ロールズ『正義論』


はじめに



John Rawls
 現代政治哲学の古典の名を、今や不動のものにした本書。

 「正義」とはいったい何か。本書が1971年に刊行されて以来、政治哲学はこの古典的テーマをめぐって空前の活況を見せることになった。

 ロールズ的な平等主義的リベラリズムに対しては、その後、リバタリアニズムコミュニタリアニズム、また本書でロールズが激しく批判した功利主義など、さまざまな立場の理論家たちから批判が寄せられ、学界には「ロールズ・インダストリ」(ロールズ産業)ができ上がった。

 このブログでもしばしば書いてきたように、わたし自身は、現代政治哲学の諸理論の多くに、あまり説得力を感じていない。

 論争の盛り上がるところ、批判とそれに答える修正理論の応酬が繰り広げられ、議論も細分化し、問題の本質が見失われてしまいがちだ。本書刊行以来40数年、そうした議論は徐々に落ち着きを見せ始めたようにも思うが、しかしわたしには、政治哲学はどこか不毛な「理屈ゲーム」を、これまで続けてきたという印象がある。

 その原因をロールズだけに帰するわけにはもちろんいかないが、しかし彼の「論の立て方」それ自体に、わたしは大きな問題があったと考えている。

 哲学の命は、まず「思考の始発点をどこに置くか」にある。この始発点を間違えてしまうと、議論はどこにも行きつかない。

 ロールズは、この思考の始発点を徹底的に追いつめることができなかった。わたしはそう考えている。そして彼以降登場した無数の政治哲学諸理論もまた、多くはこの始発点を追いつめることなく、浮わついた「理屈ゲーム」を続けてきたようにわたしには見える。

 とはいえ、真摯な深い問題意識に支えられ、膨大な知識と強靭な思考で20世紀政治哲学を牽引したロールズの功績は、長く歴史に残るに違いない。

 その功績に多大な敬意を払いつつ、以下本書を批判的に紹介・解説していきたい。


1.公正としての正義

 本書で問われる「正義」とは、いわゆる社会制度上の「正義」のことだ。ロールズはこれを、「社会の基礎構造」における「正義」と呼ぶ。

「本書において、正義の第一義的な主題〔=「正義/不正義」という賓辞が優先的に付されるべき主語〕をなすものとは、〈社会の基礎構造〉(the basic structure of society)――もっと正確に言えば、主要な社会制度が基本的な権利と義務を分配し、社会的協働が生み出した相対的利益の分割を決定する方式――なのである。政治の基本組織・政体(political constitution)および経済と社会の重要な制度編成がこうした〈主要な諸制度〉にあたるものと私は考えている。」

 ロールズはそのような「社会の基礎構造」における「正義」を、「公正としての正義」と位置づける。

「それらは、自分自身の利益を増進しようと努めている自由で合理的な諸個人が平等な初期状態において(自分たちの連合体の根本条項を規定するものとして)受諾すると考えられる原理である。〔中略〕正義の諸原理をこのように考える理路を〈公正としての正義〉と呼ぶことにしよう。」

 自由で合理的な諸個人が、平等な初期状態において契約を取りかわす。そのような状態において見出された「正義」の原理こそ、「公正」さの十分に担保されたものだといえる。そうロールズはいうわけだ。


2.原初状態

 こうしてロールズは、「原初状態」という独自の思考実験場を作り出す。

「〈公正としての正義〉において、伝統的な社会契約説における〈自然状態〉に対応するものが、平等な〈原初状態〉(original position)である。」

 「原初状態」において、人びとは「無知のヴェール」に覆われており、自分の能力や地位などの一切を知らないものとされる。

「この状況の本質的特徴のひとつに、誰も社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分について知らないばかりでなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力その他の分配・分布においてどれほどの運・不運をこうむっているかについても知っていないというものがある。さらに、契約当事者たち(parties)は各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない、という前提も加えよう。正義の諸原理は〈無知のヴェール〉(veil of ignorance)に覆われた状態のままで選択される。」

 こうして、自身の境遇を一切知らない人びとが、これからどのような社会を作っていこうかを相談して決める。このような「原初状態」において導き出された約束こそが、「公正としての正義」にかなった原理たりうるとロールズは主張する。


3.正義の二原理

 「原初状態」においては、次の二原理が「正義」の原理として導出されるはずだとロールズはいう。


「第一原理 各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な〔=手広い生活領域をカバーでき、種類も豊富な〕制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても〔無制限なものではなく〕他の人びとの諸自由の同様〔に広範〕な制度枠組みと両立可能なものでなければならない。」

「第二原理 社会的・経済的な不平等は次の二条件を充たすように編成されなければならない――(a)そうした不平等が最も不過な人びとの期待便益を最大に高めること、かつ(b)公正な機会の均等という条件のもとで全員に開かれている職務や地位に付随する〔ものだけに不平等をとどめるべき〕こと。」


 第一原理は、平等な自由の原理。第二原理は、格差原理機会均等原理と呼ばれる。

 「格差原理」とは、つまり、社会的・経済的不平等は、それが最も恵まれない人にとっての利益になる時にのみ正当化されうる、とするもので、その後最も大きな論争の的となったものだ。


4.反照的均衡

 以上の二原理を、ロールズは原初状態の仮定から導出したわけだが、彼はここに、さらに「反照的均衡」という概念を提示する。

 要するに、ここで導出された原理が、ごくごく一般的な人の感覚からいってもちゃんと合理的なものになっているかどうか、改めて反省しようというわけだ。

だがおそらく原理と確信との間に食い違いが生じるだろう。その場合に私たちはひとつの選択を行なう。初期状態の説明のほうを修正するか、それとも現在の判断のほうを見直すかのどちらかの選択肢が選べる。というのは、暫定的な定点として採用した判断であろうとも、修正を免れないからである。」

正義の構想は、原理に関する自明な前提や条件から導出されるものではない。むしろ多くの考慮事項の間での相互支持、すなわち全体がまとまってひとつの整合的な見解に収まるということによってこそ、正義の構想は正当化されるのである。

 こうして、原初状態と反照的均衡という二つの概念装置を使って、ロールズは先の正義の二原理を論証する。


5.功利主義批判

 ロールズがこのような正義の二原理を導出した一つの動機として、当時きわめて大きな影響力を持っていた、「功利主義」を批判したいというものがある。

 功利主義とは何か。

「その中心をなす理念はこうである――社会に帰属するすべての個人の満足を総計した正味残高が最大となるよう、主要な制度が編成されている場合に、当該の社会は正しく秩序だっており、したがって正義にかなっている、と。」

 いわゆる「最大多数の最大幸福」といわれるものだが、功利主義はこれを、少数の人の幸福を犠牲にしても、社会全体の幸福の総量が増えれば、それは正義に適っていると主張する。(ただしそのような功利主義理論は、功利主義の元祖の1人である、J. S. ミルなどの理論とはまったく違ったものだ〔ミル『功利主義論』のページ参照〕。だからわたしは、このような功利主義を「通俗的功利主義」と呼んでいる。)

 ロールズからしてみれば、このような「通俗的功利主義」は決して正義の原理たり得ない。一部の人の犠牲の上に成り立つ社会全体の幸福や富の最大化は、特に「格差原理」がある以上認められないのだ。

 ロールズはいう。

このことを次のように表現できるだろう――〈公正としての正義〉において、正の概念が善の概念に対して優先権をもっている、と。」

 善に対する正の優先。これもまた、ロールズ理論における有名なテーゼだ。そして、後のいわゆるリベラル–コミュニタリアン論争を巻き起こしたものの1つでもある(サンデル『リベラリズムと正義の限界』のページ参照)。

 正義は、個々人にとっての善やその総量から導出することはできない。個々人にとって何が善であるかにかかわりなく、正義は「公正としての正義」でなければならないのだ。ロールズはそう主張する。


6.批判的検討

 最後に、ロールズ理論に対する批判を少し行っておきたい。

 わたしの考えは、結論としてはロールズにかなり親和的だ。しかしその論の立て方において、ロールズ理論には大きな問題がある。

 ポイントは簡明だ。このブログでもしばしばいってきたように、「思考実験」は原理の導出のための装置にはなり得ない。

 先に述べたように、哲学の命は、まず「思考の始発点をどこに定めるか」を見極めるところにある。

 思考実験は、その底板にはなり得ない。なぜならそれはあくまで仮定であって、その仮定が妥当な思考の始発点たりうるかどうかは、決して証明することができないからだ。

 たとえば、リバタリアニズム(自由至上主義)の理論家ロスバードは、経済学でしばしば使われる「ロビンソンクルーソー状況」を思考の始発点としての思考実験場としておいた。無人島に1人流れ着いたロビンソンクルーソーから、社会の原理を導出するのだ。(ロスバード『自由の倫理学』のページ参照)

 原初状態とロビンソンクルーソー状況、どちらが正しい仮定であるか。

 この問いに答えることは決してできない。なぜなら、どちらも自身が導き出したい理論にとって好都合な、恣意的な仮定であるからだ。

 ロールズの「原初状態」は、格差原理を導き出したいという、彼の思わくに好都合な仮定になっている。

 たとえばロールズは、生まれの差によって社会的成功に差が出るのは、道徳的にいって正しくないことだという。

「分配上の取り分は生来のめぐり合わせの結果いかんが決めるのであり、その結果は道徳の見地からすれば独断・専横的で根拠がない。」

 それゆえロールズは、だれも生まれの差を知らない「原初状態」を仮定するのだ。

 これは論点先取りの仮説仮構といわざるを得ない。原初状態の仮定の中に、「生来のめぐり合わせ」による不平等があってはならないという結論がすでに組み込まれているのだ。

 そもそも、生来の差が社会的成功の差につながることは、本当に道徳的にいって絶対に正しくないことといえるのか。

 ロスバードやあるいはロールズを激しく批判したノージックら、リバタリアニズムの理論家からしてみれば、生まれの差によって社会的成功に差が出るのはおかしいといって、これを平準化しようとすることの方が道徳的にいって正しくない。

 リバタリアニズムは、自己所有権を絶対不可侵の自由権として主張する。したがって、社会的不平等があるからといってこれを侵害することは許されないのだ。

 わたしの考えでは、この論争に決着をつけることは決してできない。何をもって「道徳的に正しい」というかは、結局のところ絶対には決められないような問題であるからだ。

 にもかかわらず、ロールズもノージックも、「こちらの方が道徳に正しい」「いやこちらの方が正しい」と、不毛な議論をやっている。わたしはそう思う。

 いずれにせよ、ロールズ的リベラリズムもノージック的リバタリアニズムも、どちらも、「自分が道徳的に正しいと思う」状態を仮定して、そこから議論を展開するという、きわめて恣意的な理論展開を行っているのだ。

 現代政治哲学の諸理論の多くが、不毛な議論を続けてきたとわたしが先にいった理由は、ここにある。

 では、わたしたちは何を思考の始発点にするべきか。

 わたしはそれを、ロールズのような「道徳・義務論的アプローチ」に対して(さらにコミュニタリアニズム的な「状態・事実論的アプローチ」およびローティ的な「プラグマティックなアプローチ」に対して)、「現象学=欲望論的アプローチ」として提示している。この点については、拙著『「自由」はいかに可能か—社会構想のための哲学』(NHKブックス)等に詳論したので、ご興味のある方には参照していただければ幸いだ。


 本書では、以上述べてきたことのほかに、社会の諸制度をどう作るか、また、正義にかなう社会においていかに正義感覚を養うか(道徳心理学について)、といった、興味深い論点も展開されている。

 その後無数の議論を巻き起こしたのは、本書がそれだけ網羅的・体系的に書かれた、やはりすぐれた労作であったからだといえるだろう。





(苫野一徳)

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