木下竹次『学習原論』


はじめに

 奈良女子高等師範学校の教授、また、同付属高等女学校・附属小学校の教師を務めた木下竹次。いわゆる「大正自由教育」を代表する、教育学者・教育実践家の一人だ。

 その人気と影響力において、今なお教育界においてひときわ光彩を放ち続けている存在だといっていい。

 1923年に刊行された本書は、その後の「学習ブーム」の火付け役となった。

 教育とは、決められたカリキュラムを決められた通りに子どもたちの頭にインプットする行為ではなく、あくまでも子どもたち自身の「学習」を中心に、これをサポートしガイドしていくものでなければならない。当時の多くの「新教育」の理論家・実践家たちとともに、木下もそう訴えた。

 木下教育学理論の根幹は、学習の基礎を「自律的学習」と捉え、学習は、「独自学習―相互学習―独自学習」という順序で行われるものとしたところにある。学習の原理は、「自由」「協同」にある。そう木下は主張する

 さらに木下は、「合科学習」という新たな学習形態を提唱し、分化された教科を切れ切れに学ぶのではなく、教科横断的なカリキュラムの重要性を訴えた。これは、今日における「総合的な学習の時間」のいわば原型だといっていい。


1.「学習」を中心に

「私は学習の名称をもちいる。時には自律的学習というが、その自律的たる形容詞も時には誤解の種子となることがあるから用いない方がよいかとも考える。ただ教育といえば教師の側面から眺めたように思われるから、児童の方から眺めた学習という名称を用いるのである。」

 先述したように、木下は「学習」を教育の中心概念と捉えた。そして学習が備えているべき4要件を、次のように主張する。


1.学習を発動的にする。
2.学習を創作的にする。
3.学習を努力的にする。
4.学習を歓喜的にする。


 1の「発動的学習」は、学習における「自発性」を重視しようという主張だ。自らの興味・関心に応じて学びとったものは、イヤイヤ「やらされた」学びよりもはるかに根づくものであるからだ。

「発動的に学習して自ら修得し自ら徹底したことはたとい分量は少なくともまた内容の性質は劣って居ても各自の生活に役立つであろう。」

 2の「創作的学習」は、学習における子どもたちの「創造性」を重視しようという主張。木下はいう。

「創作的学習は自由を一大要件とする。外界の権威あるいは因襲的法則をもって学習者の自由を拘束して自作自為を妨げては創作的学習はできない。方法の自由がなくて目的の自由に到達することは困難である」

 創造的であるためには、その探究の方法は自由でなければならない。しかしそれは、単に子どもたちのわがまま放題、やりたい放題を認めることを意味しない。本当に自発的かつ創造的に学ぶ時、子どもたちは、自ら自らを律しようとするものなのだ。

「自由に学習させるのは規範を無視することではない。学習の目的を遂げるために適切な規範を自ら発見し自ら追及し自己の規範をもって自己を規正するようにしようというのである。かくして始めて熱心に学習の目的を追求し独創的に方法を探究し実行する。」

 3の「努力的学習」と4の「歓喜的学習」は、努力することそれ自体を楽しめるような学びを重視しようという主張だ。

「努力のあるところ必ず多少の苦痛はある。しかし真剣に努力するものはその間に快感を覚えていくことができる。この苦痛に快感を味わえる人が永続的に努力して歩々に能力を発揮する。苦痛を避けることを主としては努力は永続するものではない。実は、努力者は苦痛をなんとも思わないで喜んで苦痛と戦っていく。真の興趣は努力にのみともなっていくというてよろしい。」


2.合科学習

 以上のように、木下は子どもたちの自律的学習と相互学習を中心に学びをつくり上げていくことを訴え実践したが、その際編成されたカリキュラムは、国語、理科、算数……といった、あらかじめ分化され決められたカリキュラムではなく、「合科」的なカリキュラムである。

 デューイらの影響を色濃く受けた、経験主義カリキュラムだ(デューイ『民主主義と教育』『学校と社会』のページ等参照)。

 木下はいう。

「分科主義にも一応の理由はあるが、人間生活をあまりに分類的に構成的に取り扱うては、複雑微妙な人生の向上をはかり文化の創造を進めていくことは困難である。」

 このような考えにしたがって、木下は、生徒の学びを分断してしまう時間割の撤廃なども訴え、実践した。子どもたちの「学習」を中心に考えるなら、これはきわめて効率の悪い仕組みだからだ。

 今なお時間割は多くの学校で設けられているが、すでに100年も前から、「新教育」の理論家・実践家たちは、時間割を撤廃し、一人ひとりの子どもたちの「学び」に焦点を当てた実践を行っていたのだ(パーカースト『ドルトン・プランの教育』等参照)。


3.教師の役割

 以上のように、子どもたちの「学習」を中心に考えた場合、教師の役割もまた、従来の「教え込み」からは一変することになる。

 木下はいう。

「多くの教師はまず教えねばだめだと思うている。まず教えてもだめなものがあるのに、教えないで児童生徒をして工夫創作し発けんさせようなどとは不可能だと思うている。」

 何でもかんでも教えてやろうとするのではなく、まず子どもたちに自ら学ばせてみようじゃないか。木下はそう主張する。

 そのためには、何でもかんでも教師が抱え込むことから抜け出さなければならない。

教師が職務上責任をつくすのは非常によろしいが、なにごとも自分に抱き込んで自分一人で児童生徒を教授し訓練しようとするのがよろしくない。かくして実際においては自分一人で万般の教育をすることはできないのである。これを無理にしようとするから学級教授の痼疾に陥ったのだ。また学習者を独自に学習させて個別に指導することができない。したがって学習者をして各個性に適応した自己建設をさせることができないのである。

 今なおきわめて示唆に富む、すぐれた洞察だろうとわたしは思う。

 教師の「教える力」に依存するのではない。生徒の「学ぶ力」に寄り添い、支え、導くこと。教師に求められるのは、そのような資質なのだと木下はいうわけだ。

 したがって、いわゆる教師の「発問」についても、木下は次のように指摘する。


「従来の教育においては発問するものは主として教師で児童生徒は問わるるままに答えたものである。教師の発問は数師の予定に従い秩序整然として系統立てている。〔中略〕の種の問答は注入的講演式のかわりに時は非常に珍重されたものであが、発動的創作的学習させるのには決して最良の方法でない。かつその結果も案外有効でなかった。それでは真の人間はできない。独創的人物などは容易にでてこない。元来疑問は教師が提出するのは主でなくて学習者が提出することを主とせねばならぬ。教師は最善の努力をして学習者に優秀なる疑問を提出させることに突進せねばならぬ。教師の発問は主として学習者の優秀なる疑問を誘発するために使用したい。児童生徒の自主的学習の道を開くために利用したい。それにしても教師はあまりたくさん疑問を出さぬがよろしい。

 ふつう「発問」というのは、分からないから訊ねるものだ。しかし学校では、教師が答えを知っていて、まるで子どもたちを試すかのように「発問」する。「この問題分かるか?ん?」といった具合に。

 その「試してくる」態度が、わたしもまた、個人的には昔からあまり好きではなかった。

 もちろん、そうした発問の仕方が「いい」「有意義」な場合も多いだろう。しかし子どもたちを「試し」、そのことでどこか萎縮させてしまうような発問よりは、木下がいうような、まさに子どもたち自身が生き生きと問いを発せられるような、そのような教育の方がわたしにも意義深く思われる。

 最後に、印象的な次の言葉も引用しておきたい。

「世に『お授け児』は偉くなるといわれている。我が子ながらも尊い神仏の『お授け児』と思えばもっと純真な気分でその児に対することができる。これが子どもに影響してその子どもは純真な偉い子どもになるのであろう。なにも神秘なことはない。」


(苫野一徳)

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