、自分がどのように人間において展開しているかを描き出すこと。これが『精神現象学』の課題だというわけだ。

 ではそれはどうすれば可能か。

 さしあたっては、人間の精神(意識)がどのように成長するかを克明に描き出すことによって、である。

 そのプロセスは弁証法的である。つまり、最初は素朴な精神(意識)が、さまざまな問題に行き当たり、自分自身を否定し乗り越えて成長していく、そのようなプロセスなのである。

 ヘーゲルらしい文章を引用しておこう。

「この運動こそ命題自身の弁証法的運動であり、ひとりこの弁証法的運動のみが現実に思弁的なものであり、そうしてただこの運動を言いあらわすことのみが思弁的な叙述である。」

 ヘーゲル哲学が超難解なのは、この、「絶対精神」の自己展開という側面があるからだ。純粋に人間の意識がどう成長するかを書いてくれれば分かりやすいのに、ヘーゲルは必ず、それが「絶対精神」にとってはどういう意味を持っているかということを書く。それが、「即自」「対自」「即且つ対自」、「概念」、「普遍性―特殊性―個別性」とかいった、実に独特に使われる用語を生み出すことにもなっている。

 しかし以下では、このヘーゲル語にはできるだけこだわらず、人間の「意識経験」の成長プロセスを辿ってみたい。


1.意識

 まず語られるのは、わたしたちの素朴な意識だ。

 それは、まず端的には「感覚的確信」と呼ばれる。たとえば、「目の前にコップがあるな」と素朴に感覚を確信している状態だ。

 しかし、人間の意識はやがて気づくことになる。このコップは、「わたしがこれをコップだと認識しているからコップとして存在しているのだ」と。

「対象は自我がこれについて知るから存在するのである。

 そこで人間の意識は、自らの「知覚」それ自体を考えるようになる。単に「コップだな」と思うのではなく、わたしはこれを「透明な」「細長い」コップとして見ているな、という風に考えるようになるのだ。

 と、そこまで来ると、わたしたちは、「悟性」(=思考)それ自体に目を向けるようになる。対象を知覚しているわたしたちは、それをどのように「考えている」かと考えるようになるのだ。

 すると、わたしたちは、世界にはいろいろと「法則」があることに気づくようになる(万有引力の法則など)。しかしさらにわたしたちはこう考える。「この法則は、なぜこの法則なのだろう?」と。

 ここに、ヘーゲル哲学の1つの重要概念である、「無限性」という概念が登場することになる。

 ここでいう「無限性」とは、意識はたえず「区別」と「統一」を繰り返すということだ。あの法則とこの法則を別のものとしながら、いや実はこれはつながりあっているぞ、と気づく。そうすると、世界はさまざまに変化するのだけれど、実は統一的な「無限性」を持っているんじゃないかということにも気づくようになる。そうしてついには、世界の法則も、これを見ているわたしも、実は別々のものではないという意識が登場する。「無限性」にはそのようなニュアンスがある。

 ヘーゲルの言い方だとこうなる。

「「我々」の見るところでは、無限性によって法則がそれ自身において完成して必然性(内的必然性)となり、また現象のあらゆる契機が内なるもののうちに受け容れられた。」
「この無限性は己れ自身と同じである。」

 ちなみにここでいわれる「我々」という言葉は、本書でひんぱんに登場するもので、「意識の成長のプロセスを全部知った後の我々」を意味している。しかし素朴な意識は、まだこの「我々」の境地には達していない。だからそれが「我々」の境地に達するまでのプロセスを見ていこうというわけだ。

 こうして「意識」は、世界は実は「自分にとって」存在しているのだということに気づくようになる。

 このことに気づいた意識が、次に「自己意識」と呼ばれることになる。『精神現象学』が圧倒的に面白くなっていくのは、これからだ。






(苫野一徳)

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