ラスキ『近代国家における自由』


はじめに


 20世紀の政治思想家、ラスキ。一時期マルクス主義にも傾倒したが、晩年には伝統的な西欧的民主主義ともマルクス主義とも異なった、第三の道――計画的民主主義――を訴えた。


 本書において、ラスキは「自由」を個々人の「多元性」を徹頭徹尾護るものとして主張する。

 その情熱的な筆致は、それなりに読者に訴えかけるものがある。

 しかしわたしの考えでは、ラスキの思想は、彼以前の「自由」論の巨人哲学者たちの思想からしてみれば、深みにおいても射程においても、残念ながら著しく劣るものといわざるを得ない。

 以下、そのことを中心に、本書を紹介・解説していくことにしたい。


1.自由とは拘束の欠如である

「私は、自由とは本質的に拘束の欠如であると論ずる。」

 後にバーリンによって定式化された言葉を使えば、いわゆる「消極的自由」をもってラスキは自由の本質とする(バーリン『自由論』のページ参照)。

 ところがルソー以来、ヨーロッパには自由を「積極的自由」と解する思想が跋扈してきた。ラスキはそういって、ルソーおよびヘーゲルを批判する。

 「積極的自由」とは、一般に「〜への自由」のことといわれる。つまり、単に拘束から解放されているだけでなく、「わたしはこう欲する」を積極的に追求する自由のこととされる。

 バーリンはこれを、他者の自由を侵害する危険性のあるものとして警戒した。他方、本書におけるラスキの「積極的自由」批判は、それとはやや観点が異なっている。

 彼は、ルソーやヘーゲルの「積極的自由」の観念は、自らを国家の目的に積極的に同化させよと命じる、危険な思想だと批判するのだ。

「その説くととろによれば、自由とは拘束の欠如というような単に消極的なものではない。むしろそれは、各人の混沌とした目的の背後にあって、れに統一的な意味を賦与する理性目的を各人の中に成就しようとする意志、己の意志の積極的自己決定である。

すなわち、私か国家に服従するとき、私は最高の自我に服従するというのである。〔中略〕私が国家に服従するとき、実は私自身に服従しているのである。

 これをラスキは「理想主義国家論」と呼ぶ。個人の「自由」は、国家の目的と一体になっているところではじめて達成されるとする思想のことだ。

 たしかに、ルソーやヘーゲルは、国家においてはじめて個人の「自由」が実現されるといっている。

 しかし、これをもってルソーやヘーゲルが国家への服従を個人的「自由」より上位に置いたとするラスキの解釈は、これがラスキに限らず20世紀における一般的な解釈であった側面があるとはいえ、かなり表層的だ。

 わたしの考えでは、ルソーやヘーゲル哲学の真骨頂は、個人的「自由」を実現するためにこそ、国家はどうあるべきかを徹底的に探究した点にある(ルソー『社会契約論』、ヘーゲル『法の哲学』のページ参照)。

 ラスキは、「社会」「国家」「権力」といったものに対し、一種の嫌悪感のようなものを抱いているようにみえる。それゆえに、国家の役割を重視したルソーやヘーゲルを、ひどく敵視しているようにみえる。

 しかしわたしは、ルソーやヘーゲルの哲学の方が、ラスキのそれに比べてはるかに現実的かつ原理的なものだと思う。

 個人は、自らが「自由」であることを、ただ自分で主張しているだけでは決して自由にはなれない。それは他者との衝突を必ず経験し、結果的に自らの自由を失ってしまうことになるだろうからだ。

 個々人が自由であるためには、それを相互に承認し合うことを可能にする、「国家」「社会」をつくっていく必要がある。ルソーやヘーゲルは、「国家」「社会」をただナイーヴに敵視するのではなく、そのように考えることを訴えたのだ。


2.自己にのみ従う「自由」

 しかしラスキの「自由」論は、ルソーやヘーゲルのそれに比べて、やはりひどくナイーヴな思想といわざるを得ない。

私はいう。真の自由の理論は理想主義の前提の全面的否定の上に樹立されると。真の自我とは、社会の各人に共通する一定の理性目的の体系などといったものではない。」

「各行為は、そのまま真実であり、しかも真実なものとしてただ自己の判断にのみ従い、他人の提供する判断に従ってはならない。

 わたしが純粋に自ら自身である時、わたしは「自由」である。社会において、わたしたちは常にそのような存在でなければならない。

 そうラスキは主張するのだが、これはすでに、ヘーゲルによって「美しい魂」として批判されていたものだ(ヘーゲル『精神現象学』のページ参照)。

 「わたしが純粋にわたしである時にのみ、わたしは自由である」。これはそれ自体としては美しい思想かもしれないが、なんら現実性を持ち得ない空虚な思想である。ヘーゲルは「美しい魂」をそういって批判した。

 わたしは、自らの「自由」をただ一人で主張することはできない。わたしが現実に「自由」であるためには、他者からの「承認」が不可欠なのだ。

 そのことを徹底的に自覚しないラスキの自由論は、やはりきわめてナイーブなものといわざるを得ないだろうとわたしは思う。

 たとえば、個々人がただ個々人であることをこそ重視する「多元性」重視の思想について、ラスキは次のようにいっている。

れは無秩序を招く恐れのある理論であり、人民の反抗権を是認するものであるという異議が唱えられるとしたら、私はその非難は正しいと答えるであろう。しかし、この非難が当っているというとはそれほど重要であろうか。疑いもなく、秩序は最高善ではなく、反抗は必ずしも誤ったものとは限らない。

 ラスキの思想には、ただただ多元性を重視せよというばかりで、そのために起こる無秩序や反抗を調停する原理が見られないのだ。


3.自由の条件

 最後に、ラスキが本書で論じる、自由のための条件についてもいくつか紹介しておこう。

 ただ、今では当たり前の、そして当時においてさえおそらく当たり前のことといっていい、一般論が披瀝されているだけという印象は免れない。

 まず、自由の第一条件は、国家が人権(人格)を侵害しないことにある。

「最高権力による決定が国民の人格を侵害しない国家でこそ自由は存在する。とすれば自由の条件とはこのような人格の侵害を未然に防ぐ条件に外ならぬ。」

 また、法によって自由は現実のものとなるが、それに加えて「社会的雰囲気」も必要だとラスキはいう。

「自由は多分に法律の問題である。しかしそれにも劣らず、それはまた法律を越えた社会の気風の問題でもある。

 そのほか、定期的な選挙と三権分立の必要性や、分権・自治の必要性についても主張する。

「分権化が進むほど、自由への熾烈な関心が生まれてくる可能性がある。〔中略〕すなわち、一般に、社会に対して上から課せられた規則は、たとえ為を思って課せられたものであっても、下から自然と盛り上った規則ほどには目的達成の効果がないという意味である。」

 教育もまた、いうまでもなく自由の重要な条件である。ラスキはいう。

偉大な教師がその世代に及ぼす感化は、今日でもわれわれの想像を越えるものがある。何はさておいてものような教師には、自由に教えさすべきである。



(苫野一徳)



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