ジョン・グレイ『自由主義論』

はじめに

 現代におけるリベラリズム(自由主義)研究の第一人者にして、そのリベラリズム批判の急先鋒、ジョン・グレイ。

 本書でグレイは、さまざまなリベラリズムの系譜を考察した上で、その一つ一つを批判しリベラリズムを完膚なきまでに叩きのめす。

 その根本戦略は、リベラリズムは実は普遍的な思想などではなく、時代的・歴史的個別性をもったローカルな思想にすぎないのだということを、これでもかと論じていくことにある。

 わたし自身は、彼の論にはほとんど納得するところがない。グレイの批判に対しては、より強靭な論理をもって反駁することができると考えている。

 以下そのことについても少し含めて、本書を紹介・解説していくことにしたい。


1.反=普遍主義

 本書は終章を含む13の章から成っているが、ここではそのまとめの性格の強い、終章を中心に紹介していくことにしたい。

 グレイはまず、リベラリズムを次のように批判する。

自由主義者は(自由主義者をやめるのでなければ)、自由主義的実践が、しばしば対立し時として相容れない様々な人間的幸福の一つを表し体現しているにすぎないことを受け入れられない。自由主義者にとって、自由はただ単に人間に開かれた選択肢の一つではなく、道徳的必然なのである。」

 リベラリストは自由を何の根拠もなく最上の価値だと考えているが、それは大きな誤りだ。グレイはそういうのだ。

われわれが普遍性という幻想的観点を捨て去るならば、われわれは自由主義社会を歴史的産物、すなわち、諸制度や諸伝統の遺産として理解できるようになる。その遺産はわれわれの思想や実践に深く浸透しているが、われわれは、それが普遍的な必然性を持たないものであることを認めねばならない。
 
 ここには、いわば「反=普遍主義」の構えがある。グレイが高く評価する、バーリン価値多元主義を継承した思想態度だといっていい(バーリン『自由論』のページ参照)。

 この「反=普遍主義」「価値多元主義」を武器に、以下グレイは、次々とさまざまなリベラリズム思想を相対化していく。


2.「無知を基にした自由論」批判

 最初にやり玉に上げられるのが、ハイエクなど「無知を基にした自由論」だ。それは、われわれの知が進歩するためには自由な社会が必要だとする主張のことである。

 しかしグレイはいう。

「知識の成長が人間の幸福を促進することを何によって保証するのか」

 知識が成長したからって、別に人間が幸福になるとは限らないじゃないか。そうグレイはいうのだ。

 さらに彼は、次のようにもいう。

「ソ連が挙げた科学的成果は、西側の科学研究に大いに助けられたものとはいえ、科学者集団にある程度の自由が与えられるならば、社会の他の多くの部分に自由が認められないとしても科学的知識が急速に成長することを表している。」

 ソ連の科学的進歩を見れば、別に自由のない社会でだって知はちゃんと成長するといえるじゃないか。そうグレイはいうわけだ。

 さて、しかしこのグレイの物言いは、ほとんどイチャモンというほかないものだ。帰謬論に近いとさえいっていい。つまり、「あなたのいっていることにはこんな例外がある、あんな例外もある」と、ただひたすら相手の論理を否定ばかりする論法だ。

 このブログのさまざまなページにも書いてきたことだが、建設的な議論はけっして帰謬論に陥らない(たとえば、アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門』や、大乗仏典『認識と論理』などのページ参照)。単に例外を指摘し続けるのではなく、それでもなおこの考え方が最も「よい」といえるのではないか、という、建設的かつ原理的な提案をする。

 その意味で、グレイの論法はただのイチャモン論法といわざるを得ないとわたしは思う。そしてこのイチャモン論法は、このあともひたすら続くことになる。


3.「合意を基にした自由論」批判

 つづいて批判されるのは、ロールズブキャナンゴーティエらによる「合意を基にした自由論」だ。

 グレイはいう。

通常の道徳的な考え方からすれば、契約や約束の権威は専ら、それらがなされた状況とそれらが行われた理由に依存している。もし合意や約束が、脅迫によるものであったり無知に基づくものであったりした場合、あるいは最初に義務が求められたときの状況と現在の状況が多くの点で異なっている場合、約束や合意という事実にはいかなる道徳的拘束力もない。実際、約束や契約という事実だけでは、合意がどのようにして何らかのものを正当化したり合法化したりするのかがわからない。あらゆることは、合意がなされた理由にかかっているからである。そこで、単なる合意では道徳的内容が与えられないがゆえに、すべての契約理論は合意を何らかの人間概念に基づかせようとするのである。」

 すべての契約理論は、何らかの人間像を仮定している。そしてそれは、現実の人間ではなくどこまでも抽象的で非現実的な人間にすぎない。そうグレイは主張する。

「人々の個別性の捨象自体すでに、自由主義にとって都合がいいようにすべての重要問題を回避するものである。」


4.「幸福を基にした自由論」批判

 さらにグレイは、「幸福を基にした自由論」を批判する。その批判もまた、やはりほとんど帰謬論である。

 自由ゆえに不幸になることだってあるじゃないか。そうグレイはいうのだ。


5.自由主義なき時代

 こうしてグレイは、リベラリズムを次のように徹頭徹尾相対化する。

自由理論のどこにも、他の政治的価値に対する自由の優先性の十分な証明が見あたらない。〔中略〕自由主義的諸原理の偽りの普遍性は、自由主義哲学の自己欺瞞の結果であり、その自己欺瞞によって、あらゆる純粋な道徳的、政治的推論が持つ個別主義的性格は否定されざるをえない。」

 ではどうすればいいのか。グレイは2つの道を指し示す。

「まず第一に、ピュロニズム的方法〔ピュロニズムとは、ピュロンを祖とする懐疑主義の一種で、真理の探究を継続的に求める立場〕――いいかえれば、ヒュームの懐疑的ピュロニズムに、われわれの自己理解の様々な形態が歴史的創作物にすぎないという洞察を加えた理論的方法――を、現在のわれわれの状況に適用した場合、それは現代において有力な抽象概念の優位性を突き崩す役割を果たす。」

 つまりグレイは、リベラリズムはじめ、あらゆる政治思想を相対化し続けよというわけだ。文字通り、先に紹介した『古代懐疑主義入門』で取り上げられている「ピュロン主義」である。

 2つめの道は、いわばこうしたさまざまな政治思想の、フーコー「系譜学」を描き出すことにある。

「そこにおいてわれわれは、われわれの現在の様々な生活様式についての系統学や考古学を作り上げようとするのであり、それらの生活様式を歴史的な産物として理解しようとするのである。いかに途方のないものであったとしても、これこそがフーコーが試みているものであり、また、オークショットがその『人間営為論』で、フーコーとは別の(はるかに賢明な)やり方で試みているものに他ならない。」

 そうすることで、わたしたちは社会における実践者としての自己理解を得ることができるようになる。

「理論化の目的はわれわれに自己理解をもたらすことにある。その自己理解とは、われわれは、われわれ自身が受け継いだり採用したりする歴史上偶然に生まれた特定の生活様式の実践者なのだという理解である。」

 以上見てきたように、グレイは、リベラリズムを批判し相対化した後に、ではどのような社会を目指せばよいのかという点については口を閉ざす。ただただ相対化し続け、系譜学を描き出せというだけだ。そこに政治哲学的展望はない。


6.「自由」は本当にローカルな概念か?

 そこで最後に、リベラリズムの「自由」が、本当に普遍性をもたない単にローカルな概念なのか、少しだけ検討しておくことにしたい。

 グレイが「自由」というとき、何をもって「自由」といっているのか、あまり定かではない。しかし本書を読むかぎり、どうも政治的・社会的「自由」のこと、その「状態」のことをいっているように思われる。

 しかしわたしは、「自由」は「状態」ではなく、「欲望の本質」と捉えるべきだと長らくいってきた。

 これについては、拙著『「自由」はいかに可能か—社会構想のための哲学』(NHK出版)で詳論したので、ご興味のある方には参照していただければ幸いだ。

 どのような「状態」をもって「自由」というかは、人によってさまざまだ。それゆえ、何が絶対に「自由」な「状態」かと問えば、それは決して答えの出ない問いとなる。

 しかし、わたしたちの「欲望」を考えればどうだろう。「生きたいように生きたい」、つまり「自由」に生きたいという欲望を、わたしたちは誰しもが持ってしまってはいないだろうか。

 これを〈自由〉の欲望という。そしてこの欲望は、誰もが持ってしまっている、人間的欲望の本質だ。

 とすれば、この各人の〈自由〉の欲望をいかにできるだけ十全に達成していくことができるだろうかと、わたしたちは問うことができるようになる。

 実は人類は1万年以上もの間、この自らの〈自由〉を求めて、互いに争い合ってきた。ホッブズのいう「万人の万人にたいする闘争」だ(ホッブズ『リヴァイアサン』のページ参照)。

 そしてわずか二百数十年前、ルソーヘーゲルらによって、この〈自由〉の欲望を、互いに争い合わせることなく、できるだけ十全に叶えていくことのできる社会原理が見出されることになった。

 それが〈自由の相互承認〉の原理である。多様で異質な人びとが共存しうる社会原理は、この〈自由の相互承認〉の原理をおいてほかにない。

 この原理にのっとって社会をつくっていこうとする思想を、わたしたちはリベラリズムと呼んでいる。

 ただし余談だが、リベラリズムにもさまざまな形態があり、上述してきた「人間的欲望の本質は〈自由〉である」というテーゼから説き起こした「現代リベラリズム」の思想は、わたしの知る限りない。それが、今日におけるリベラリズムの混乱の原因となっているとわたしは考えている。

 しかしそれはともあれ、もし人間がどうしても〈自由〉をめがけてしまうのだとするなら、そしてそれゆえに争い合い、だからこそ〈自由の相互承認〉の原理が社会原理とされなければならないのだとするなら、この考えに「普遍性」がないとはけっしていえない。わたしはそう思う。さらにいえば、わたしたちは、「人間的欲望の本質は〈自由〉である」というこのテーゼを、みずから徹底的に検証・確かめることができるのだ。

 グレイのリベラリズム批判は、帰謬論に満ちたきわめて浅薄な批判だとわたしは思う。

 〈自由〉をめぐる哲学は、もっともっと深い思索が積み重ねられてきたものであり、帰謬論程度の反駁ではびくともしない。

(苫野一徳)

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