ヘーゲル『哲学史序論』


はじめに

ファイル:Hegel portrait by Schlesinger 1831.jpg 哲学史上最難解の哲学者として知られるヘーゲルだが、本書では彼の哲学観がきわめて分かりやすく述べられている。

 ヘーゲル哲学の入門書として、最適の本だといっていいだろう。

 ただし私の考えでは、本書で披瀝されるヘーゲルの哲学観も真理観も、その5割くらいはフィクションとして打ち捨ててしまったほうがいい。

 ヘーゲルの他のページや拙著等でも何度も述べてきたことだが、私はヘーゲルを、その人間洞察社会原理論については、今なお右に出る者がほとんどいないほどの天才哲学者だと考えている。現代なお、彼の哲学は十二分すぎるほどに「使える」。

 しかし他方で、スピノザの有神論的形而上学(スピノザ『エチカ』のページ参照)を継承した彼の哲学体系それ自体については、時代の制約もあって、今日ではほとんど使い物にならない。

 ヘーゲルの形而上学的「フィクション」の根幹は、次のようなものだ。

 人間精神は真理(絶対精神)の本質を分有しており、歴史を通してこの真理自らを実現する。

 ヘーゲルにとって、歴史とは真理が自らを顕現し実現させていくプロセスにほかならない。

 そして哲学は、そのプロセスを認識する営みである。

 しかしこれは、検証不可能なフィクションというほかないものだ。絶対の「真理」などという思想に、今ではだれも見向きもしない。

 さて、しかし私は、たしかに人間は絶対精神(神)の本質を分有しているとか、真理は歴史を通して自らを実現するとかいった思想はフィクションにすぎないけれど、次の点については、これはヘーゲル哲学における最大の洞察といっていいのではないかと考えている。

 人間が分有しているとされる絶対精神の本質、それはヘーゲルによれば、「自由」である。そして歴史は、この「自由」が徐々に現実のものになっていくプロセスだとされる。

 ここから「神」とか「絶対精神」とかいったフィクション性を抜き去って、1つの仮説として、歴史を人類が「自由」をめがけこれをできるだけ獲得してきたプロセスと考えてみるとどうか。

 私には、これはきわめて説得的な歴史観であるように思われる。

 さまざまなところで繰り返し述べてきたことなので詳述は避けるが、人類は1万年以上もの間、「自由」を求めて命を奪い合ってきた。自らの「生きたいように生きたい」を実現するため、互いに殺し合ってきたのだ。

 その結果、ホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」や専制支配などを繰り返してきた(ホッブズ『リヴァイアサン』のページ参照)。

 しかし近代になって、人類ははじめて、すべての人の「自由」をできるだけ保障しうる思想に到達した。

 「自由の相互承認」の原理がそれだ。

 自らが自由になりたいのであれば、他者の自由もまた承認すること。そのようなものとして、社会を構想していくこと。自由を求める人間が真に自由になれるための根本条件は、この「自由の相互承認」をおいてほかにない。

 このことに初めて気がついたのが、ルソーやヘーゲルといった近代ヨーロッパの哲学者たちだった(ルソー『社会契約論』ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)。

 別段ヨーロッパがエラかったというわけではない。そうした思想に到達する、さまざまな社会的条件が整っていたのにすぎない。

 いずれにせよ、こうしてみると、人類史を「自由」の展開の歴史と捉えるヘーゲルの歴史観には、かなりの妥当性があると私には思われる。人類はたしかに、いつの時代も「自由」を求め、そしてそれをどう実現するか模索してきたのだ。

 今なお、世界は「自由の相互承認」からはほど遠い状態にある。近年の歴史には、そこからの後退さえ見出せる部分もある。

 しかしもしも歴史が「自由」の展開の歴史であるとするならば、あるいはそのようにしていくべきであるならば、私たちはもう一度、「自由の相互承認」の原理に立ち戻り、ここから社会を構想していくべきなのではないか。

 本書におけるヘーゲルの主張は、50%がフィクションだとしても、そのようなことを改めて考えさせてくれるものでもある。
 

1.哲学史とは何か

 哲学史というと、これまでの人類のさまざまな思想が、時代ごとにただ羅列されているだけのもの、という印象がある。

 しかしヘーゲルはいう。哲学史は、そのような「阿呆の画廊」のような単なる陳列品などではあり得ない、と。

「単なる意見の羅列を学ぶより下らないことがありえようか。」

 では哲学史とは何か。

 それは、「真理」が徐々にみずからを顕現させる過程の叙述のことである。

 ヘーゲルにとって哲学の目的は、この「真理」の顕現を認識することにほかならない。

「哲学の目的は、この唯一の真理が同時に、そこからすべての他のもの、自然の全法則、生命と意識との全現象の流れ出る源泉であることを(即ちこれらは、この唯一の真理の反映にすぎない)認識することである。」


2.歴史を通して実現される真理

 先述したように、ヘーゲルは「真理」を、スタティックなものではなく歴史を通して実現されるものだと考える。

 とすれば、哲学はこの「真理」が自らを実現させていく過程を認識する営みにほかならず、それゆえ 哲学史の全体は、それ自身必然的な首尾一貫した進行だ」ということになる。

 歴史上、あらゆる哲学は次の哲学に乗り越えられていく。そうヘーゲルはいう。

見よ、君の哲学を反駁し、駆逐するだろう哲学が、やがて必ず訪れるだろうことを。それは曾て他のいずれの哲学にも、もれなく訪れたのと同様である。

 しかしそれは、決して前の哲学の全否定というわけではない。すべては唯一の全体の契機として肯定的に哲学の中に含まれている」のだ。

 まさに、弁証法的哲学史観。

 テーゼに対してアンチテーゼが出され、両者が綜合されてジンテーゼとなる、とするヘーゲルの弁証法は徹底していて、たとえば次のような現象まで、ヘーゲルにかかれば弁証法的に捉えられることになる。

木の発展は萌芽の否定であり、花は葉の否定である。即ち葉は木の最高の真なる存在ではないのである。最後に花は果実によって否定される。しかし果実は、あらゆる前段階の先行することなしには現実性をもつことにはなりえない。」


 何でもかんでも弁証法的に捉えるヘーゲルの思考は、正直やりすぎだ。しかしある意味、気持ちのいいほどに徹底しているともいえる。

 ともあれ以上のように、歴史を通して真理が顕現し、哲学史はそれを叙述するものであるとするなら、最後の哲学の中には、一見過去のものであるように思われるすべてのものが保存され、包含されておらねばならない」ということになる。

 ということはつまり、過去の哲学をただただ後生ありがたがっているだけでは、意味がないということだ。ヘーゲルはいう。

ミイラは生きたものの間に持って来られると役に立たない。


3.科学、宗教、通俗哲学との違い

 つづいてヘーゲルは、哲学と科学宗教通俗哲学との違いについて詳論する。

 まず科学について。

 その対象とするものは、目に見える有限的現象だ。しかし哲学は、この現象を超えた「普遍的なもの」を認識する。その点において、哲学と科学は異なったものだとヘーゲルはいう。

 では宗教はどうか。

 哲学も宗教も、「普遍的なもの」を対象とする点においては同様だ。しかし宗教は、それをただ「感覚」や「信仰」においてのみ捉えようとする。それに対して哲学は、これを「概念」「思惟」によって捉えるものである。

「信心は、ただ彼方を思慕することである。哲学は、この宥和を思惟的認識によって実現しようとするものである。」

 最後に通俗哲学は、いわば人生訓のようなもののことを指す。これは単なる生き方の指南であって、真理を捉えるものとしての哲学とは全然違ったものである。ヘーゲルはそのように主張する。


4.東洋哲学の除外

 さらにヘーゲルは、哲学史のなかからインド哲学や中国哲学などの東洋哲学を除外する。

 というのも、東洋は専制の国々であるからだ。ここにおいては思惟の自由な展開は見られず、ただただ、専制的な運命を甘受しその中に没入しようとする思想だけが発展することになる。

精神は東洋から昇り始めると言ってよい。しかし、そこでは主観は人格としてはなく、客観的な実体的なものの中に没入しているのである。

 ヘーゲルはこうして、次の非常に有名な言葉を述べる。

東洋においては唯一の者(ein Einziger)、専制君主だけが自由である。ギリシアにおいては若干の者(Einige)が自由である。これに対してゲルマン世界においては、すべての者(Alle)が自由である、即ち人間は人間として自由である、という命題が堂々と適用する。

 「自由」が花開いたヨーロッパ。ヘーゲルに言わせれば、ここにおいてこそ、哲学もまた本当の意味で花開いたのだ。

(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.