ヘーゲル『法の哲学』(1)


はじめに

 超難解で知られるヘーゲル哲学。

 本書もまた、独自の「ヘーゲル語」になじみのない読者にとっては、通読するのがきわめて困難な本になっている。

 しかし私の考えでは、本書は法・政治哲学の比類なき最高峰である。

 近年、このヘーゲルの偉業は、再び現代政治哲学においても注目を集めるようになっている。

 しかし、本書は実は、現代哲学においては長らくあまり省みられることのないものだった。

 その大きな理由の一つは、本書が「君主権」を称揚し、個人の「自由」の上に「国家」を置いた、君主礼讃にして国家主義の書と考えられてきた点にある。

 確かに本書には、そのような「匂い」がある。しかしその一方で、近年の研究は、それがヘーゲルの「やむにやまれぬ方策」であったことを、これまで十分に明らかにしてきた。

 本書が刊行されたのは、19世紀の専制国家プロイセン。思想・言論の自由が、厳しく統制されていた時代である。

 「法の哲学」の講義を、ヘーゲルはハイデルベルク大学とベルリン大学で計7回行っているが、実は現存している最初の頃の講義録には、君主権の礼讃も国家主義的な表現も、本書とは違ってほとんど見られない。

 それが突如「国家主義」的匂いを帯び始めるのは、1819年の「カールスバート決議」の後のことだ。フランス革命の後、ヨーロッパ中に自由主義の波が押し寄せていたのに対抗して、ドイツ連邦各国はその弾圧に乗り出したのだ。

 この決議を受けて、ヘーゲルの友人や教え子たちも、何人か投獄されることになる。ヘーゲルとしても、自らの自由主義者としての主張を、一定弱めざるを得なかった。

 確かに、本書には古めかしい「国家主義」の匂いが漂っている。しかし以上のようなわけで、ヘーゲルの真意を汲み取ろうとするならば、その点、ある程度は差し引いて考えた方がいいのではないかとわたしは思う。

 しかしいずれにせよ、本書は法・政治哲学の大金字塔だ。本書を熟読すれば、現代政治哲学の諸議論が、すべてヘーゲルの手の内にあるような印象さえ受ける。実際、現代政治哲学の議論の多くは、ヘーゲルがすでに解決済みのことを、いまだぐるぐると考えつづけているようにわたしには見える。(詳細は現代政治哲学の諸ページを参照。)

 ヘーゲルの強靭な思索を十分に味わえる、哲学史上不朽の名著。

 長大かつきわめて内容豊富な著作のため、以下2回に分けて、紹介・解説していくことにしたいと思う。


1.本書の構成

 本書の内容に入る前に、まず全体の構図をつかんでおこう。

 ドイツ語のRechtには、「法」「正義」「権利」などの意味がある。英語でいうrightとほぼ同じ意味の言葉だ。

 だから本書は、「法律」の哲学というわけではない。

 「よい」とは何かを解明し、そしてその上で、この「よい」を可能にするための政治や国家のあり方を明らかにしたものだ。

 構成は以下の通り。


緒論

第1部 抽象的な権利ないし法
第1章 自分のものとしての所有
第2章 契約 
第3章 不法


第2部 道徳
第1章 企図と責任
第2章 意図と福祉
第3章 善と良心


第3部 倫理
第1章 家族
第2章 市民社会
第3章 国家


 3部構成はヘーゲルのお得意技で、いわゆる弁証法的な論理展開となっている。一般に、正→反→合、と言われる論理展開だ。

 第1部では、抽象的な「よさ」というものの本質が論じられる。しかしこれはまだあくまでも抽象的なもので、このレベルにおいて、人びとには「よさ」に対する自覚があまりない。

 そこで第2部の「道徳」のレベルにおいて、「よさ」を自覚した精神が語られる。しかしこれは、あくまでも「この私」にとっての「よい」にとどまりがちで、それゆえ社会における現実性を欠く。

 というわけで、第3部の「倫理」のレベルにおいて、「よさ」を現実のものにするための社会制度が語られる。

 ヘーゲルの用語では、「倫理」(Sittlichkeit)は内面的な「よさ」を表す「道徳」(Moralität)とは区別され、「よさ」を現実のものとするための、制度性を意味する言葉になっている。

 本ページでは、以下、有名な序文と緒論に続けて、第1部と第2部を紹介・解説していこう。


0.序文

 本書序文で、ヘーゲルは哲学とは何かを語る。

すなわち、哲学は、理性的なものの根本を究めることであり、それだからこそ、現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではないということである。


 哲学は、徹底して問題の本質(=現実)を洞察するものだ。それは決して、「こうあったらいいな」という、夢想を描くようなものではない。


理性的であるものこそ現実的であり
現実的であるものこそ理性的である

 しかしこの「現実」の洞察において、哲学はいつも「来訪が遅すぎる」。哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現われるからだ。

 こうしてヘーゲルは、次の有名な言葉を述べる。

ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる。


0.1 緒論

 「緒論」においては、わたしの見るところ、哲学史上最も原理的な「自由」論が展開されている。まずヘーゲルは次のようにいう。

法の地盤は総じて精神的なものであって、それのもっと精確な場所と開始点は意志である。これは自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定をなす。そして法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である。

 法(権利/よさ)は、自然法則とはまた異なった本質を持っている。つまりそれは、精神的なものである。

 そして精神とは自由な意志のことである。わたしたちは、やはり自然法則とはまた別に、自らの自由な意志を持って生きているからだ。

 だから「法」を考えるにあたっての出発点は、この自由な意志を置いてほかにない。

 ではこの自由な意志とはいったい何か。ヘーゲルは次の3つの契機を描き出す。


意志は〔α〕自我のまったくなんともきめられていない純粋な無規定性、すなわち、おのれのなかへ折れ返る純粋な自己反省、という要素をふくむ。」


 自由な意志は、まず、「だれにいわれようが自分は自分だ!」と、自らの無規定性を主張するものとしてある。

 しかしそれはあまりにナイーヴな生き方だ。実際問題、あらゆる制限からの解放などということはあり得ない。

 そこで自由の2つめの契機がやってくる。

自我はまた、区別なき無規定性から区別立てへの移行であり、規定することへの、そして、ある規定されたあり方を内容と対象として定立することへの移行である。

 自らを規定されたものとして認識すること。これが、自由な意志の一歩進んだあり方だ。

 しかしその上で、自由な意志は、自分がこの規定性を乗り越えられる存在であることにも気づくことになる。

意志は、この〔α〕と〔β〕の両契機の一体性である。すなわち、特殊性がそれ自身のなかへ折れ返り、このことによって普遍性へと連れ戻されたあり方、つまり個別性である。」

 特殊性―普遍性―個別性、というのは、ヘーゲル弁証法における有名な用語だ。

 まず、何ものにも規定されていないと思い込んでいる「特殊性」としての自我がある。しかしやがて「普遍性」を知るに及んで、自我は、「普遍性」の中における「個別性」であることを知る。「特殊性―普遍性―個別性」は、そういう自我の成長プロセスを描き出したものだ。

 こうして自由とは、ただ「自分は自由だ!」とナイーヴに主張するところにあるのでもなければ、「自分は結局制限された存在なんだ」とふてくされる(?)のでもなく、この両者を十分自覚した上で、なお「選択可能」であり「決定可能」であるところにあるものとして描かれる。

自我は、私をこの内容とか、あの内容とかに、規定する可能性である。すなわちこれらの、自我にとってはこの面からいえば外的なもろもろの規定のなかから、選択する可能性である。

 さて、そう考えると、「自由とはやりたいことが何でもできることだ」という、世間一般でいわれる「自由」の概念は、実に浅い考えだということになる。ヘーゲルはいう。

「まさしく恣意のうちにこそ、彼は自由でないということが存するのである。

 なぜか。それは、「恣意」(ほしいまま/やりたい放題)とは結局のところ、あらゆる選択肢の前に何も決意することなく身を委ねることであるからだ。それは偶然だのみの運任せであって、決して「自由」とはいえないのだ。

 ヘーゲルの用語を使ってわたしなりにいうと、「自由」とは「諸規定性における選択・決定可能性」のことだ。やりたい放題でも一切の束縛からの解放でもない。自我がさまざまな規定性に制限されていることを十分自覚しながら、なおそこにおいて選択・決定が可能である時、わたしたちは自らを「自由」であるといえるのだ。


 わたしの考えでは、このヘーゲルの「自由」論は、現代政治哲学におけるさまざまな「自由」論に比べて、圧倒的に原理的なものになっている。

 たとえば、現代「自由」論といえばいつも真っ先に取り上げられるのはバーリンの「自由」論だが、彼の展開した自由論、とりわけ有名な「消極的自由」の概念は、ヘーゲルにいわせれば所詮は「無規定性」の主張にすぎず、決して「自由」の本質ということはできない。(バーリン『自由論』のページ参照)

 肯定的であれ批判的であれ、いまだバーリンの「自由」論を土台に展開されることの多い現代の「自由」論は、したがって、ヘーゲル的にいえば「自由」の「表象」(浅薄なイメージ)を云々しているだけであって、「概念」(本質的な思考)に到達していない。わたしはそう考えている。

 現代「自由」論は、ヘーゲルを土台に、もう一度最初から立て直す必要がある。来年(2014年)にはそのための本を出版予定だ。


第1部 抽象的な権利ないし法

 さて、以上のような仕方で、自らを「自由」な意志として認識した精神は、やがて自らが一個の「人格」であるということに気づくようになる。

 そしてまた、他者も自分と同じ一個の「人格」であると気がつくようになる。

 こうして抽象的な法(よいこと)が現れる。それは次のような命題となる。

「一個の人格であれ、そして他のひとびとをもろもろの人格として尊敬せよ。

 ヘーゲル政治哲学のキモである、「相互承認」の原理がいい表された一文だ。


第1章 自分のものとしての所有

 わたしたちが「一個の人格」であるためには、それを現実のものにする土台がなければならない。ヘーゲルはそれを「所有」に見る。

「自由の見地からすれば、自分のものとしての所有こそ、自由の第一の現存在として、本質的な目的それ自身なのである。


第2章 契約

 続いて、この「所有」を基礎に現実化される「人格」は、対等な人格間同士で「契約」を行うことになる。

「契約というこの関係は、それぞれ対自的に有る二人の所有者たちの絶対的な区別のなかで同一的な意志の媒介である。」


第3章 不法

 このような契約関係が生じて初めて、わたしたちは「不法」ということを語ることができるようになる。いい換えれば、契約なきところに「不法」はない。

 
第2部 道徳

 さて、以上述べてきたことは、ヘーゲルにいわせればあくまでも「抽象的」な「よさ」にすぎない。それは単に「決まりごと」という程度の「よさ」であって、そのことが本当に「よい」ことかどうか、自らの内で内省してはいないからだ。

 こうして、次の次元である「道徳」が登場してくることになる。これは、「よい」とされることが本当に「よい」ことなのかどうか、自分の内側で確かめようとする精神の段階だ。


第1章 企図と責任

 この「道徳」の次元において、わたしたちはまず、自分の行為のよしあしについて、ちゃんと自分で反省しているかどうかという問題に行き当たる。

 この自分の行為を見通すことを、ヘーゲルは「企図」という。そしてまた、この「企図」あるところに「責任」が存在するのだと。

 いい換えれば、自分が何をやっているのか分からない、またその結果がどうなるかまったく考えることのできない人に、「責任」は存在しない。あるいはかなり軽減されるということになる。


第2章 意図と福祉

 この「企図」が、より見通しを広くして、自分の行為が他の人びとにとってどのような影響を持つのかということまで考えられるようになった次元を、ヘーゲルは「意図」と呼ぶ。

「意図の権利とは、行為の普遍的な質がただ即自的に有るばかりではなく、行為する者によって知られること、したがってもう彼の主観的な意志のなかにふくまれていたということである。」

 この次元における「よさ」は、わたしの行為が「万人の福祉」につながればいいなという、ナイーヴではあるがかなり普遍性をめがけたものになる。

「この契機は、さしあたりまずそうした特殊性そのものに即して定立されたものとしては、他の人たちもふくめた福祉であり、――十全な、だがまったく空虚な規定でいえば、万人の福祉である。」


第3章 善と良心

 第2部「道徳」の白眉は、なんといってもこの第3章だ。

 先にみたように、「道徳」の次元において、わたしたちはついに、すべての人にとっての「よさ」こそが「善」であるという認識を持つに至る。

 いい換えれば、「善」とは「普遍的な福祉」(allgemeines Wohl)のことなのだ。

この理念のなかで、福祉は、個別的特殊的な意志の現存在としてはなんらそれ自身の妥当性をもたず、ただ普遍的な福祉としてのみ、そして本質的にはそれ自身において普遍的なものとして、すなわち自由ということからいって妥当性をもつ。」

 このような普遍的な善をめがける心性を、ヘーゲルは「良心」と呼ぶ。

 しかしこの「良心」は、「道徳」の次元にとどまる限り、いまだ十分な「良心」ということはできない。ヘーゲルはそう主張する。

 なぜならそれは、あくまでも「このわたしの」良心にとどまるからだ。

 それゆえそれは、時に「悪」へと転倒することになる。

 この「悪」には、次の5パターンがあるとヘーゲルはいう。

〔a〕まずは、悪いことと知りつつも、やましさをもって「悪」を欲しまたなしてしまうもの。これはまだ可愛いものだとヘーゲルはいう。

〔b〕次に、「悪をまず第一に他の人たちにとっては善であると主張し、自分は総じて外面的には善で、良心的で、敬虔である等々のふりをする」もの。これが「偽善」のはじまりだ。

〔c〕この「偽善」を、何らかの「権威」を借りて正当化しようとするものもある。これをヘーゲルは、「蓋然性」と呼ぶ。「権威」を借りたところで、その偽善が本当に正当化されるかどうかは、蓋然的であるからだ。

〔d〕「偽善」を、「権威」を借りず自分自身で正当化しようとするものもある。たとえば、貧しい人たちに親切をほどこすためには盗んでもかまわない、とか、復讐のためなら人を殺しても構わない、とかいった具合に。

〔e〕最後にヘーゲルは、「良心」が「偽善の悪」に転倒した最高のレベルのもの――というのは「最悪の」という意味――について述べる。

 それをヘーゲルは、「イロニー」と呼ぶ。それは、この世の善悪なんて、結局主観的なものであって絶対的ではない、ということを自覚している精神だ。そしてそればかりでなく、「だからお前のいう善など、お前の自己満足なんだ」と、ただひたすら指摘し続ける精神だ。

イロニはただ相手の人たちに反対する談話の態度にだけかかわる。

 イロニーは、この世の善悪など相対的なものだということを、「このわたしは知っている」とエラそうに主張する。しかしその理屈に従う限り、そう主張する彼自身が、実はこの相対化の中で行き詰まることになる。

「この形態の主観性はまた、自分自身をいっさいの内容のこうした空虚さとして知り、この知のなかで自分を絶対的なものと知るという形式、つまり主観的空虚さをもつけ加えるのである。」

 現代思想に150年先駆けて、すでに多くの現代思想を先取りして批判したような指摘だ。

 このブログでもたくさんの現代思想家を取り上げてきたが、その多くは、一切を「相対化」する論理を展開するに終始した。しかしそれは、結局のところ自家撞着に陥らざるを得ない。だからこそ「脱構築」をし続けなければならない、などといっても、ヘーゲル的にいえばそれは「空虚」な主張といわざるを得ない。

 重要なことは、あらゆる善悪が相対的であることなど織り込み済みの上で、なお、「普遍的な福祉」は現実的にいかに可能かと問うことなのだ。

 こうしてヘーゲルは、続く第3部「倫理」において、この問いの探究に挑むことになる。





(苫野一徳)

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