シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

はじめに


 現代フランスを代表する女性思想家、シモーヌ・ヴェイユ。本書は、34歳の若さでこの世を去ったヴェイユの、1934年に発表されたなんと20代半ばの時の作品だ。


 人はいかに自由たりうるか。そして、自由な社会はいかに構想しうるか。

 当時全盛だったマルクス主義を批判しながら、ヴェイユは問う。

 内容的には、それほど目新しいことがいわれているわけではない。しかし彼女なりに考え抜かれた人間的「自由」の条件は、改めてわたしたちに大切なことを思い起こさせてくれる。

 それは、人間的「自由」の根本条件は、わたしたちの「思考の自由」にこそあるということだ。

 「人間が思考する限り、彼は自由だ。」

 これは、ヴェイユの100年前のアメリカの思想家、R. W. エマソンの言葉だ(『エマソン論文集』のページ参照)。

 ヴェイユはエマソンなど読んだことはなかったかもしれないが、「思考の自由」を自由の根本条件と見なす2人の思想は、目新しいものではないにしても今日改めて重要だとわたしは思う。

 ヴェイユは、この個々人の「思考の自由」を、いかに社会において現実化しうるかと考えた。


1.マルクス主義批判

 本書第1章は、マルクス主義批判から始まる。ヴェイユは言う。

ルクスの眼には、つまるところ生産力の発展こそが歴史の真の動因であり、この発展にはほとんど限界がないと映っていたことを、われわれは知っている。

 生産力は無制限に発展する。それゆえ十分な生産力が確保されすべての人間が窮乏状態から脱した時、人間社会には真の自由が訪れる。しかし資本主義社会においては、その生産力が資本家に独占され搾取されている。

  したがって、革命によってこの生産力を解放しなければならない。

 マルクスはそういった。が、ヴェイユはここで鋭く指摘する。

「マルクスはなぜ生産力が増大するのかを一度も説明しない。」

 むしろ、生産力はすでに臨界点を迎えているというべきなのではないか。ヴェイユはいう。

この領域において、われわれはすでに有意義な進歩の限界に近づきつつある、と想定するほうが理にかなう。

「生産性の持続的かつ限界なき増加などは厳密にいえば構想しえないのである。労働がいつの日か不要になるという愚かしい概念を生じさせたのは、もっぱら技術的進歩の迅速さが招いた陶酔である。

 限りなき生産性の進歩が「神話」であるという指摘は、今日ではめずらしいものではない。しかしヴェイユの時代においては、先見の明だったというべきだろう。


2.抑圧の分析

 本書第2章は、「抑圧の分析」

 それは自由な社会を妨げる。抑圧はなぜ起こり、そしてどのように展開するのか。ヴェイユはこの問いに次のように答える。

 抑圧はなぜ起こるのか。それはまず、人間が自然の前に無力な部分があるからだ。だから自然を制御しようと権力が起こり、それにしたがって抑圧が起こることになる。

 そしていったん権力が起こると、それはより抑圧的になりつづけることになる。

闘争の勝利に欠かせない服従と犠牲を奴隷からとりつけるために、権力はいよいよ抑圧的にならざるをえない。」
 
 が、やがてそれは、自らの首を絞めるほどに拡張していくことになる。

権力は自身が効果的に機能しうる臨界の彼岸へと追いやられる。権力は自身が制御しうる領域をこえて拡張する。」

 かつてのローマ軍がそうだった。それは人々を抑圧する機械だったが、やがて拡大しすぎて、みずからの首を絞めるにいたった。

 資本主義もまた、いまそのような時期に来ているのではないか。ヴェイユはそう問う。


3.自由な社会の理論的展望

 第3章は、「自由な社会の理論的展望」。わたしたちは、いかに自由な社会をつくれるか。ヴェイユはいう。

「自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期がきている。」

 ここでヴェイユは、自由の根本条件としての「思考」をあげる。

真の自由を規定するのは、願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である。はたす行為のいっさいが、めざす目的と目的達成にみあう手段の連鎖とにかかわる先行判断から生ずるとき、その行為者は完全に自由だろう。

 わたしたちは、この社会を自由なものとすべく自在に操ることはできない。しかしそれでもなお、社会のあり方を一定思考に従わせられる時、自由の可能性を得るはずだ。

 それは、いうならば偶然を濾過する」ことだ。

 だが現実社会において、わたしたちは「自由な思考」を奪われてしまっている。

思考するのは機械のほうではないかと思えるほどに、方法を完璧に金属のうちに結晶化させた機械という奇妙な光景と、自動人形の状態にまで落ちぶれて機械への奉仕に縛りつけられた人間とを目撃することになる。

 労働者は思考することを求められず、ただ淡々と機械のいいなりになる。まるでわたしたち自らが、自動機械になり果ててしまったかのように。

 しかしそれは、自らの自由を自ら放棄してしまうことにほかならない。

 自由な思考を人びとの手に取り戻そう。ヴェイユはそう主張する。そしてこれが、本書におけるヴェイユの最大の主張だといっていい。

「集団的生が人間を服従させるのではなく、個とみなされた人間に集団的生が服従する、そのような社会の構想を純粋に理論的に形成しようとするならば、明晰な思考によって導かれる努力のみが介入する物質的生のありかたを思いえがく必要があろう。つまりは、ひとりひとりの労働者が、いかなる外的な規則にもしたがうことなく独力で、生みだすべき製品に自己の努力を適応させるだけでなく、自己の努力と集団の他の成員たちの努力とを調整せねばならぬことを合意する。


4.現代社会の素描

 最終章は、「現代社会の素描」。以上述べてきたような「自由な思考」が可能となる社会を構想するために、まずは現代社会がどのような状態にあるかを把握しておかなければならない。

 ヴェイユによれば、現代は経済戦争の時代だ。それは不安競合を生むがゆえに、国民を統合し強力な国家を作らねばならないという、「ファシズム」への誘惑を生む。

 ヴェイユはいう。

「ファシズムは自由な思考を滅ぼすという表現は不当だ。むしろ、なんら意義のない当局の御用教義を力ずくで強制できるのは、自由な思考が不在だからにほかならない。」

 逆にいえば、ファシズムに対抗できるのは、「自由な思考」をおいてほかにない。ヴェイユはそういうわけだ。

 すべての個々人の「自由な思考」の可能性を高めるためには、どうすればいいか。

 これが、自由な社会を構想するため、わたしたちがヴェイユから受け継ぐべき問いだ。


(苫野一徳)

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