ブレツィンカ『価値多様化時代の教育』


はじめに

 『教育科学の基礎概念』において、教育学を「科学」たらしめんと試みたブレツィンカは、やがてそれだけではだめだと気づいたようで、『教育学から教育科学へ』においては、教育哲学教育科学実践的教育学の相互補完性について論じることになる(ブレツィンカ『教育科学の基礎概念』『教育学から教育科学へ』のページ参照)。

 そして本書では、ついにより実践的な教育の「価値」についてが論じられることになる。

 しかし、本ブログではこれまでもブレツィンカの著作に対しては批判的な紹介・解説をしてきたが、本書もまた、残念ながらわたしの考えではきわめて不徹底だ。

 というより、「教育科学」を論じていた時はまだそれなりに「学問」性があってよかったかもしれないが(それでもわたしは原理的にいって批判されるべきだと考えているが)、「価値」を論じ始めたブレツィンカの教育論は、保守的などこにでもいる「おじさん」の価値観の披瀝にすぎないとわたしは思う

 教育学を純粋に「科学」たらしめんとした試みがうまくいかず、むしろやはり「価値」を論じなければならないとある意味方針転換したことは、そもそも当たり前のことではあるが一応誠実なことだったと思う。

 しかしだからといって、ほとんど自分の「趣味」的価値観を披瀝するだけでは、それは「教育のメタ理論」を構築するといってきたブレツィンカの研究を、自ら著しくおとしめてしまうことにもなりかねないのではないか。

 もちろんブレツィンカは、本書で「いいこと」をたくさんいっている。しかしそれはどこまでも一般論としての「いいこと」で、そこには哲学的な深みも洞察もほとんどない。

 このブログの多くのページでいってきたように、すぐれた哲学には、「なぁるほど、これは確かにそう言わざるを得ない」と言わしめるような、唸るような「洞察」が必ずある。そうした水準からみた時、ブレツィンカの教育論は、残念ながら、根拠薄弱な「趣味」の表明、よくて一般論にすぎないとわたしは思う。


1.価値の方向づけの危機

 今日、価値観があまりに多様化し、教育はその方向づけの危機に陥っている。ブレツィンカは本書冒頭でそう述べる。そしてそれは、まさに教育の危機である。

「価値の方向づけの危機は、どのようなものであれ教育の危機を惹起せずには措かない。ものごとの価値を評定するさいの確信の無さは、教育における確信の無さに連動する。」

 この危機の背景には、1.合理主義、2.個人主義、3.快楽主義があるとブレツィンカは言う。生きる意味など非合理なものを考えられない合理主義と、個人のわがままと快楽だけをよしとする潮流が、危機の背景にある。


2.どのように危機を克服するか

 ではこの教育の危機を、わたしたちはどうすれば克服することができるだろうか。

 ブレツィンカは言う。必要なのは、躾け、被包感、権威、宗教、道徳的決断といった諸要素だ、と。

 要するに、自信と権威をもってちゃんと子どもたちを導けということだ。

 何とも保守的な一般論ではないかと思うのだが……。


3.解放的教育学とその問題

 危機を生んだ理由の1つに、解放的教育学があるとブレツィンカは言う。

 解放的教育学は、社会改良のための教育を訴えた。

「個人に関心が持たれる場合でも、それはもっぱら社会=政治上の目的を実現するための手段としてだけである。」

 このような教育学は、もっぱら「批判」のみを旨とした。しかしそれでは肯定的な価値など持ちようがない。ブレツィンカは言う。

教育的に批判へと導くことは必要なことであるが、しかしそれは、子どもたちが帰属する共同体の拠り所となっている生活様式や人生解釈を、是認したり肯定的に理解したりするよう導いてやることへの補完としてのみ必要なのである。成長しつつある人間にとって、先ずは所与のものを承認し、その意味を信頼することが優先しなければならない。」


4.信仰の重要性

 ではこの価値なき時代にかえりみられるべきは何か。

 ブレツィンカはその1つとして「信仰」を挙げる。


「信仰篤いキリスト教徒やユダヤ教徒や回教徒にとって、この基本態度は神への信頼から生じる。万物を善きものとして創造し、かつ慈しみ給う人格的な創造主を信じるがゆえに、彼らは、自分たちの生と世界を肯定するのである。このような基本的信念は、おそらく詩篇第三〇篇二節に最も力強く表現されているであろう。「おお主よ、私はあなたを信頼します。私はとこしえに滅びることはないでしょう」。こうした信仰を分かち合うことのできる人こそ、基本的信頼や人生の意味や生きる勇気などを与えてくれる、最も確かな源泉を持つことになる。
 これに対して、そのような信仰を持たない人にあっては、生への確信や世界への信頼を獲得し保持することは、自分にも、またその子どもたちにも著しく困難になる。」

 本書の出版は1986年。いくらなんでも時代錯誤な感を免れないがどうだろう。保守的な「おじさん」の価値観、とわたしがいう理由もここにある。


5.教師の人格

 ブレツィンカはまた、教育にとって最も重要なのは「教師の人格」だと主張する。

「学校に通うということの成果を規定する学校内のあらゆる条件因子の中でも、とくに教師の人格が最も重要な因子であり、それは丁度、家庭教育の成果を規定する家庭内のあらゆる条件因子の中で、親の人格特性が最も重要であるのと同様である。」

 それはもちろん、その通りだろう。

 しかし学校システム全体として考えた場合、一人ひとりの「教師の人格」にあまりに頼りすぎるのは、わたしの考えではかなり非現実的だ。

 むしろ、多様な教師がいかにしてそれぞれの特性を活かし合えるかと考えたほうがいい。

 すぐれた教師はすぐれた教育をする、という固定観念は、教育の世界になお根強い。

 もちろんそれは重要なことだ。しかし、どれだけすぐれた教師といわれても、その先生を嫌いな生徒は必ずいる。その先生に苦しめられていると感じる生徒だっている。逆もまたしかり。

 だから、一人の教師の人格を高めることも大切ではあるが、システム全体として、多様な教師が互いの力を活かし合える教育のあり方を考えたほうがずっと原理的だとわたしは思う。ブレツィンカには、そうした視点がほとんどないように思われる。

 それゆえブレツィンカは、教職科目に「職業倫理学」を設け必修化せよとさえいうのだ。ただし、そのことで「倫理」に嫌悪感を覚える学生もいるだろうがと付け足しながら。


 以上みたように、ブレツィンカの教育「価値」論は、学問的に考究され抜いたものではとうていなく、わたしには彼の趣味の披瀝のようにしか思えない。

 「価値」について、わたしたちは、ざっと挙げただけでも、プラトンやニーチェやバタイユやアーレントなど、きわめてすぐれた洞察を展開した哲学者たちをもっている。

 そうした哲学者たちと比べると、ブレツィンカの「哲学的」探究には、どうしても失望を禁じ得ない。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.