ソシュール『一般言語学講義』


はじめに

ファイル:Ferdinand de Saussure by Jullien.png レヴィ=ストロースをはじめ、いわゆる「構造主義」の思想家たちに絶大な影響を与えたソシュール。

 ラングパロールシニフィアンシニフィエ共時(言語学)と通時(言語学)など、その後の現代思想にきわめて重要な概念枠組みを与えた、偉大な言語学者だ。

 生前、ソシュールは一冊の本も残さなかった。本書は、1906年から1911年にかけて、ソシュールがジュネーヴ大学で行った講義を、弟子たちが後にまとめて出版した講義録。

 以下では、本書の最も重要と思われるポイントを、できるだけ分かりやすく取り出してみることにしたい。


1.ラングとパロール

 ソシュールは、まず言語を2つの部門に分けて捉える。

 一つがラング、もう一つがパロールだ。(訳書ではそれぞれ「言語」「言」と訳されているが、今では「ラング」「パロール」の方が一般的なので、以下、引用する訳文は「ラング」「パロール」と書き換えることにする。)

 ラングとは、語彙や文法など、社会的に決定されたいわば約束事としての言語のこと。他方のパロールとは話し言葉のことで、個人的な意を伝えるもののことを指す。

「ラングは、各人の脳裡に貯蔵された印刻の総和の形をなして、集団のうちに存在する、そのさまは、おなじ辞書を各人が一部ずつ所有するのに似ている。〔中略〕パロールのなかには集団的なものはひとつもない;それの現われは個人的であり瞬間的である。

 両者はもちろん相互補完的な関係にあるが、しかしなお、絶対的に区別して考えられるべきだとソシュールは主張する。そして、言語学が研究すべきは、どちらかといえばラングであるという。

 というのも、パロールがあまりに個人的・瞬間的であるのに対して、ラングはこれを社会において使用する人びとの間に共通構造を備えたものであり、それゆえ「科学的」な研究対象になりうるからだ。(ただしもちろん、ラングとパロールの相互関係も重要な研究テーマである。)


2.シニフィアンとシニフィエ

 続いてソシュールは、シニフィアンシニフィエという言語の基本構造を取り出す。(訳書ではそれぞれ「能記」「所記」と訳されているが、今では「シニフィアン」「シニフィエ」の方が一般的なので、以下「シニフィアン」「シニフィエ」と記載する。)

 シニフィアンとは、「記号表現」のこと。たとえば「犬」という字や「inu」という音を指す。

 対してシニフィエとは、「記号内容」のこと。「犬」という字や「inu」という音によって表わされる、犬の「聴覚映像」のことを指す。

 ソシュールは、言語は必ずこの「シニフィアン―シニフィエ」構造を持つという。そしていう。

「シニフィアンをシニフィエに結びつける紐帯は、恣意的である」

 その後の言語学のみならず、現代思想にきわめて大きな影響を与えた洞察だ。

 たとえば、日本語では「犬」の存在を「inu」という音によって表す。しかし英語ではこれは「dog」となる。なぜ一方はinuで、他方はdogなのか。そこに絶対的な根拠などはない。日本語ではたまたまinuといい、英語ではdogといっているにすぎない。これが、「記号の恣意性」と呼ばれる言語の根本原理の一つである。

 さらにソシュールはいう。

 「犬」という絶対的な客観物があり、これにわたしたちは「inu」とか「dog」とかいう記号を当てはめているわけではない

 むしろ、わたしたち自身が、世界をわたしたちの観点から切り取り、これを「inu」とか「dog」とか呼んでいるのだ。

もし語というものが、あらかじめ与えられた概念を表出する役目を受け持ったものであるならば、それらはいずれも意味上精密に対応するものを、言語ごとにもつはずである;ところが事実はそうではない。

 これは、虹の色が文化によって違うとか、ラクダを表す言葉がアラビア語では5千も6千もあるとかいったことからも、わたしたちにとって分かりやすい指摘だといえる。ソシュールはいう。

「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」


3.共時言語学と通時言語学

 続いてソシュールは、言語学を共時言語学通時言語学に区別する。

 共時言語学とは、非歴史的で静態的な、いわば「今ここ」の言語に着目する言語学のこと。一方の通時言語学とは、歴史的な変遷を明らかにする言語学のこと。

 ソシュールは、従来の言語学は通時言語学だけだったが、本来の言語学は、どちらかといえば共時言語学の方にあると主張する。

 言語を理解するためには、ただその変遷過程を理解するだけでなく、言語それ自体の「構造」を明らかにする必要があるからだ。

 このことを、ソシュールは次のような例を挙げていう。

ある人里離れた谷間に俚語があって、外来の人工的術語など一つとして受け入れたこともないとしよう。そうした特有語は、言語活動の正規の条件からそれており、こんなものではその正体はわからない、混合を受けていないからまさに「奇形学的」研究を要する、というべきか?〔中略〕ある特有語、たとえばゼンド語やスラヴ古語にいたっては、どんな民族が話していたかさえ、定かでない;しかもそうした無知は、すこしもそれらの内部組織を研究し、それらが受けた変容を明らかにする妨げにはならない。

 歴史的変遷など考えに入れなくとも、わたしたちは言語の本質構造を明らかにすることができる。ソシュールはそう主張する。そして実際、先にみたシニフィアン―シニフィエ構造といった、本質構造を取り出したのだ。


4.言語は実体ではない

 最後に改めて、コトバの恣意性についてのソシュールのきわめて重要な洞察を紹介しておきたい。

言語は形態であって、実体ではない。ひとはこの真理をいかにふかく体得しても充分ということはない;なぜなら、われわれの用語法の誤りはすべて、言語上の事がらを示すわれわれの不正なやり方はすべて、言語現象のうちに実体があるとする不用意の想定に由来するからである。」

 わたしたちは得てして、言語と対象とが一対一対応すると考えてしまいがちだ。そしてその対応関係を、客観的な実在と考えてしまいがちだ。

 たとえば、先述したように、「犬」という記号があるから、「犬」という存在が実在すると考えてしまう。しかし、極端な話をすれば、何らかの地球外生命体からしてみれば、犬も猫も、もしかしたら人間も、まとめて「地球生命体」という概念として一括りにされ、「犬」とか「人間」とかいう概念それ自体、存在しないということもありうる。

 要するに、言葉(概念)とは、わたしたち人間、あるいは文化、あるいは個々人によって、恣意的に分節された世界分節に与えられた記号にすぎないのだ。だからこの言葉が指すものを、そして言葉とモノとの対応関係を、絶対的に実在するものと考えてはならない。ソシュールはそう洞察し、その後の哲学にきわめて大きな影響を与えたのである。


(苫野一徳)


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