ピピン『ヘーゲルの実践哲学』


はじめに

 アメリカにおけるヘーゲル研究の第一人者、ピピン。

 英語圏において、ピピン以前、ヘーゲルの哲学は一部の専門家の間を除いてほとんど死にかかっていた。興隆をきわめていたのは分析哲学で、その立場から見れば、ヘーゲル哲学など前時代のカビ臭い形而上学(絶対を問う学)以外の何ものでもなかった。

 しかしピピンは、ヘーゲルの哲学をきわめてすぐれた実践的射程をもったものとして解釈し直した。彼の研究が、分析哲学とヘーゲル哲学との相互作用のきっかけをもたらしたのだ。

 本書においてピピンが着目したのは、分析哲学がいうところの「行為者性」(agency)の概念だ。

 行為者性、つまり行為の担い手が、「自由」であるとはどういうことか。ピピンはヘーゲル哲学の中に、この問いについての現代なお最先端たりうる理論を見出した。


 このブログでもしばしば書いているように、わたしは長らく、社会原理論においては、現代政治哲学の諸議論を経た今日においてもなお、ヘーゲルの哲学が最も原理的であると考えてきた。そして今日的な再構築を加えれば、これからの時代においてますます重要な哲学として再提示することができるだろうと。

 ピピンもまた、本書を読む限り、そのような見通しを持っているように見える。

 ただし、わたしがコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』の頁参照)や竹田青嗣『人間的自由の条件』のページ参照)を経由し、ヘーゲル哲学をすぐれた人間洞察、より端的にいえば、人間的欲望についてのすぐれた洞察、そしてそこから展開される社会原理論として読み直しているのに対して、ピピンはそうした「人間的」なるものにはほとんど触れず、より「論理的」「形式的」「理性的」な側面に目を向ける。分析哲学の盛んな、英語圏ならではの解釈といえるだろう。

 本書の訳者の1人、小井沼広嗣氏は、わたしの友人でもあるヘーゲル研究者だ。この難解な大著を、すぐれた日本語に訳した偉業にも、この場を借りて敬意を表したい。


1.行為者性への着目

 ヘーゲルの形而上学体系は、検証不可能な「物語」にして歴史決定論であるとして、今日きわめて評判が悪い。

 その「形而上学」のポイントは、簡潔に次のようにいい表わすことができる。

 「絶対精神」(神)の本質は「自由」である。そして人間はこの精神を分与された存在であり、これを歴史を通して実現していく……。

 しかしピピンはいう。この「形而上学体系」を、わたしたちはさしあたり脇へ置いておいておくことにしよう。というのも、そもそもヘーゲル自身、彼の「実践哲学」においては、おそらくこの「体系」をそれほど大真面目に前提してはいないだろうからだ。そしてまた、その方が、ヘーゲル哲学の今日的意義がより鮮明に浮かびあがってくるだろうからだ。

行為者性像や権利の要求における、精神のより適切な理解への移行に関する主張を説明するために、へーゲルが必然的な「絶対者の展開」に関する包括的な主張にいきなり訴えるということは、断じてない。〔中略〕(つまり)ここで提起された行為者性や倫理学の諸問題が、へゲルの体系への野心とは無関係に、比較的独立に取り扱いうるということである。

 「行為者性」、つまり「行為の担い手」はいかに自由たりうるか。要するに、わたしたちはいかに自由たりうるか。これが本書のテーマだといっていい。そしてヘーゲルは、この問いへのきわめて原理的な「答え」を出している。ピピンはそう主張する。


2.自由の条件としての「相互承認」

 そこでピピンは、まず、従来の自由論にありがちな考えを、ヘーゲルの言葉を借りながら一つずつ批判していく。

 たとえば、自由になるためには欲望や衝動を知性を通して叶える必要がある、あるいは支配する必要があるとする、自由の「主知主義」的理解をピピンは批判する。


緒論(ヘーゲル『法の哲学』の緒論――引用者)全体の主旨は、自由とは、必要〔欲望〕を首尾よく充足する戦略としても、私の生活とその善への関係についてのたんなる知的な理解としても、うまく理解することができない、ということである。
 すなわち、ただ欲望に襲われて、それを充足することだけを追求するという描像は、善の純粋な観想とそのような観想のみによって行為へと必然的かつ不可避的に動かされるという描像と同様に、間違っている。」

 なぜか。それは、単なる「知性」だけでは、わたしたちはとうてい「自由」になれないからである。

具体的な自己規定をもたらす反省に関してヘーゲルは、「意志を自然的に規定している衝動、欲望、傾向性」はすべて(理性の名のもとに「放棄される」のではなく)「理性の形式」が与えられなければならない、と主張する。」

 「理性の形式」、これが、自由になるための重要なキーワードになる。

 「理性の形式」とは何か。それは端的にいえば、わたしが自由であるためには他者の自由もまた承認する必要があるという、「相互承認」が十全に行き届いているということ、つまりその個々人における自覚(でありそれを可能にする制度――これについては後述)である。

 つまり自由は、個人的な知性を必要とするだけでなく、各人の意図や行為が、他者から承認されうるかどうかにかかっているのだ。

「自由な理性的行為者であることはそのような行為者として承認されることに存するのであり、そのような行為者として承認されるのは、他者による承認が自由に与えられる場合に限られる。また逆に、このことが実際上意味をなすのは、私が他者を自由な個人として承認する場合、すなわち、他者を、戦略的な観点ではなく規範的な観点のもとで、呼びかけられるべき相手として承認する場合に限られる。


3.人倫的制度

 ではこの「相互承認」はいかに可能か。ピピンはいう。

「これらの規範を人倫共同体のなかで、また人倫共同体によって措定されたものとして理解することがなければ、権利の担い手として、ならびに責任を有する道徳的個人、あらゆる意味で道徳的に対等な者として、相互に承認しあうようになる地位というのは、曖昧なものにみえてしまうだろう。」

 各人が自由な存在たりうるよう「相互承認」できるためには、そのことを可能にする制度=人倫共同体が必要である。そうピピンはいうわけだ。

 このあたり、なぜそういえるかについての論証がやや欠けているようにわたしには思われるが、ともあれこの観点から、ピピンは現代政治哲学における「個人」をめぐる議論に入り込む。

 従来のいわゆる「リベラリズム」は、個人を共同体から自立したアトム的な個人として捉える。そしてそのことを前提として、各人は自由で平等な存在であると主張する。

 それに対して、いわゆる「コミュニタリアニズム」は、個人はそもそも共同体に埋め込まれた存在であり、その中において初めて自由で平等たりうるのだと主張する。

 ここにいわゆる「リベラル・コミュニタリアン論争」が始まったわけだが、この点についてはここでは詳論するのを避け、本ブログの以下のページなどを参照していただきたい(ロールズ『正義論』、ドゥウォーキン『権利論』、サンデル『リベラリズムと正義の限界』、マッキンタイア『美徳なき時代』テイラー『ヘーゲルと近代社会』、ウォルツァー『政治と情念』。テイラー、ハーバーマス、ガットマン他『マルチカルチュラリズム』、コノリー『アイデンティティ/差異』)。

 ピピンのヘーゲル解釈は、どちらかといえばコミュニタリアンに近いようだ(もっともコミュニタリアンもきわめて多種多様だが)。

「へーゲルの政治学は自由主義の根拠を、規定された諸個人のうちに保持しているのである。へーゲルはおそらく、個人であるとはいかなることかを再解釈したのである。それは、個人を今やある種の能力の達成として論じることによってであり、具体的には、社会的依存を認める振る舞いと個人による不可避的な自己主張とのなかで生ずる、様々な境界的な問題を首尾よく交渉する能力の達成として個人を論じることによってである。」

 ただわたし自身は、このピピンのヘーゲル解釈の妥当性を認めつつも、この点についてはヘーゲル哲学を改めて再構築しなければならないと考えている。

 そしてまた、先述したように、自由のためになぜ「人倫的共同体」が必要なのかという点について、ピピンの論述には若干の飛躍があるように思われる。

 この飛躍を埋めるためには、そしてヘーゲル哲学をより原理的なものへと鍛え直すためには、冒頭でも述べた通り、ヘーゲル哲学を「人間」論、「欲望」論として改めて再解釈する必要がある。わたしはそう考えているが、もしご興味のある方がいらっしゃれば、この点については拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011年)第2章等で論じているので、ご一読いただけると幸いだ。



(苫野一徳)



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