ヘーゲル『法の哲学』(2)


はじめに

 本書第2部において、「よさ」の本質とは「普遍的な福祉」であることが明らかにされた(ヘーゲル『法の哲学(1)』)。

 しかしそれは、ただ主観的に思い描いているだけでは、なんら現実性を持ち得ないのだった。

 そこで登場するのが、「倫理」の次元だ。前のページでもいったように、「倫理」は「よさ」を現実のものとするための制度性を意味する言葉である。

 ヘーゲルはそれを、次の3つの圏域として描き出す。家族市民社会そして国家だ。この3つの「制度性」を通して、わたしたちは真に「自由」になり、そして「普遍的な福祉」が完成することになる。

 前のページでも述べたように、本書はこの「国家」の章のために、今日きわめて評判が悪い。「君主権」を称揚し、個人的自由の上に国家を置く、「国家主義」の書だと長らく考えられてきた。

 それがある意味「誤解」であるということについては、前のページで若干述べた。思想・言論の弾圧が激しかった19世紀プロイセンにおいて、ヘーゲルはやむにやまれぬ方策として、君主権を称揚せざるを得なかったのだ。

 事実、刊行されなかった「法の哲学」の講義録には、君主権はきわめて制限された形で論じられており、むしろ議会の権限が重視されていた(この点については、福吉勝男『自由と権利の哲学――ヘーゲル「法・権利の哲学講義」の展開』世界思想社、2002年、等に詳しい)。

 ヘーゲルの新しい伝記を発表したジャック・ドントは、ヘーゲルの私的な手紙や、また彼自身が行っていた「非合法活動」を見れば、ヘーゲルを王政復古の哲学者として見ることが、どれだけ一面的なことであるかがよく分かると述べている。

 若い頃のヘーゲルは、革命家の書簡集を独訳し地下出版したこともあったし、思想弾圧によって投獄された弟子を見舞うため、銃撃を受けることも覚悟で牢獄を訪れたこともあった。思想的理由で免職された仲間の教授に、密かに支援金を送ってもいた。

 実際ヘーゲル自身も、当局からマークされていたらしい。それゆえ、前のページでも述べたように、特に「カールスバート決議」の後、彼は『法の哲学』の論調を変更することを余儀なくされたのだ。

 しかしそれでもなお、ヘーゲルは「自由主義者」であることを貫き続けた。彼の哲学が哲学史上最も難解なものになっているのは、この難解さによって、当局の目をごまかそうという意図もあったからではないかとドントはいっている。

 ともあれ、ヘーゲル哲学の中でも最も有名な箇所の1つである、「家族」「市民社会」「国家」を論じた第3部「倫理」の内容を、以下に紹介・解説していこう。


第3部 倫理

「倫理とは生きている善としての自由の理念である。」

 「道徳」の次元で明らかにされた「善」、すなわち「普遍的な福祉」は、ただそれを主観的に思い描いているだけでは、何ら現実性を持ち得ないものだった。

 「倫理」は、この「善」を現実のものとする制度性である。

「この内容は、対自的に必然的であって、主観的な意見や気ままな意向を超えて存立するもの、すなわち即自かつ対自的に存在するもろもろの掟と機構である。」
 
 これには3つの圏域がある。家族、市民社会、国家である。


第1章 家族

 家族は「愛」を基軸とする倫理の制度だ。

 「愛」について、ヘーゲルは次のような洞察を述べている。

「愛とは総じて私と他者とが一体であるという意識のことである。だから愛においては、私は私だけで孤立しているのではなく、私は私の自己意識を、私だけの孤立存在を放棄するはたらきとしてのみ獲得するのであり、しかも私の他者との一体性、他者の私との一体性を知るという意味で私を知ることによって、獲得するのである。

第二の契機は、私が他の人格において私を獲得し、他の人格において重んぜられるということ、そして他方、他の人格が私においてそうなるということである。」

 愛においては、私と他者が一体になっている。しかしなお、それぞれ別の人格であり続け、相互に深く尊重し合っている。

 この、相互に独立した人格でありつつ一体性を感じる状態、その感情を、ヘーゲルは「愛」と呼ぶ。すぐれた「愛」の洞察だろうと思う。

 さて、しかし婚姻は、ただそのような愛によってのみ結ばれるわけではない。

「婚姻は本質的に、一つの倫理的関係である。」

 なぜか。それは、「よさ」、すなわち万人の「自由」を実現するためには、やはり「制度性」が必要であるからだ。家族はこの制度性の、最も基礎を成すものなのだ。

 したがってヘーゲルは次のようにいう。

人間の客観的なつとめ、したがって倫理的義務は、婚姻状態に入ることである。

 現代からしてみればかなり古くさい価値観だが、ヘーゲルの哲学体系からいえば、まあ一定妥当な見解なのだろう。

 さて、「家族」の最も本質的な務めの1つは、子どもの「教育」にある。これもまた、「よさ」を現実のものとするために必要な1つの制度だ。

 子どもの教育には二つの使命があるとヘーゲルはいう。


一つは、家族関係からみての積極的使命、すなわち倫理性を直接的でまだ対立を含まない感情というかたちで子供のなかに作りあげ、子供の心情が、この感情を倫理的生活の根拠として、愛と信頼と従順のうちにその最初の心情的生活を送ってしまうようにするという使命である。
 もう一つは、同じく家族関係からみての否定的使命、すなわち子供を、その生来の状態である自然的直接性から抜け出させて、独立性と自由な人格性へと高め、こうして子供に家族の自然的一体性から出てゆく能力を獲得させるという使命である。」

 親は、子どもがナイーヴな我意を超え、普遍的な「よさ」へと向かっていけるよう教育する使命がある。

 しかしその一方で、この教育を通して、家族は解体される運命にある。子どもはやがて独立し、また別の家族を作っていくからだ。

 だからこそ、ヘーゲルは次のようにいう。

「概して子供は、親が子供を愛するよりは親を愛さないということである。というのは、両親は子供において自分たちの結合の客体的対象性をもつのに対して、子供は自主独立に向かって近づいてゆき、強くなり、それゆえ親を後にするからである。」

 子どもは、総じて愛と信頼の中で育まれなければならないとヘーゲルはいう。そのことこそが、他者を一個の人格として尊重するという、人間関係における「よさ」の土台を築き上げるからだ。


第2章 市民社会

 続いて、市民社会

 これは「欲求の体系」だとされる。もろもろの個人が、自分の欲求を満たすために(経済)活動に従事する。その圏域のことだ。

 しかしそのことが同時に、他者にとっての欲求満足の基礎となる。

 経済活動は、それぞれがそれぞれの仕事に勤しみながらも、それが実はお互いを支え合うことになっているからだ。

市民社会においては、各人が自分にとって目的であり、その他いっさいのものは彼にとって無である。しかし各人は、他の人々と関連することなくしては、おのれの諸目的の全範囲を達成することはできない。だからこれらの他人は、特殊者の目的のための手段である。ところが特殊的目的は、他の人々との関連を通じておのれに普遍性の形式を与えるのであり、自分の福祉と同時に他人の福祉をいっしょに満足させることによっておのれを満足させるのである。

 したがってこの圏域において、わたしたちはただ1人で存在することはできない。それゆえこの経済活動を通して得られた「資産」もまた、完全に独占することは許容され得ない。わたしの得た利益は、他者の存在があってこそ成立したものであるからだ。

 ここに、「普遍的資産」という概念が登場することになる。
 
万人の依存関係という全面的からみ合いのなかに存するこの必然性が今や、各人にとって普遍的で持続的な資産なのであり、各人は、自分の教養と技能によってこれに参与してその配分にあずかり、自分の生計を安全にする可能性を与えられている。」

 個人がどれだけの利益を自分のものにすることができるかは、それぞれの能力など条件によってバラバラだ。しかし、経済社会(市民社会)では人が1人で生きていくことは不可能だから、一定の資産は「みんなのもの」である必要がある。そうヘーゲルはいうのだ。

 この市民社会においては、おおまかにいって3つの身分が存在する。1つは農業身分、2つは商工業身分、3つは政治的な身分である。

 このうち商工業身分は、特にその成功が「偶然性」に委ねられているものだ。したがってここに、「職業団体」が登場してくる必然がある。いわば相互扶助会のことである。現代でいえば、労働組合などもこれに当たるだろ。

 ヘーゲルはいう。

家族が国家の第一の倫理的根抵であるのに加えて、職業団体は国家の第二の倫理的根抵、すなわち市民社会に根ざす根抵をなす。

 家族と同様、職業団体も「助け合い」を旨とするものだ。これはまさに、「よさ」を現実化するための「倫理」の基底だといっていい。


第3章 国家

 さて、いよいよ問題の「国家」についてだ。

国家は具体的自由の現実性である。

 ヘーゲルによれば、国家においてついにわたしたちの「自由」はその現実性を持つことになる。

 というのも、市民社会は、どれだけ「職業団体」等による助け合いがあったとしても、いまだ偶然の破産などを免れない不安定な圏域であるからだ。それは畢竟、放埒な「欲求の体系」なのであって、熾烈な競争社会であることを免れない。

 そこで国家が、この熾烈で不安定な競争(ゼロサムゲーム)に「キャップをはめる」。

 このような「国家」観は、きわめて妥当なものだとわたしは思う。

 それゆえ「愛国心」とは、本質的にはそのような国への「信頼」のことである。そうヘーゲルはいう。

「愛国心といえばしばしばもっぱら、異常な献身や行為をしようとする気持だと解される。しかし本質的には愛国心は、平常の状態や生活関係において、共同体を実体的な基礎および目的と心得ることを、ならいとしている心術である。

「この心術は、総じて信頼であり、〔中略〕私の実体的で特殊的な利益が或る他者の利益と目的のうちに、すなわち個としての私に対するこの他者の関係のうちに、含まれ維持されている、という意識である。」

 現代における「愛国心教育」をめぐる問題に、カタをつけられそうなすぐれた洞察だとわたしは思う。

 愛国心は、国家によって子どもたちに押しつけられるようなものではない。むしろ国家こそが、「普遍的な福祉」を体現できる制度性として、信頼に値するよう努めなければならないのだ。


君主権について

 さて、問題の「君主権」に進もう。 

「絶対的な決定を行なうところの全体のこの契機は、個体性一般ではなくて一個の個体、すなわち君主である。

 国家には、これを担う一個の人格がいる。そうヘーゲルはいう。したがって、国民主権はあり得ない。

「君主主権に対立させられた国民主権は、国民についてのめちゃな表象に基づく混乱した思想の一つである。国民というものは、君主を抜きにして解されたり、まさに君主とこそ必然的かつ直接的に関連している全体の分節的組織を抜きにして解されたりする場合は、定形のない塊りであって、これはもはや国家ではない。」

 ヘーゲルが、思想・言論の弾圧の下をかいくぐろうとしていたのだということを、改めて思い起こしていただきたい。

 実際、君主にこそ主権があるというこの主張は、万人の自由の実現というこれまでのヘーゲルの理論に矛盾している。なぜ国家は一個の人格によって代表されなければならないのかという、その点についての論理的な根拠も欠いている。

 しかしヘーゲルは、どれだけ君主権を称揚しようとも、本書で次のようにいうことを忘れてはいない。

そうは言っても、君主は恣意的に行動してもよいというのではない。それどころか君主は審議の具体的内容に縛りつけられているのであって、憲法がしっかりしていれば、君主にはしばしば署名するほかにはなすべきことはない。しかしこの名前が重要なのであって、それは越えることのできない頂点なのである。

君主はただ「然り」と言って、画竜点睛の最後のピリオッドを打ちさえすればいいのである。
しっかりした秩序をそなえた君主制においては、客観的な面は当然法律にだけ帰属し、君主はただこの法律に主体的な「われ意志す」をつけ加えさえすればいいのである。

 君主は、ただ「然り」といってサインだけしていればいい。そうヘーゲルはいうのだ。

 本書では、君主権のほかに統治権(行政権)と立法権(議会)についても論じられているが、ここでは割愛する。


対外主権について

 最後に、ヘーゲルの考える「対外主権」について紹介しておこう。ヘーゲルびいきのわたしだが、これについては、実は「君主権」より問題の多い箇所なのではないかと考えている。

 「戦争」について、ヘーゲルは次のようにいっている。


戦争によって、諸国民の倫理的健全性は、もろもろの有限な規定されたものが不動のものになることに対して彼らが執着をもたなくなるために、維持されるのである。これは風の運動が海を腐敗から防ぐのと同様である。持続的な凪は海を腐敗させるであろうが、永久平和は言うまでもなく、持続的な平和でさえも、諸国民を腐敗させるであろう。」


 戦争によって、人は倫理的健全性を保ち続けることができる。そうヘーゲルはいうのだ。さらに彼は次のようにもいっている。

「戦争の結果、民族はただ強くなるだけではない。国内において反目している国民は、対外戦争によって国内の平穏を得るのである。

 外に敵を作ることで、内を団結させる。この為政者のお決まりの手法を、ヘーゲルはむしろ称揚している。

 しかしこのヘーゲルの思想は、「全面戦争」の時代を経たわたしたちからすれば、到底受け入れられるものではないだろう。国内の士気を高めるための戦争など、今ではもう不可能なのだ。

 ヘーゲルは、カントが提唱した「永遠平和」もまた、幻想だと次のように切り捨てる。

カントは国家連合による永久平和を思いえがいた。彼は国家連合が、あらゆる争いを仲裁してくれ、各個別国家によって承認された威力として、あらゆる軋轢を調停してくれ、したがって戦争による解決を不可能にしてくれるだろうと考えた。しかし、この考えが前提としている諸国家の同意は、道徳的、宗教的な根拠や考慮に基づくにせよ、あるいはどんな根拠や考慮に基づくにせよ、なんといっても所詮は、特殊的な主権的意志に基づくものであろうし、そのためどこまでも偶然性にまとわれたものであろう。

 国際法は、互いに「条約を守るべし」と命令する法である。しかしこの「条約を守る」動機を失った時、各国は互いに争い合うほかに道はない。国際法は、国内法が市民社会に対して持っているような強制力を、原理的に持ち得ないのだ。

 しかしだからこそ、カントは国際連合を構想したのではなかったか。そしてその上で、国際法にこれまで以上の実効性を与えようと考えたのではなかったか(カント『永遠平和のために』のページ参照)。

 そのようなカントの構想を、ヘーゲルのようにユートピアと切って捨てるわけにはいかないのではないか。わたしはそう思う。

 本書の最後には、これまで述べてきた「倫理」(家族、市民社会、国家)のあり方が、歴史を通してどのように進展してきたかが述べられる。

 その進み行きは、1、東洋的治世、2、ギリシア的治世、3、ローマ的治世、4、ゲルマン的治世、となる。

 ヘーゲルは、これが「自由」がより現実のものとなる進み行きだと主張するのだが、この点についてはヘーゲル『歴史哲学講義』のページに詳しく書いたので、そちらを参照していただければと思う。




(苫野一徳)


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