シェリング『人間的自由の本質』


はじめに

ファイル:Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling.png
 端から端まで、徹底的に「形而上学」な本書。


 形而上学とはつまり、神など「絶対的」なるものを論じる哲学のことだ。

 正直、読んでいて疲れることこの上ない。なぜならこの形而上学、決して「論証」することができないようなものだからだ。

 神の世界はこうなっている、世界の真理はこうなっている、とシェリングは意気揚々と論じるのだが、それは全て、「それってホントなの?」と言われてしまえばおしまいの議論だといわざるを得ない。

 「あいつの言う神の世界は間違っている」「あいつの言う真理は間違っている」とシェリングは血気盛んに論じるのだが、はっきり言って、シェリングの考えも決して証明できない「世界観」にすぎない。どれも似たり寄ったりの、いわば「趣味」の戦いのようなものだ。

 現代哲学は、こうした形而上学を徹底的に批判し続けてきた。致し方ないことだろうと私は思う。

 哲学は時に、「世界観」の戦いを繰り広げすぎてきた。それは結局、先述した通り「趣味」の世界というほかないのだが、それを実に重厚かつ大量の言葉で論じるものだから、「そんなものかな」と人に思わせ言いくるめてしまうような側面がある。

 そうした哲学は、いつの時代にも出てくるものだ。むしろ、ほとんどがそうしたものと言っていいのかもしれない。

 しかし私の考えでは、それぞれの時代時代には天才哲学者たちが現れていて、単なる「世界観」や「趣味」などでは全くない、おそろしく原理的な哲学を展開してきた。

 デカルトカントヘーゲルフッサールといった人たちが、私の考えではその頂点にいる(各哲学者たちのページ参照)。

 もっともヘーゲルは、現代思想のシーンにおいては、形而上学の哲学者として今日激しく批判されている。しかし本ブログでもしばしばいってきたように、私の考えでは、彼の形而上学は捨て去るべきだが、その社会と人間に対する洞察の哲学は、今日なお超一級だ。

 ともあれ以下、シェリングの決して「論証」できない「形而上学」を、かいつまんで見ていくことにしよう。


1.汎神論批判

 シェリングは本書で、まずさまざまな汎神論を批判する。何でもかんでも神だなどと安易なことを言うな、と。

 とりわけスピノザの汎神論を、シェリングは激しく批判する。(スピノザ『エチカ』のページ参照)

「興醒めなのは、スピノザに於ては個物さえも神に等しくなければならぬ、という推断である。〔中略〕変様された、即ち導出された、神なるものは、本来の勝れた意味における神ではない。」


2.観念論における「自由」論

 それに対してシェリングは、カントに由来する観念論を高く評価する。(カント『純粋理性批判』『実践理性批判』のページ参照)

「人間の叡智的本質は、この論によれば、あらゆる因果的連関の外にあり、またあらゆる時間の外または上にある。」

「それ故に叡智的存在者は、それがひたすら自由且つ絶対的に行為することの確かであると等しく確かに、それ自身の内的な自然的本性に従ってのみ行為することが出来る。〔中略〕そしてこの絶対的必然性のみがまた絶対的自由なのである。

 叡智的存在者としての人間は、あらゆる因果的連関を超えて、自らの意志において行動することができる。ここに人間の絶対的自由の本質がある。そうシェリングはいうわけだ。

 しかし同時に、シェリングはいう。

「観念論も或る生きた実在論を基底としてもつのでなければ、ライプニッツの、スピノザの、或は何かその他の独断的体系と同様に無内容で空疎な体系となる。」

 ここで「生きた実在論」と呼ばれるものは、彼いうところの「神」と「神のうちの自然」の区別のことである。


3.神のうちにありながらも神から分たれた人間(人間における悪の自由)

「神の以前又は神以外には何ものもないのであるから、神はその実存の根底を自己自身のうちに有して居らねばならぬ。〔中略〕(しかし神のうちの自然は)神と離し得ざるものではあるが、然もなお区別ある存在者である。」

 一切は神のうちにあるのだが、しかしなお神とは区別されている。シェリングはそう主張する。

 だからこそ、人間はたりうるのだ。本書の中核テーマの1つは、「悪」の可能性や現実性にある。

人間の置かれている所は、そこに於て彼が善と悪とへの自己発動の源を平等に含んでいるかの頂である。即ち彼のうちなる両原理の紐帯は、必然的な紐帯ではなくして自由な紐帯である。」

 神は絶対的な善だが、人間は悪たりうる。ということは、神は悪の共謀者であるということになる。

「神が悪の共謀者として現れることは否定出来ない。というのは、徹頭徹尾依存的な存在者のもとでは、許容するということは協力するということと大差ないからである。」

 しかしなぜ、絶対的な善である神が悪の共謀者たりうるのだろうか。シェリングはいう。

「これに対しては、既に与えられた答以外に答はない。即ち、神は単に一の存在ではなくして一の生命であるから、という答である。〔中略〕神が、人格的とならんがために、先づ光の世界と闇の世界とを分けた既にその時、神は苦悩や転化にも自発的に服したのである。」


 どこまでも「証明」不可能な形而上学だが、哲学がこれまでどのような「世界観」を繰り広げてきたかを知るには、恰好の書物と言えるかもしれない。



(苫野一徳)

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