リップマン『世論』


はじめに

ファイル:Walter Lippmann 1914.jpg アメリカジャーナリズム界の長老と呼ばれたリップマン。20世紀最高のジャーナリストとも讃えられている。

 彼の思想形成に大きな影響を及ぼしたのは、アメリカの第1次世界大戦への参戦だった。本書において、彼はいう。

「政府はこの時期に、全米にわたってほとんど一つの世論と呼んでもよいようなものを作り出そうと努力していた。」

 デモクラシーは、人びとが自らの頭で考え自らの意志を表明するところに成り立つ。しかし、あまりに巨大で複雑化した現代社会において、それはもはや不可能になった。人びとは、事実それ自体を知ることも、それに基づいて自分の頭で考えることももうできない。

 わたしたちは、事実ではなく与えられた環境のイメージ(これをリップマンは疑似環境という)をばくぜんと見、そして与えられたステレオタイプにしたがって物を見ているにすぎないのだ。

 それゆえリップマンは、大衆への過度の期待をあきらめ、いわば「専門知のネットワーク」のようなものをつくり上げ、世論操作的になりがちなニュースを補完し、わたしたちの判断をできるだけ妥当なものにしていこうと考えた。

 こうした現代デモクラシーに対する悲観的なまなざしには、その後、公衆への期待をどこまでも持ちつづけたデューイから、批判が寄せられることになる(デューイ『公衆とその諸問題』のページ参照)。

 しかし両者はともに、「自己統治」が困難になったこの「大社会」において、いかにデモクラシーを十全に機能させうるかと考えた点においては、共通していたといっていいだろう。

 豊富な知識・事例とともに論じられた本書は、今なお「世論」研究の金字塔にして、現代のわたしたちにも多くの示唆を与えてくれる名著である。


1.疑似環境

 メディアリテラシーを一定身につけた現代のわたしたちは、報道というものが、中立的で客観的なものでありうるとはもはや考えていないだろう。

 リップマンもまた、そのことを本書において繰り返し強調する。

「われわれの世論が問題とする環境はさまざまに屈折させられている。」

 これをリップマンは、「疑似環境」と呼ぶ。わたしたちが見ている世界は、真実そのままではあり得ない。


2.ステレオタイプ

 この疑似環境の中で、わたしたちはさまざまな「ステレオタイプ」にとらわれながら生きている。リップマンはいう。

われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。

 わたしたちは、いつのまにかわたしたちの中にすりこまれていたさまざまなステレオタイプ、つまり自分たちの色めがねを通して現実を見ているのだ。

 この事実を、わたしたちはまずは受け入れる必要がある。そうリップマンはいう。このことの自覚こそが、わたしたちが自らの認識を自己修正する可能性を生むからだ。


われわれの哲学が、それぞれの人間は世界の小さな一部分にすぎないこと、その知性はせいぜいさまざまな観念の粗い網の中に世界の一面と要素の一部しか捉えられないのだと語るとしたらどうだろう。
 そうすれば自分のステレオタイプを用いるとき、われわれはそれがたんなるステレオタイプにすぎないことを知り、それらを重く考えずに喜んで修正しようとするだろう。」

 また、自分がつねにステレオタイプによって物を見ているのだと自覚することで、わたしたちは他者に対して寛容になることもできる。

自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない。


3.「世論」とは何か

 いうまでもなく、人はあらゆる点において千差万別だ。にもかかわらず、なぜ「世論」などというものが生じるのだろうか。

 リップマンはいう。その本質は情緒にある、と。


「人間の文化の構造全体は、ある意味で刺激と反応とによって練り上げられたものであって、原始的な情緒喚起能力がその中心部に、かなり固定した状態で残っている。」

「場合によって異なるがそれぞれの限界内で、情緒は刺激と反応の双方に関して移行が可能である。したがって、それぞれ異なる反応傾向をもつ多数の人びとの中で、その多くの人たちに同一の情緒を喚起するような刺激を見出すことができるなら、当初の刺激に代えてそれを充当することができる。」

 このように情緒的なものである以上、「世論」は実態のつかめない、実にふわふわしたものといわざるを得ない。

 したがって有能な「指導者」は、この「世論」を、把握するというよりはむしろつくり出す。

自分たちは一般の人びとの心の中にある計画を表面化しただけだ、と指導者たちはよく言う。もし彼らがそう信じているのなら、ふつうは思い違いである。」

「つまり、漠然と感じている人たちの漠然とした感情か言葉におきかえられるならば、人びとは自分の感じていることをより明確に知るだろうし、そうなればもっと明確にそれを感じることになるということである。こうして大衆感情に触れている指導者たちは、このような反応に気づくのが早い。」

 わたしたちは多くの場合、「これが自分の望んでいることだ!」と明確に自覚しているわけではない。むしろ、「これがあなたの望んでいたことでしょう?」と問われた時に、「そうだ、これだったんだ」と(操作されて)自覚する。有能な指導者は、このようなまさに世論操作的な手腕に長けた人たちだといえるのだ。


4.民主主義理論の誤り

 以上のようにみれば、従来の民主主義理論には重大な欠陥があったことを認めざるを得ない。リップマンはそう主張する。

 従来の民主主義理論は、「万能な市民」を前提としていた。人びとは自発性をもち、自らの意志をもち、そうやって相互に交流することで、よりよい民主的な社会が築かれていく。そう考えられていた。

 しかし現代において、そのような前提はもはや通用しない。

市民は等しく万能であるとするこの理論に重大な支障をきたしたのは、この民主主義のステレオタイプが広い範囲に適用され、人びとが、複雑な文明を眺めた目で囲いこまれた村を見るようになってからである。

 「万能な市民」を前提していた従来の民主主義理論は、それゆえ権力の「起源」にのみ関心を注いできた。正当かつ有能な権力者を選ぶことさえできれば、あとはうまくいくと考えたのだ。

民主主義の論理上の欠点は、政治の過程や結果よりも政治の起源に気をとられたことにあった。〔中略〕しかし、水源でどれほど調整しても川の流れを完全にコントロールすることはできない。〔中略〕もっとも重大な関心はその権力がいかに用いられるかにある。」

 権力の「起源」にのみ関心をもつ民主主義理論は、人間のより幅広い関心を考慮に入れることができなかった。リップマンはそう主張する。人間が関心を持つのは、ただ政治的な「自治」のみではない。


「人間の尊厳を自治に関するただ一つの仮定に托すばかりでなく、人間の尊厳は人間の可能性が適正に行使されるようなある生活水準を要求するのだ、という考え方を打ち出すなら問題は一変する。
 そのとき政治を評定する規準は、その政治が最低限の健康、適切な住居、必需物資、教育、自由、娯楽、美しさを生み出すかどうかということであって、このようなものすべてを犠牲にして、その政治がたまたま人びとの頭に浮かんできた自己中心的意見に反応して揺れ動くかどうかということだけではない。」

「人びとが自治を願うのは、自治のもたらすさまざまな結果のためである。

 市民万能説と、自治に関心を集中させた民主主義理論を、バージョンアップする必要がある。リップマンはそう主張するのだ。


5.専門家のネットワークとそのコントロール

 そこでリップマンが提案するのが、わたしなりにいうと、「専門家のネットワークとそのコントロール」の仕組みづくりだ。

「われわれの注意が及ぶ領域はかなり狭く限られているが、その領域外の社会をどれだけ支配できるかは、生活上のさまざまな規準を設定できるかどうか、官吏や工場監督たちの行為を評定する監査方法を考案できるかどうかにかかっている。〔中略〕そうした行為がすべてそのまま記録され、その結果が客観的に測定されなければならないと主張することによって、このような行為に対するわれわれの実際的支配力を着実に増していくことができる。そう主張できるようますます強く望む、と言うべきかもしれない。」

 わたしたちは社会のすべてを知ることなどできない。そうである以上、それぞれの領域の専門知をネットワーク化し、それをわたしたちの判断材料にする必要がある。そしてそのネットワークを、民主的にコントロールするためのルールや仕組みを整備する必要がある。

 現代デモクラシーの問題を根源的に治癒する方法、それは、「市民は万能であるという理論を放棄すること、意志決定を分散すること、比較可能な記録と分析によって決定を調整すること」にある。そうリップマンは主張する。

 専門家のネットワークについて、リップマンは次のようにいう。

専門家たちの間で技術と成果の交換が行われれば、そのなかに社会科学における実験的方法の萌芽を見ることができるだろうと私は思う。一つ一つの学区、予算、保健所、工場、関税表などがそれぞれ互いの知識の材料となるとき、比べることのできる経験の数は純粋実験の規模に近づきはじめる。」

「くさびは打ちこまれた。手助けを必要とする一部の産業界の指導者たちや政治家たちだけではない。市政調査局、議会参考図書館、会社・労働組合・公共運動の専門的圧力団体によって、そして婦人参政権連盟、消費者連盟、生産者協会のようなさまざまな有志団体によって、あるいは何百もある同業組合、市民連合によって、『探照灯でみる議会』、『探査』のような出版物によって、一般教育委員会のような財団によって、くさびは打ちこまれた。」


6.理性に訴える

 本書は「理性に訴える」という章で結ばれている。

 大衆に多くを期待し得ないことを述べてきたリップマンだが、だからといって、彼はデモクラシーの理念それ自体に悲観しているわけではない。

 いかに「理性」によってデモクラシーを実質化していくことができるか。この課題を、リップマンは最後の最後に強調して本書を終える。

「だが、人間が示してきた何らかの人間の特性によって存在が許されている、さまざまの可能性を断念することはできない。



(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.