ブレツィンカ『教育学から教育科学へ』


はじめに

 後に『教育のメタ理論』と改題された本書。邦訳タイトルは『教育学から教育科学へ』のままだが、教育学を「科学」にせよというあまりに強い「科学主義」との誤解を受けやすいとのことで、後に改題されることになったのだという。


 確かに本書では、教育学を「科学」にせよという、『教育科学の基礎概念』以来のブレツィンカのモチーフに若干の変更がみられる(ブレツィンカ『教育科学の基礎概念』のページ参照)。

 むしろ、教育学を「教育の哲学」「教育科学」「実践的教育学」の3部門に分け、それぞれに固有の方法が必要だということ、そしてそれぞれの役割と相互関係について明らかにしたのが本書だ。

 以前、『教育科学の基礎概念』についてはかなり批判的な紹介・解説を書いた。

 それに比べると、本書には大きな進展がみられるとわたしは思う。

 しかしそれでもなお、わたしの考えでは、本書は「教育のメタ理論」としては不十分だ。

 その理由は2つある。

 1つは、新たに重視された「教育哲学」部門の中心課題を、教育の「規範」「目的」を探究する部門と位置づけながらも、ではそれをどのように解明すればよいかということについて、ほとんど何も明らかにしていないこと。

 もっともこれは、現代教育哲学における最難問の1つとされているから、この点だけをもってブレツィンカを批判するのは、あまりフェアではないかもしれない。

 しかしもう1つの問題は、まさにブレツィンカの研究の“核心”部分であるがゆえにこそ、やはり批判されるべきではないかと思う。

 それは、彼が最も心を砕いた「教育科学」の部門について、その「科学性」をいかに担保するかという考察が不十分だということだ。

 彼自身、自然科学と異なり、研究対象の一回起性と可変性が高い社会科学の法則知は、経験的な一般化に限定されたままであるのか。それとも仮説演繹的な言明体系という厳密な意味での理論となるのかどうかは、目下のところまだはっきりしていない」といっている。

 しかし、改題されたとはいえ、一度は「教育学から教育科学へ」を掲げ、そしてそれまで何度も教育学を「科学」たらしめよと訴えてきた以上、この点を徹底的に解明しない限り、ブレツィンカの研究は不首尾に終わったといわれても仕方ないだろう。

 もっともわたしがブレツィンカにこうも批判的になってしまうのは、彼が探究した「教育のメタ理論」を、わたし自身もこれまでに探究し、そして一定「体系化」し得たと考えているからだ。

 まず「教育の哲学」、すなわち教育の「目的・正当性・構想指針原理」を解明する部門については、そのメタ理論を、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)など、これまでさまざまな著作で明らかにしてきた。

 「教育の科学」についても、『信念対立の克服をどう考えるか』(北大路書房、共著)などで一定明らかにしてきた。

 2013年現在、これら成果を踏まえて、新たに「教育学のメタ理論」を体系化する研究を進めている。

 こうしたわたしの研究関心からすると、ブレツィンカの研究は、もちろん参考にすべき点も多いが、どうしても不徹底な感を免れない。

 とはいえ、長らく学問として一段低く見られてきた教育学を、しっかりした学問体系たらしめようとしたブレツィンカの研究には、わたしもとても勇気づけられる。

 以下、彼が開いた新領野をみていくことにしよう。


1.教育のメタ理論とは?

 「教育のメタ理論」とは何か?ブレツィンカは言う。

「この種の研究は、教育そのものではなく、教育の理論を対象としているので、それは、『教育理論の批判的・規範的理論』もしくは簡潔に『教育のメタ理論』と言い表すことができるであろう。」

 さまざまな教育理論それ自体を基礎づける理論、それがメタ理論だ。わたしなりにいうと、さまざまな教育理論を「ソフト」とするなら、それらを相補的・協同的・整合的に動かせる「OS」のことと考えればいいだろう。

 そこでまず、ブレツィンカは教育学を次の3部門に区別する。

未分化な教育学から、分化された、教育科学、教育の哲学、実践的教育学へ

 以下、それぞれの部門についてのブレツィンカの考察を概観しよう。


2.教育科学

 まず、教育科学とは、基本的に「社会学」「心理学」に依拠した実証科学のことをいう。

 ヘルバルト以来、教育学の方法は「心理学」に依拠すると言われてきたが、これに当時はまだほとんどなかった「社会学」を付け加えたのだといっていい(ヘルバルト『一般教育学』のページ参照)。

 とはいえ「教育科学」と言われる以上、社会学と心理学に依拠しながらも、その対象はもちろん「教育」一般にある。そしてその課題は次のようだ。

「教育現象およびそれと関連した他の現実の部分を記述することは、教育科学の第一の課題であると一般に認められている。第二の課題として教育科学に課せられるのは、記述された現象を説明することである。現象の原因あるいは現象を成立させている条件が問われるのである。」

 教育現象の記述と説明、これが教育科学の課題である。

 ブレツィンカは言う。この研究において、教育の「目的」は所与である、と。

 つまり、「教育科学」は教育の「目的」は何かを探究するのではなく、与えられた「目的」がちゃんと達成されているか、そしてどうすれば達成されるかを研究するものなのだ。

「教育科学の主要な問題は、教育目標を達成するための諸条件を研究することである。」

 教育の「目的」を探究するのは「教育哲学」の役割だ。「科学」にそれをすることはできない。

 ヴェーバー以来「常識」になっているように、「存在」から「当為」は導けないのだ(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』のページ参照)。

 では、自然科学に比べてあまりにもソフトなこの「教育科学」は、いかにして「科学」たりうるのか。

 ブレツィンカはこのテーマにさまざまな角度から挑むのだが、先述したように結局答えは明確には出されていない。

 したがって本書における「教育科学」についての記述は、これが「教育哲学」とは明確に区別されるべきだという、ある意味では「常識」的なことを、再確認したにとどまっているのでないかとわたしは思う。

 もっとも教育学においては、従来そのことにさえ無自覚であった面があるとはいえるかもしれないが。


3.教育哲学

 「教育哲学」は、先述したように教育の「目的」「規範」を導出する部門である。

 しかしこの部門は、つねにきわめて大きな困難を抱えてきた。

価値評価や規範といった分野は、非常に広大で見通しがきかないだけでなく、他の知識領域にはほとんど類をみないほど理論的に解明されていない分野でもある。」

「それ以上に重要なのは、価値の認識や規範の根拠づけの可能性と方法に関して意見が一致しないことである。」 

 目的や規範は、それが解明されていないばかりでなく、どう解明すればいいかという、その「方法論」それ自体がはっきりしていないのだ。

 ではその「方法論」をどう構築すればいいか。それこそが「教育哲学」の最重要課題だが、先述したように、ブレツィンカはこの問いに挑まない。やはり本書における「教育哲学」についての記述もまた、これが「教育科学」とは明確に異なった方法を必要とするものだということを、再確認したにとどまるといえるだろう。


4.実践的教育学

 ブレツィンカが提唱する教育学の第3部門は、「実践的教育学」だ。

 これは、「教育哲学」が提示した教育目的を、いかに達成しうるかを明らかにする「教育科学」の知見を活用し、それを状況に応じた「使える」理論として提示していくものだといっていい。

実践的教育学は、むしろ教師に対する自由な理論的提案であり、多元的社会における複数の競合的提案のうちの一つにすぎないのである。

 「すぎない」とはいっても、しかしこれこそが教育学の教育学たるゆえんだともいえるだろう。ブレツィンカ自身、実践的教育学がいかに重要な部門であるかについては言葉を尽くして論じている。


 以上、本書でブレツィンカは、教育学の3部門を明らかにし、それぞれ異なる方法を要すること、そしてそれらが相互作用すべきであることを論じた。

 しかし繰り返し述べてきたように、わたしには、それが従来の教育学の「あいまい」さを払拭するものとしては意義深かったとしても、「メタ理論」と呼ぶにはまだまだその最初の1歩にすぎなかったと思われる。

 とはいえそれでも、大きな一歩ではあっただろう。

 ブレツィンカの問題意識を受けて、長らく「学問」として低く見られ続けてきた教育学を、今後より信頼に足る学問にしていく必要があるだろうし、またそれは可能だろうとわたしは思う。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.