フロム『人間における自由』


はじめに

 原著タイトルは、Man for Himself。

 文字取り、「自分自身であること」を自由の条件として説いた本だ。

 相変わらず透徹した人間洞察が光っているが、個人的には、彼の『自由からの逃走』『愛するということ』に比べれば、やや記述が軽薄な気もしないではない。

 本書の内容を思い切って要約すると、以下のようになる。

 わたしたちがより「自由」に生きるためには、「生産的性格」を磨くことが重要だ。そのためには、「正しい愛」「本質を見抜く理性」を育まなければならない、そしてまた、独りであることを恐れず、「自分自身であること」を心がける必要がある。

 「生産的性格」とは何か、「正しい愛」とは、「本質を見抜く理性」とは、そして「自分自身であること」とはいったい何か。

 これらの点については以下で紹介・解説していくが、しかし以上のように本書の主張をまとめてしまうと、どことなく、お手軽な自己啓発書的な匂いもしないではない。

 実際、個人的には、彼の他の本に比べれば、本書からは深い思索の跡があまり感じられない。すでに完成していた彼の思想を、ある意味では綺麗に並べただけだからなのかもしれない。

 フロムの思想の見取り図が手に入るという意味で、それはもちろん十分意義深いことなのだけど。



1.権威主義的倫理VS人道主義的倫理

 フロムはまず、「人道主義的倫理」の必要を説く。その際対比されるのが、「権威主義的倫理」と呼ばれるものだ。


「形式上からいえば、権威主義的倫理は、人間に善悪の弁別力があることを否定する。規範を与えるものは、いつでも個人を超越した権威である。」

「実質的に、または内容的にいえば、権威主義的倫理は善悪とは何であるかという疑問に対して、従属者の関心からではなく、何よりもまず権威そのものの関心からこたえる。」

 倫理の根拠を、「人間」自身とは無関係の「権威」に置くこと。これが権威主義的倫理だ。

 ここでフロムが念頭に置いているのは、国家の「より高い」目的とか、「民族」とか、「社会主義者の祖国」とかへの、個人の自己を無にした服従を原理とする」権威だ。全体主義批判は、フロムの思想のいつも根底にある。

 他方の「人道主義的倫理」について、フロムは次のようにいう。

「倫理的価値の唯一の基準は人間の幸福ということなのである。」

 倫理の根拠は「人間の幸福」以外のどこにもない。フロムはそう訴えるのだ。


2.人間の本性

 倫理の根拠を「人間」に置く以上、わたしたちはこの「人間」の本性を探究する必要がある。フロムはそのように論を展開する。そしていう。

自覚をもつ故に、人間は自己の存在の無力と制限とを感得する。〔中略〕人間の本性におけるこの分裂を、私は実存的二分性と呼ぶのであるが、それはこれらが人間の存在に根ざしたものであるからである。」

 人間は、自由に生きたいと思いつつも、それを制限してくるものを自覚する。つまり人間は、いわばこの「〜したい」と「〜できない」のはざまに、たえず二分されている。

 しかしまた、これが人間の精神を発展せしめる原動力となる。フロムはいう。

矛盾に直面すると受身のままにとどまることができないのは、人間精神の特性の一つである。矛盾を解こうとして、それは動き始めるのである。人間が進歩するのはこの事実があるからである。

 きわめてヘーゲル的な人間観だ。おそらく実際、ヘーゲルの影響なのではないかと思う。

 では人間の「自由」はどこにあるのか。フロムはいう。

人間は、理想をもつかもたないかの選択において自由なのではなく、さまざまの「理想」の中からどれかを選択することにおいて、たとえば、権力崇拝に献身するかその打破に献身するか、また理性に献身するか愛に献身するか、の選択において自由なのである。」

 自らがいかに生きることを選択するか。この選択可能性こそが「自由」の本質である。フロムはそう主張する。


3.性格

 とすれば、この選択いかんによって、人がどれだけ「自由」たりうるかが大きく左右されることになる。

 ではこの選択を、人は何に基づいて行っているか。

 大きな要素が、「性格」だ。

 というわけで、フロムは人間の性格類型を以下に論じる。その際、「非生産的性格」「生産的性格」が区別され、後者こそが理想であると述べられる。


①非生産的性格

ⅰ.受容的構え

 非生産的性格としてまず取り上げられるのが、受容的な性格だ。

「受容的構えにあっては、人は「あらゆる善の源泉」が自分の外にあると感ずる。そして彼は自分の欲しいもの――それが何か物質的なものであるにせよ、情感、愛、知識、快楽であるにせよ――を得る唯一の方法は、それを外部にある源泉から受け取ることであると信じている。この構えにおいては、愛の問題はほとんどいつも、「愛されること」であって、愛することではない。」 


ⅱ.搾取的構え

 続いて搾取的な性格について。

「すべてのものが搾取の対象であり、その効用によって判断される。受容的タイプの特徴であった自信と楽天性とにかわって、ここには懐疑と冷笑、羨望と嫉妬がある。かれらは他人から奪いとるものによってのみ満足するのであるから、他人のものを高く評価し過ぎ、自己のものを低く評価し過ぎる傾向がある。」


ⅲ.貯蓄的構え

 続いて貯蓄的な性格について。


「この構えにあっては、人びとは外界から得る新しい事物をほとんど何も信用しない。かれらの安定性は、貯蓄と節約とにもとづいており、消費は脅威であると感じられる。〔中略〕愛とは要するに財産である。かれらは愛を与えようとせず、「愛するもの」を所有することによって愛を得ようとする。」



ⅳ.市場的構え

 資本主義が普遍化した現代において初めて登場した性格類型として、フロムは市場的な性格を挙げている。

「もし自分の価値が、主として自分の持っている人間的属性によって構成されるのではなく、変転する条件をもった競争市場での成功によるのだとすれば、その人の自己尊重は不確実なものになりがちであり、いつでも他人によって確かめられることが必要になってくる。」


②生産的性格

 以上の非生産的性格に対して、フロムは「生産的性格」を、愛(情緒面)理性(思考面)に区別して次のようにいう。

「いくつかの基本的要素が、あらゆる形の生産的愛の特徴としてあげられよう。それは注意、責任、尊敬および知識である。」

 愛はさまざまな形をとって現れるが、フロムにとって「正しい」愛は、相手を自分に取り込んだり(サディズム)逆に相手に自分を明け渡したりする(マゾヒズム)ようなものではなく、互いが互いとして「個」でありながら、責任と尊敬をもって一体感を感じられていることを意味する。(フロム『愛するということ』のページ参照)

 続いて「理性」について、彼は「知能」「理性」とを区別して次のようにいう。

「知能とは人間が実践的な目標へ到達するための道具であって、事物を使いこなすために必要な、それについての知識を得るという目的をもっている。〔中略〕理性には深さという第三の次元があり、それによって事物や過程の本質に達することができるのである。」

 つまり、知能が目的達成のための計算高さであるのに対して、理性は、その目的それ自体を設定するようなより高次の能力とされるのだ。それはつまり、物事の「本質」を洞察する力のことだ。

 フロムはこうして、「生産的性格」の本質として、「正しい愛」「物事の本質を洞察する理性」を挙げるのだ。


4.良心

 最後にフロムは、「人道主義的倫理」の基盤である「良心」について述べる。

「それは、われわれの真の自己の声であり、われわれをわれわれ自身に喚び戻し、生産的に生かしめ、そして十全に調和的に発展させる声、――すなわち、われわれのうちに潜勢的に在るところのものを実現させる声である。それはわれわれの真のすがたの守護者である。

 要するに「良心」とは、十全に自己自身であることを求めるわたしたちの内なる声だというわけだ。

 フロムの人間洞察について、わたしは個人的に大きな影響と感銘を受けてきたが、しかしこのあたり、わたしの考えではヘーゲルの「良心」論の方が数段すぐれている。

 ヘーゲルからしてみれば、十全に自己自身であるだけでは、まだまだそれを良心と呼ぶに値しない。

 自らの良心と他者の良心が異なる場合、それは激しい対立の源泉ともなるからだ。これをヘーゲルは「徳の騎士」と呼び、いまだ良心に達しない精神の類型として描き出している。(ヘーゲル『精神現象学』のページ参照)

 ヘーゲルによれば、良心とは、自らの信念や行いが、他者からの承認を得られて初めて普遍性を持ちうるのだということを、十分に「自覚」している精神のことである。相互承認なき信念は、決して良心とは呼ばれ得ないのだ。

 わたしには、これはきわめてすぐれた洞察であるように思える。

 しかしそれはともかく、フロムはなぜ人間が「自分自身であること」(彼のいうところの「良心」を持つこと)ができないのか、次のように論を進める。

自分自身に耳を傾けることがそれほどむずかしいという理由は、このことが現代人にはほとんどないもう一つの能力、すなわち自分独りでいるという能力を必要とするからである。実際、われわれは孤独恐怖症に罹っている。

もう一つの理由がある。すなわち、それは、良心がわれわれに直接には語りかけず、間接的にしか語らないからであり、またわれわれは、われわれを悩ませるものがわれわれの良心なのだ、ということにしばしば気がついていないからである。」
 
 他者の目をいつも気にしすぎているから、わたしたちは十全に自分自身であることができない。そうフロムはいうわけだ。

 以上をまとめると、冒頭でも述べたように、わたしたちがより「自由」に生きるためには「生産的性格」を磨くことが重要で、そのためには「正しい愛」と「本質を見抜く理性」を育まなければならない、そしてまた、独りであることを恐れず、「自分自身であること」を心がける必要がある、ということになる。

 こうやってまとめてみるとやや陳腐な響きもしないではないが、わたしたちの生きる一つの指針として、フロムの洞察はやはり十分意義深い。

(苫野一徳)


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