デューイ『公衆とその諸問題』


はじめに

John Dewey 1927年に刊行された本書。

 かつてアメリカの民主主義は、互いの顔の見える、狭い地域共同体において可能になっていた。

 ところが今日、「大社会」(great society)の到来によって、人びとはきわめて広範囲な、複雑化した社会の中で生きている。

 そのような、互いの顔も見えず、共通の関心事も持たない人びとからなる社会においては、力をもつのは一人ひとりのたしかな意見ではなく、雰囲気に流されやすい「世論」となる。

 デューイと同時代のアメリカのジャーナリスト・リップマンは、この「世論」がいかに操作性の高いものであるかを指摘し、現代社会における民主主義の危機を論じた(リップマン『世論』のページ参照)。

 本書は、このリップマンの指摘への1つの応答として書かれたものである。

 リップマンは、もはや「公衆」には期待し得ないとして、専門家への期待を表明した。それに対してデューイは、それでもなお、民主主義を担うべき「公衆」に期待を寄せる。そして本書において、その期待を実現させるための方途を提起する。

 社会的探究の自由と、その普及の自由を徹底しよう。

 それが、本書におけるデューイのメッセージだ。

 操作的な世論の前に膝をつくのではなく、各人が自由に物事を探究し、それを相互に交換し合う。そのような過程をより豊穣化させたなら、公衆はふたたび、互いに協同し合い、民主主義の主役としての地位につくはずだ。

 やや楽観的にすぎる考えではあるかもしれないが、しかしそれでもなお、このデューイの思想は、今日なお真剣に省みられるべきものだと思う。


1.公衆とは何か


 人は社会において、相互にかかわり合っている。

 このかかわりにおいて、何らかの組織的配慮を必要とするようになった人びとを、デューイは「公衆」(the public)と呼ぶ。


公衆とは、相互のやりとりの間接的な諸帰結によって、組織的配慮を要すると思われるほどにまで、影響を被る人々すべてから成り立っている集まりである。」

 したがってその定義上、公衆は必ず何らかの「公職者」を必要とする。そしてこのような公職者を要求する「公衆」から成り立つ社会が、「国家」と呼ばれる。


2.従来の国家理論批判

 ところが従来の「国家」論は、その必要性・必然性を、形而上学的な根拠に求めるものがほとんだった。デューイはそう指摘する。

「つまり、神は、堕落した人類という材料を通じて、頽廃した人間という素材にとって無理のないような神聖な秩序と正義というイメージを再生産し、この神の意思の中に国家創造者をみるというわけである。また、国家創造者なるものを、相集い合う諸個人の意思の出会いの中に求め、その意思が契約しあうことによって、あるいは、相互に忠誠を誓うことによって、国家は存在するにいたると考える者もいる。さらには、個別の人間内部に宿る普遍的な意思として、一つの自立的で超越的な意思が、あらゆる人間のうちに具現されていると考え、この意思のうちに国家創造者を見出す者もある。」

 しかしわたしたちは、このようなフィクションをもって、国家の目的や機能を考えてはならない。政治哲学は、社会における「観察可能な事象」を把握し、そこから、社会をどのように構想していくべきかを考える必要がある。デューイはいう。

「国家一般とは何であるべきか、また、何であらねばならないかを確定することは、政治哲学や政治学の任務ではない。政治哲学や政治学がなしうることは、実験方法の創造を後押し、そのことで、実験が、なるべく判断力を失わないように、また、なるべく偶然に左右されないように、さらには、より知的に遂行されるようにし、そのことで錯誤から学び、成功から恩恵を得るようにすることである。

「実り多い社会的探究を導き、実行していくために必要なのは、観察可能な行為とその結果との間の相互関係を基礎にして行われる方法なのである。」

 ちなみにこの点、わたしは若干デューイに批判的だ。

 確かに、キリスト教的国家観や、どの程度本気でいっていたかは別にして、デューイも本書で批判的に取り上げている、ヘーゲルのいうような「絶対精神」の一種の具現としての国家といった国家論は、検証不可能なフィクションというべきだ。

 しかしそれでもなお、「国家一般とは何であるべきか」を探究することは、デューイのいう「観察可能な人間関係の相互作用の分析」と同時に、哲学の重要な使命だとわたしは思う。

 単に人間関係の相互作用の分析をしていただけでは、「ではその上で社会をどうすればよいか」という問いに、答えることは不可能であるからだ。


 どれだけ事象を分析しても、ではその上で社会をどうすれば「よい」といいうるかという問いについては、また次元の異なった考察を必要とする。

 わたしの考えでは、このいわゆる「事実と価値」の隔たりを架橋する理論が、デューイには欠けている。わたしたちは、「観察可能な事象」に基づきながらも、その上でなお、「どのような国家・社会を『よい』といいうるか」という、すぐれて「哲学」的な問いを手放すことはできないはずなのだ。


 他のデューイのページでも述べたように、デューイのプラグマティズムは、それまでの社会や教育等の「究極目的論」を相対化するあまり、ではどのように社会や教育の「よさ」の指針を打ち出しうるかという点について、残念ながらあまり説得的な考えを打ち出すことができなかった(デューイ『経験と教育』『人間性と行為』のページほか参照)。

 わたしはそう考えているが、こうしたデューイ哲学も含む政治哲学諸理論の方法上の問題点、およびこれら問題を克服するためのメタ方法論について、かつてわたしは、『「自由」はいかに可能か―社会構想のための哲学』(NHKブックス、2014年)などに詳論したことがある。ご興味のある方がいらっしゃれば、ご一読いただけると幸いだ。


3.公衆の衰退

 それはともあれ、デューイは本書において、以上述べてきたような公衆が、現代社会においては衰退していると指摘する。

 リップマンがいったように、このきわめて巨大化・複雑化した社会においては、だれもが共通の関心事に同じように心を砕くということができなくなってしまったからだ(リップマン『世論』のページ参照)。

 その結果、気分に流されやすい「世論」が社会を支配することになる。現代社会はもはや、自らの頭でしっかり考え、互いの共通の関心事を論じ合うような、「万能な市民」たちからなる社会ではなくなったのだ。

 リップマンはこのことに強い危機感を覚え、「公衆」よりもどちらかといえば「専門家」に期待を託した。

 他方デューイは、それでもなお、民主主義を支える「公衆」にこそ期待し、そしてそのための方途を思索する。


4.グレイト・コミュニティ

 そこで彼が提唱するのが、「グレイト・コミュニティ」の思想である。

 リップマンがいうように、現代はたしかに「グレイト・ソサエティ」(大社会)の時代、つまり、組織化されていない烏合の衆が社会の中心を占める時代である。その結果、人びとは雰囲気に支配される「世論」に軽々と流されることになる。それは「自己統治」を旨としてきた民主主義の危機である。

 この「グレイト・ソサエティ」を、いかにして、相互に交流し合い、互いの問題を共に協同して解決し合おうとする、「グレイト・コミュニティ」へと展開していけるか。

 これが、本書におけるデューイの最大の関心事だ。

 そこでデューイは、次のようにいう。

「疑う余地なく必要な条件は、社会的探究の自由であり、そこから得られた結論を人々に広める自由である。」

必要にして不可欠なことは、討論と議論と説得の方法と条件を改善することである。これこそ、公衆にとっての真の課題である。既に主張したように、この改善は、本質的に、探究過程とその結果の普及過程を自由にし、完成することにかかっている。」

 探究の自由とその普及の自由。この過程を豊かにしていくところに、人びとが協同し合える「グレイト・コミュニティ」が可能になるはずだ。デューイはそう、希望をもって主張する。

 それは、身近な他者たちが集う地域共同体の国家的拡大版である。

民主主義は、発祥地で始めなければならない。民主主義の発祥地とは、隣人たちのコミュニティにほかならない。
 
 そしてデューイは、現代社会の進展に、その可能性の一端を見る。

「画一性と標準化は、個人の潜在能力を多様化し解放するための基礎を下から支えるかもしれない。画一性と標準化が、生活のうち機械を使う分野で当たり前のものとなれば、それは無意識的な習慣作用の領域にまで沈潜し、個人の感受性と素質の豊能で安定的な開花を促す土壌を形成するかもしれない。流動性にしても、最終的には、遠く離れた間接的な相互作用と相互依存がもたらす成果を、地元地域の生活に環流させる際の手段を提供するかもしれないし、地域生活を柔軟なものにし、過去の安定性に付随していた停滞を防ぎ、さらには、変化に富み、多様な色合いのある経験の諸要素を提供するかもしれない。組織も、目的それ自体と理解されることはなくなるかもしれない。そうなれば、組織は、もはや機械的なものでも外在的なものでもなくなるだろうし、芸術的才能の自由な活動を妨げることもなげれば、男女を画一性の鎖で縛ることもなく、したがって、自己完結体としての組織の自動運動に適合しないもの一切を放棄することには、つながらないだろう。」

 画一化も標準化も、ここでは悪い意味でいわれているわけではなく、相互コミュニケーションのインフラが整うことと解釈することができるだろう。

 そしてそのインフラを基礎にして、さまざまな人が流動的に交流しあう社会。

 デューイが夢見たのはそのような社会の姿だったが、今日それは、インターネット社会の到来によって、十分に可能になっているように思われる。

 インターネットをインフラとして、今後いかに、デューイのいう探究の自由とその普及の自由をより一層充実させうるか。

 ここに、今こそわたしたちがデューイの思想を引き継いで考えるべき、現代社会の重要な課題がある。



(苫野一徳)


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